第41話 老忍びの意気地

 角兵衛と方丈斎は、老齢とは考えられぬ速さで風のように木々の間を走り続けている。互いに呼吸を測って牽制をしてはいるが、二人の意志は一致していた。すなわち、八郎から距離を取ろうとしている。彼の手によって二人の対決に水を差されないようにするためだった。

「困ったものだな。老人というものは」

「若さにはやり直せる力と立ち上がる時間がある。どちらも老人にはもはやないものだ」

「――しがらみばかりが増えて不自由極まる」

 そういいながらも角兵衛と方丈斎は愉快そうに目を細めている。

 老人の背中には重いしがらみが絡みついているが、そのしがらみこそが老人が生きてきた証である。死に臨んでそのしがらみと向き合うのは存外に気持ちの良いものであった。

 思えば忍びとしての生き方以外を知らずに生きてきた。もし来世というものがあれば、今度は別の生き方があってもいい。だがそれは――あくまで忍びの生き方を貫いてからのことだ。

「――――そろそろよいか」

「うむ」

 十分に距離が離れたものと方丈斎が頷いた瞬間には、すでに角兵衛の手から幾条もの礫が放たれている。大きく弧を描いた礫は方丈斎の手前で交差して大きな火花をまき散らした。

「燧石かっ!」

「歳を食うとこんな手妻ばかり覚えてしまうでな」

 火花自体に威力はないが、飛び散る火花から目を庇うのは人間の本能だ。一瞬だけ方丈斎の反応が遅れ、それを待っていたかのように頭上から礫が襲いかかる。

「なるほど、確かに歳を食うのもそう悪いことばかりではないな」

 方丈斎は、頭上に視線を送ることもなく、ただ勘だけでその礫を全て躱しきる。長年戦場で生死の境にいたものだけが感知する第六感が方丈斎は伊賀組のなかでも群を抜いて高い。

 それすらも予想していたように、角兵衛はさらに礫を放っていた。変幻自在の時間差攻撃であるが、これもあっさりと方丈斎に躱されてしまう。

 身体に普段のキレがないことはわかっていた。大善との戦いで負った怪我は八郎が考えている以上に深刻なものだった。老齢から回復が遅くなっているばかりでなく、傷が化膿して内臓まで侵し始めていた。全身にまとわりつくような倦怠感が抜けず、このまま養生しても今年の冬は越せないことは角兵衛自身が誰よりわかっている。だからこそまだ身体が動くうちに方丈斎との決着をつけたかった。

 勝てるかどうかは問題ではない。忍びとして戦いのなかで死ねること、それが角兵衛の願いであり、敬愛する主君長束正家に殉ずることができなかったことに対するひとつの贖罪であった。

「――――あまり時間はかけられぬか」

 死に方にも品位というものがある。疲労と怪我で醜く動けなくなって斃れるなど鵜飼藤助の死に方としてあってはならない。主君から下された任務であれば話は別だが、今の二人は互いに己の誇りのために戦っているのだから。

「鵜飼藤助、引導を渡す男の顔を覚えておくがよい」

「はてさて、ともに三途の川を渡る同士、わざわざ覚えておく必要もなかろうて」

 ここに角兵衛は果てても、時をおかず方丈斎もまた八郎によって冥途へと送られることになると角兵衛は暗に語る。角兵衛の息子に対する信頼は絶大だった。

「――――才だけでは超えられぬものがある。鵜飼藤助ともあろうものが、戦から離れるとこうも耄碌するものか」

 方丈斎は角兵衛の感慨をばっさりと切って捨てた。疑う余地もなくただの事実として方丈斎はそう確信している。彼が生きてきた忍びという世界は才だけで渡れるほど甘くはないのだ。

「八郎を才だけの男と思うなよ?」

「才ある若者が戦場を生き延びるために何が必要であったか。鵜飼藤助よ。忘れたとは言わさぬぞ」

 畢竟、格上の敵と戦い、あるいは敵に囲まれ絶望的と思われた死線を潜り抜けて生き延びた忍びには、二つの共通した人並み外れた力がある。それはありあまる運と鋼鉄の意志である。このどちらが欠けても過酷な戦国を第一線で生き延びることは難しい。方丈斎のような一流のごく一握りには、必ずそうした才だけでは超えることのできない死線を超えてきた経験があった。

 角兵衛とともに隠者の生活を送っていた若い八郎に、その鋼鉄の意志があろうはずがないと方丈斎は言っているのである。

「――ゆえにこそ」

「なるほど」

 角兵衛の一言に方丈斎は卒然として好敵手の意図を悟った。それはすなわち、角兵衛の死こそが八郎に育ての父の敵討ちという断固たる意志を与えるのだと。それが角兵衛が最後に八郎に与える教えなのだと。

「興覚めだぞ鵜飼藤助。貴様ほどの男が負けるために戦うなど」

「――誰が負けると言った?」

 くっくっと引き攣れるように角兵衛は嗤った。

「最初から勝ちを譲るつもりで戦うほど、この角兵衛耄碌してはおらぬ」

「ぬかせ!」

 方丈斎は破顔した。肌に刺さるほど鋭利な覇気! 視線を合わせただけで背筋が凍るような殺気! これぞまさしく天下に名を轟かせた伝説の忍び鵜飼藤助に他ならなかった。その相手として自分が選ばれたことを、方丈斎は生まれて初めて天に感謝した。

