第14話

 頭上で帆を張る音がした。銃口を目前に迂闊にも見上げると、マストの頂点でリンが青空を仰いで快活に笑っていた。帆を叩く風は思いのほか強く、ひっつめに縛っていた彼の銀髪が後ろで解けた。銀髪は大きく肩に広がり、前髪もずいぶんと長い。こうして見るとまるで、

「ジノヴィオス、彼が来たの? 殺さないで。少し待ってちょうだい」

 リンは高い声を上げると、マストにしがみついて猿の木滑りのようにするすると甲板に下りてきた。リンはユッタに微笑みかけると、礼拝服アルバを鬱陶しげに脱ぎ捨てて、その下に、黒の上下のミニビキニを着用しただけの、すらりとした肢体をのぞかせた。

「神官の手先だろ、ディオニシア。早く始末して海に出ないと、さっきので帆を破られるぞ」

「大丈夫よ。あいつら平和ぼけだから、聖なる方舟がどうこう言って、立派な船はこれひとつしか持ってないの。惜しみ性で宗教馬鹿だもの、壊せるわけがないわ」

 帆は風を孕み、港を離れつつあった。ユッタは思わずまじまじとリンの胸元を見、なだらかではあるが確かに男性のそれではない膨らみの曲線をそこに認めた。ジノヴィオスと呼んだ男から振り返ったリンは、ユッタのあからさまな視線を意にも介さず、まっすぐに見つめ返してきた。

「さっきの口ぶりだと、まだしもこの国の神官連中に骨抜きにされてないみたいだけど。もしかして、君も燐性者フォスフォレッセンスなのかしら」

「なんだって?」

 肌もあらわな格好で胸を張るリンは、口調と躰に性別を明らかにしながらも、その悠然とした所作には、美少年のマスクにもなかった男性らしさを感じさせる。

「炭鉱労働者が掘削作業に使うだけあるってものよね。燐光ハルモゼルなんて、信心のかけらもない私にだって修得できたんだから。君も大陸国パンタリィ生まれ肉獄国ソマセイナ育ちの間諜か、って聞いているの」

 まだ呑みこめないユッタがよほど間抜けづらをしていたのか、あっさりと警戒を解いたジノヴィオスは手ずからリンの肩を外套マントで覆い、その細腕には黄金の弓を手渡した。

「このシェキナきゅうを持ち帰るためだけに、辺境の島国に何年潜伏したのやら。俺は四光術だかにはからっきしだったが、ディオニシアは要領がいいものな。船倉にはたっぷり食糧が残っていた。このまま愛しの祖国まで、気ままな船旅と洒落込もうや」

 仕事も一段落だと藹々あいあいとしたふたりを前に、気づけばすっかり陸も遠のいて、ユッタは水晶の剣を握った手のひらが汗で冷めるのを感じながら、立ち尽くしていた。

「……その様子じゃ生まれも育ちも、ってところみたいだけど、君もこの国の連中にはくさくさしてるんでしょう。長い船旅に人手も欲しいし、君も来てみない。大陸国パンタリィに」

 パンタリィとソマセイナというのは、大陸側の人間から本土と敵地を呼び習わすものであろう。ユッタは混乱を鎮めてリンに返した。

「確かにこの国はやりづらい人間ばかりで国体にも疑問があるが、拗ね者には拗ね者なりのやり方はある。いきなりの国外逃亡には、腹を決めかねる余地があるよ」

「度胸がないんだから。ここの男の子たちはみんなそうだったわ、極端な恥知らずか極端な青二才。教義ドグマにばかりこだわって、人付き合いの機微を楽しむセンスに欠けるのよね」

 くびれた腰に手をやって嘆息するリンの呆れ顔に、ふとコウのことを思い出すユッタだったが、すぐにリンは表情をぱっと明るくし、

「天使がどうのと夢見たようなこと言う前に、私たちの国で一度遊んでごらんなさい。じめじめした島国とは大違いなんだから。自由かつ開放的に、人々は生活の全てを謳歌している。性に関してもそういうことよ。女のまがい物を抱くのにも、飽きているのではなくて?」

 スリムで背も低くない、わずかな布地で要所を覆っただけの扇情的な女が言えば、それらしいお言葉ではあった。とはいえ、どちらかといえば起伏が控えめで、熟れるとも熟れないともつかぬ、少女の躰と形容するに相応しいリンのそれである。ユッタにしてみれば、説得されるに不十分で、ただ挑発に対しての反発をあらわす以外にない。

