第35話

 ジノヴィオスは酒場にも見かけなかったが、誰に相談しても詮ないこととは分かっていた。恩に報いる方法はひとつしかない。師の房に見つけたあのパピルスは、懐にしまってある。

(小生の問題で、リンが自棄やけになったとも考えにくい。人形に救いの手を差し伸べられなかった鈍物に叱責を言い置き、あの夜はそのまま房に戻ったものと思える。酔いが覚めて早朝に起き、ただ正義感のために無頭人エグリゴリと対峙した、といったところか。もはや手遅れと決めつける根拠も、迷っている暇も、おそらくない。しかし……)

 異端者の刑罰に続く無頭人エグリゴリの出没という事件に、酒場は大騒ぎになっていた。早くから酒をあけ、酔いつぶれて不運からの逃避をはかりたいのは、ユッタも同じである。

「おじさーん、林檎酒シードルいっちょうください」

 酒場のカウンターにうなだれたユッタの隣に座り、脳天気な大声で注文する者があった。先ほどの黒髪の少女である。腰掛けスツールが高くて床に足が届かず、ぷらぷらと宙に遊ばせている。酒と言ったか、と都市まちの食料頭とユッタは胡乱な目つきで彼女を見た。少女はユッタを見返し、気さくなふうに声をかけてきた。

「さっきはどうもね。お礼に一杯おごってあげよっか」

「……子供がなにを言っているんだ」

「むー、失礼だなきみは。あんなにたくさんかけられちゃ、もう子供じゃいられないよう……」

「おふざけに付き合えるような状態じゃないんだ。見て分からないのか」

「はなげが伸びきってるところを見るに、たしかにストレスが溜まっているようだね」

 ユッタは鼻をかきがてら、それとなく穴のあたりを探ってみたが、はみ出ている感触はない。思わず少女を睨むと、「ぷーっ」と吹き出された。「だははははは」

「どこの悪がきだ。凍境から出てきたばかりで、しつけもなっていないらしいな」

「凍境から出てきたのはあってるよ。私窩子みたいに、神官お墨付きのことではないけどね」

 少女が神官に追われている身の上であったことを思い出したが、

「どうせ他愛ないいたずらをして、叱られるのから逃げているのだろう」

「創造主の御業をただの子供のいたずらと思われちゃ困るけど、てんで間違いってわけでもないのがまた困るところだなあ」

 ユッタは何かうそぶいた少女の横顔を見つめた。食料頭がしぶしぶ出した林檎酒シードルのボトルを握り、豪快にあおって喉を鳴らしはじめる少女の様子も、ぼんやり見守るほかなかった。

「ぷは。君、困ってるみたいじゃん。青瓢箪あおびょうたんのうらなりづらをぶっさげて、酒場で何を気落ちしてるのさ。神官に見つからないうちなら、ちょっとは手を貸してあげないこともないんだよ」

「……いったいどういう女の子なんだ、君は」

 むっとする酒気を一瞬で吹き飛ばすよう、快活に少女は名乗った。

「イエッセウス・マザレウス・イエッセデケウスと言ったら、信じてくれる」

 長い名前に、聞き覚えがなくはなかった。考えるうち、ああ、と思い至ったのは、至高神の隠された神名の記述様式を語る聖書ケノボスキオンの一節であった。誰にも見えず、対象化されないため、名指されることもない至高神の名前は、やはり通常の言語では記述されえない。最終的に魔術的舌語グロッソラリアにまで分解される神名の、崩壊一歩手前の記述式。それが、イエッセウス・マザレウス・イエッセデケウスなのである。その神聖な名をぬけぬけと口にするとは、

「……神官が怒るのも無理はない。なんて冒涜的な小娘なんだ」

 ユッタが仰天して目を見張ると、至高神の名を騙る少女はにへらとぬるい笑顔を返した。

「よかった。今度は冗談が通じる人だったね」

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