 ――――もちろん、角兵衛のそれがせめてものやせ我慢であることを二人とも承知していた。

 ここで角兵衛が初めて印字ではなく忍び刀を握った。

「どうした? 得意の印字は使わぬのか?」

「印字打ちばかりが得意と思われては敵わぬのでな」

 事実はそうではない。怪我で本調子でない印字打ちでは方丈斎には通用しないと考えたからだ。才、技量、そして経験に裏打ちされた勘を備えた方丈斎という男はそれほどの相手であった。角兵衛もまた最後の雄敵が方丈斎であることを天に感謝した。

「行くか」

 ただぽつりと、しかし万感の思いをこめて角兵衛は呟いた。言うと同時に柳が揺れるように身体がゆらり、と動いていた。角兵衛の身体は前傾しているが、前に出ようという予備動作が何一つなかった。本来前進に使うべき関節と筋肉が一切使われていないために、相手はその間合いを掴むどころか接近を防ぐこともできない。それが武術の世界において奥義と呼ばれる縮地の法であった。

 たちまち角兵衛の殺傷圏内に捉えられた方丈斎は瞠目して歓喜した。

「見事! それでこそ鵜飼藤助ぞ!」

 方丈斎の命脈を断ち切ろうとする白刃を髪一筋ほどの差で躱すと、風圧で赤い擦過傷のような跡が方丈斎の首筋に刻印される。さらに息つく暇もなく肺へ、肝臓へと続く連撃を、方丈斎は最小限の動きだけで完全に避けきった。

 これにはさすがの角兵衛も驚くより呆れた。怪我のために本調子ではないとはいえ、全力に近い攻撃である。それがかくも簡単に避けられるとは思いもよらぬことであった。あるいは自分が気づいていないだけで、想像以上に老いて術が衰えていたか、と角兵衛は自問した。

 不意に背筋が凍るような悪寒が走る。直感が命ずるままに角兵衛は身を投げ出すようにして地面を転がった。

 何もなかったはずの空間から、白刃が角兵衛の脇腹を掠めていく。皮一枚ほどではあったが、ざくりと切り裂かれた腹からみるみるうちに鮮血が溢れた。

「――――なるほど、陽炎の二つ名の正体はこれか!」

 陽炎とは主に夏に発生する光の屈折による朧げなゆらめきのことである。またそれによって引き起こされる映像の歪みが蜃気楼現象であるが、この時代においてはまだそうした科学的な解析はなされていない。ただそうした錯覚や幻影があるという事実を知るのみだ。どういった手段かはわからぬが、方丈斎が見せたのはそんな現象のひとつであろう。で、あるとすれば角兵衛渾身の攻撃があっさり空を切ったことにも納得がいく。もしかすると角兵衛は、幻の相手を斬りつけていたかもしれないのである。

「どこを見ている鵜飼藤助!」

 ふいに背後に殺気を感じた瞬間、角兵衛は咄嗟に避けることを諦めた。目に映るものは幻でも、身体を貫く刃は幻ではないからだ。さきほどの縮地の要領で膝の力を抜く。そのため心臓を貫くはずの刃がわずかに逸れた。肉を切り裂き、金属の刃が臓腑を抉る激痛が、角兵衛に本当の方丈斎がどこにいるのかを知らせた。

「――――むん!」

 胸から突き出た方丈斎の忍び刀を素手で握る。そうすることで方丈斎の動きが一瞬止まった。その隙を迷うことなく、角兵衛は自分の身体ごと忍び刀で背後の方丈斎を貫いた。

 刹那、咄嗟に自ら忍び刀を手放し、後ろに飛んだ方丈斎の勘と判断は見事であったが、その程度の反応は角兵衛も読んでいる。全力で背後に飛んだ角兵衛は身体ごとぶつかるように刀を叩きつけていた。

 だが、惜しむらくは目のない背後へ、しかもだいたいの勘で飛んだために角兵衛が貫いた場所は致命傷とはほど遠い場所であった。

「一歩及ばぬか」

 最後の賭けが失敗に終わったことに、角兵衛は衒いのない苦笑いを浮かべた。全てを思い残すことなくやりきった満足そうな笑みであった。

「見事なり鵜飼藤助。全盛期であれば勝負は逆であったろう」

 出血する腹を抑えて、方丈斎は瞑目する。本心の言葉であった。もし角兵衛があと十余年若ければ、身体を犠牲にせずとも印字打ちだけで自分の居場所を探り当てたはずであった。

「楽しい技比べであった。思い残すことは何もない」

「――――俺はちと未練がある」

 なぜか負けた角兵衛よりも勝ったはずの方丈斎のほうが苦悶に満ちた表情を浮かべていた。

「お前を殺してしまえばこの技は永久に失われてしまうのだな」

「否とよ」

 蒼然とした顔を振って、角兵衛は労わるように方丈斎を見つめる。

「季節が巡るように、冬が訪れても再び春はやってくる。そのために種を撒いたはずだ。俺もお前も」

「いつ、いかなる華を咲かせるかもわからぬ種を?」

「いかなる華が咲くかわからぬからこそ華は美しい。また、散るゆえにこそ華は美しいのだ。そうではないか?」

 莞爾と笑う角兵衛の表情から、瑞々しい朝顔の花が陽光を浴びて萎れるように、すっと色が抜けた。

 稀代の忍びが鼓動を止めたことに方丈斎は無意識に胸の前で手を合わせた。合わせずにはいられなかった。

 ――――息を荒げた八郎が杉の枝から二人の姿を視界に捉えたのはまさにそのときであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る