「まがい物と捨て去るには私窩子は人間臭すぎるし、間違いなく我々とともに日々を生きている異性だよ。それに、禁欲の裏返しの淫蕩と、屈託なしの居直った放蕩、どちらも比べがたく呆れたものだと、小生には思える」

「なにそれ。ふふ、小生だって」

 自らのビキニスタイルに大陸の性の乱れを偏見されたのに構わず、リンはころころと笑った。

「君、やっぱり面白いかもしれない。青二才にしても、ここまでくそ真面目というのは珍しいもの。行きましょうよ。人形愛のお目当てを天使にすり替えてばかりいちゃ、真面目もいつか腐ってしまうわよ」

「……青二才でも腐っても構わんが、人形愛の目的を天使にすり替えていると言ったのか?」

 眉をひそめたユッタに、リンは「ええ」と頷いた。

「順序を入れ替えないでもらいたい。人形私窩子への愛は、その花床サラムスが刻む天使像と我々堕天使の合一こそが眼目だ。我々は我々の一抹の天使性が私窩子の宿した天使と合致することを信じて、肉に溺れかねない危機という状況へ自らを投じる。性交という人間存在の究極にこそ、天使の御心を確信してだ。それは疑いなく信仰という事態であろう」

 静かな口調にも激しさが混じるユッタの反駁を、リンは鼻で笑った。

「実存論っぽく言い換えてるけど、発想は予定論のバリエーションじゃない。あらかじめ、天使だか神様だかに決められた運命の恋人がいるってことでしょう。けど、その理屈は一夜妻をやり捨てた罪悪感に生まれたあとづけのものでは?」

「そうであったとしても、所詮は一夜の仲と舐めてかかる風潮を咎める意味はあるはずだ。神官の一存で子宮を押し付けられた私窩子に、我々が払うべき最低限の敬意でもある」

「人同士の道徳につながるというの。なるほど、人格神の宗教ならまっとうな筋運びでしょうね。で、私に疑問なのは、その戒律を与えたのは神ではなく神官よね。巫女は本来神そのもの、とかの議論は措くとして、人が人に無理強いしたような嘘の倫理に納得できる?」

 蔑んだような問いかけだったが、リンの口調にもいつしか熱が入っていた。

「君の……リンの国の神話がどうかは存じ上げないが、我々の神は無人格だよ。神は人の妄想、と極論するには、その妄想が真摯すぎることに手を焼く事情はどこも同じだろう。現状の教会に不満はあれ、信仰の基礎は揺るがない。支配構造は承知のうえでも、生活上での徳というものはある」

「たしかに真摯で厄介な妄想だこと。飼いならされた奴隷道徳、とまでは言いたくないけれど、そうしたもろもろが人形愛に集約されるなら、詭弁という指摘すら生ぬるいと思わない?」

 弁が立つものの、露悪的な結論にこだわるリンに、ユッタは苛立ちを隠せなかった。

「私窩子が人形でなく人間そのものだと、どう言えば納得してくれるんだ?」

「元を正して、この国における人間というものの成立について問うてもいいけれど?」

「聖書の教えを理性で受け取り、判断して生きてゆく意志があることだ。それさえあるならば、本来神の被造物である人間と、神の代理人の被造物である人形と、どこに違いがある」

 ほとんど怒鳴り声になったユッタの弁を、咀嚼するように少し黙ってから、リンは言った。

「あたしは生理学的に大違いだと思うわ。だってそうでしょ、ご立派を言うけれど、そもそもあれに自我って認めていいものかしら。結局、子宮に脳味噌を繋げた化け物じゃない」

 あまりに平然と言ってのけたため、ユッタはとっさに何も返せなかった。

「あたしも色んな人形に会ったけど、抱かれるたびに違う男にあたかも純潔ですって顔してさ。君の考えは分かったし興味深いけど、実際問題、分からないのよ。だって、あたしの国に腐るほどいるあほだらまんこのあばずれどもより、よっぽどたちが悪いんですもの」

 やはりユッタは怒っていいのかどうか、少しく判断いたしかねた。ふたりの口論を見かねたか、船倉から食糧の一部を運ぶ途中のジノヴィオスが口を挟んだ。

「口が悪いぞ。勘弁頼むぜ、ディオニシア」

「ごめんなさい。でも、これだけ言わせて。だいたい、童貞でしょう、あなた」

 感情のままに暴力をふるうにも、機を逸した感があった。私窩子のためにはもう怒れない。ここで殴れば図星だと、情けない身の潔白の証しを立ててしまうだけである。修道士として誇るべきことだと強弁したところで、何にもならないことも明らかであった。

「君の倫理観を侮辱するつもりはないわ。でも、それは性の問題から発し、また帰ってくるものだとしか、あたしには思えない。地に足が着いていないのよ。察しがついてしまう」

 リンの哀れむようなまなざしに、開き直る元気も起きないユッタだった。性と宗教感覚が分かちがたく結びついたわが性状を、これほどみっともなく思ったこともない。核心を突かれれば、結局は立つ瀬ない心地にとらわれる。沖へ向かいゆく船上から、火之本の国の港を振り返った。

 蒼い海原に浮かぶ緑の島は、気づけばもう後戻りできないと思われるほど遠い。潮風がユッタの頬を撫でる。うつろな思いが押し寄せるのは、あの国と、あの国の人々を、結局は心から信じることができず、己ひとりをごまかす理屈をこねていただけと自覚されるためであった。

(性愛が先でも、信仰が先でも違いはない。どちらにも白けている自分を、どうやり過ごすかだけが問題だった。ついぞ私窩子を買わなかったのも、他者を相手にしたくなかったからか)

 いっそ、このまま異邦人に従って大陸に移住するべきか。自閉のために費やした青春を故郷ごと捨てるのは、己の愚に一矢報いるかのようで、愉快になれるのは確かだろう。それが一時の憂さ晴らしに過ぎぬとて、気宇壮大の志に現実が追いつかぬ青年にとり、人生の一大事を舐めてかかって後悔すること以外に、気を晴らす方法があるだろうか。流れに任せた自暴自棄に破滅するのもまた痛快。そうユッタには思われてならなかった。

「……そうそう、君にしてほしかったことがひとつ。それだけが、少し心残りだったの」

 海面を見下ろして黙りこむ船縁ふなべりのユッタに、リンはあらためて声をかけた。振り向いたユッタに手渡されたものは、リンとジノヴィオスの目的の品、黄金の弓だった。

大陸パンタリィのお偉い人のご使命一下、たかが金ぴかの棒きれじみたもの、長年の潜伏に見合う価値が果たしてあるのやら。あの神官が言うように、天使の権能を引き出すに火之本的な信心が必要というならば、持ち帰って無用の長物にならない保証はないのよね」

 神官が俗な修道士には語り渋った神の器。天使のような純粋思惟で、肉身すらも思考の速度で飛ばせるというのだから、本当ならばとんでもない代物である。

「天使軍は、実在するのか?」

「それも疑わしいのが信徒の現実ってわけね。あたしは天使軍に焼かれた村の出よ、育ての親に聞かされた。実際に見ちゃいないけど、見たと思った瞬間には死んでいると伝え聞くわ」

 彼女の出自も、実際の天使軍のありようも、ユッタをぞっとさせるものであったが、リンの目顔が早く、と促していた。ユッタは水晶の剣を捨てると、弦を引いて弓を構えた。

(天使は器官的感覚抜きに事物の本質を認識できる。ただそれを知りたいと思うだけで……。その権能だけを封じた品物といえば、なんとも虫の良い話ではある。その権能に見合うだけの何かを持っていると自負できるのも、またお気楽なことには違いない……)

 本質だの真理だのと言い表せばこれほど僭越なこともないが、ユッタは失意めいた憂愁ついでに、認識したいその対象とやらを心に浮かべることにした。神話の真実、信仰の本懐、自然界の原理。仰々しい大問題、定義できれば底から安楽を得られるであろうが、そんな核心を知ったところで何がどうなるものであろうか。そう諦観したところで、これといった友人もないユッタには、卑近な願いすらも見つけがたい。いったい、自分に故郷への名残など、微塵にでもあるのであろうか。

(……肌身のぬくもりと魂の温度に、因果や連関というものはあるのだろうか)

 せいぜい思い当たるのは、昨夜の同衾の余熱だけだった。ユッタの気にかかる謎といえば、それだった。ただひとり、躰を重ねあわせた人形私窩子が、自分をどう思ったのかだけが。

 夜来香イエライシャンのいつも不満げに見える顔と、なかば瞼の下りた瞳を思った。その肌の温かさと、今も残るようなそのほとぼりを思った。突き詰めれば、自分にとって確かなものがそれだけなのだということに、ユッタはようやく納得がいった。

我、叡智を信ぜしよりピスティス・ソフィア

 祈りの文言を唱え、彼女の面影に矢を放つように、ユッタは弦を弾いた。

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