第15話 湖畔にて

「定俊殿」

 猪苗代湖の湖畔で、定俊はのんびりと釣り糸を垂れていた。

 磐梯山に陽が傾きかけた夕暮れ時、城を抜け出しては志田浜のほとりまで馬を飛ばし、息抜きに釣りをするのが、このところの定俊の習慣であった。

 湖畔は鯉も釣れれば鮒も釣れるという魚の宝庫だが、定俊はなかでもワカサギがことのほか気に入っている。猪苗代湖のワカサギは型が大きく、身が締まっていて酒の肴に相性がよかった。別して氏郷が招き入れた甲賀職人の甲賀味噌で焼いたワカサギがたまらなく旨い。紅く香ばしい辛口の味噌によく合うのだ。

「何事かな? 田崎殿」

 莞爾と笑って定俊は重吉に隣に座るよう促した。その定俊の余裕が重吉にはたまらなくいらだたしく思えてならなかった。

 重吉がこれほどいらだつのには理由がある。

 先日、アダミがうっかり暴露してしまった百万両について、定俊はその後一言たりとも追及しないのである。そんなことは重吉の常識ではありえぬことであった。

 あるいは捕えられ、拷問されることもありうると身構えていたにもかかわらず、肩透かしを食った格好である。いったい腹の内で定俊が何を考えているのか、考えれば考えるほどわからず思考の迷子になってしまうばかりであった。

 そもそも重吉自身が百万両の香りに吸い寄せられるようにして、アダミから離れられなくなった男なのである。それなのに百万両などどこ吹く風と、定俊に素知らぬ顔をされると、自分が急に薄汚れた人間になったような気がしてしまうのだ。

「いい風だな。極楽の余り風というやつだ」

 湖畔を吹き過ぎていく涼風に定俊は目を細める。磐梯山から吹き降ろす風が、猪苗代湖の湖面に冷やされて気持ちの良い温度になっていた。冬ともなれば視界も利かないほど猛烈な吹雪を生み出す厄介な風だが、夏の蒸し暑さのなかではこのうえない正しく極楽の心地である。

「なぜそうも平然としていられるのです?」

 咎めるような、どこか拗ねたような面持ちで重吉は定俊の右に腰を下ろした。

 自分には無理だった。ほんの偶然からアダミと藤右衛門の会話を聴いてしまってから、半ば憑かれたように強引に同行を申し出た。

 百万両という大金があれば何かを成せる。重吉のような取るに足らぬ素浪人でも、キリシタンの同胞のために、なにがしかのことを成せるのだと信じた。

 もちろんそれだけで簡単にキリシタンの王国が建設できると夢見たわけではない。しかし信じられる同志たちと、百万両を有効に使うことのできる強い後ろ盾を得ることができれば、幕府にだって対抗できる。そう重吉は信じて疑わなかった。

 だが、今その確信が揺らいでいる。人としても、戦人としても遥かに格が上の定俊による無慈悲な断言と態度によって。

 自分にはあまりに分不相応な高望みだったのではないか? 歴戦の戦人には自分は子供が背伸びしているような愚かな男に見られているのではないか? 先日以来そんな疑念がぬぐえないのだ。その証拠に、では百万両でお前は何をすると問われれば、商人との伝手もない、大名との面識もない重吉にできることは非常に限られていた。いったいお前に何ができる? と問われれば信仰のために命を捨てる意気込み以外に返す言葉がない無力なままの自分がいた。

 関ケ原ではまだ十七歳の若造に過ぎず、戦のなんたるかなど思いを巡らす余裕などなかった。ただただ隣の足軽とともに走って、退いて、喚き、最後には味方を捨てて逃げ出した記憶があるだけだ。

 もっともそれは、敗軍の兵士としてはまだ上等の部類に入ることを重吉は知らない。

 はたして定俊が自分をどのように評価しているか、いささか卑屈に考えてしまうのも無理からぬところであった。

「――――神(デウス)は愛である、と宣教師(パードレ)は言う」

「はぁ」

 突然定俊が言い出した台詞に、重吉は鼻白んだ。何をわかりきったことを、と挑むような視線を定俊に向けるが、定俊は意にも介さぬように続けた。

「あのアダミ殿であれば、公儀ですら愛せよというだろう。あの方は本物の聖人だ。自分を処刑しようとする役人を何のためらいもなく許す、と言えるお人だ。あの方の言うキリシタンの王国とは、ただただ同胞を守りたいという心の現れにすぎない」

 汝の隣人を愛せよと神(デウス)は語る。そして右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさいと説く。慈悲深い神の教えではあるが、定俊は自分がキリシタンであっても従えないものは従えない。

「俺は戦人ゆえ、戦いもせず敵に黙って首を差し出すような真似はできん。公儀が同胞を処刑するつもりなら、弓矢をもって正々堂々討ち死にするまで戦う覚悟がある。しかしアダミ殿は戦うことを是とするまい」

 アダミのような信徒にとって殉教は誉(ほまれ)だ。だから自分が死ぬことを微塵も無念とも恨めしいとも思わない。

 しかし定俊のような戦人にとって、それは容認することのできぬ逃避であった。自分に対する裏切りといってもよい。戦う理由と覚悟があるならば、戦って戦って死ぬまで意地を貫くのが戦人の誇りであり本能であるはずだった。

「要は戦うことはすなわち神の教えに背くということよ。だが、たとえそうであっても俺は戦うだろう。死して神に教えに背いたことを断罪されるとわかっていても、俺は死ぬその瞬間まで戦人であり続ける。なんとなれば、この岡越後守定俊は武の者であるからだ」

 一息でそこまで言って定俊はいたわるように重吉を見た。戦無き世を彷徨う一人の青年武者に対する憐憫がその瞳にこめられていた。彼もまた、戦人であるゆえに死に場所を失った男なのだ。

「人にはいくつもの顔があるものよ。それは男でもあり、父親でもあり、家臣でもあり、キリシタンでもあり、戦人でもある。その顔はすべて真実だが、すべてが本性というわけではない。いったい己が何者であるか、まずは己の本性を、心の裏側を覗かれよ」

 定俊にそう言われた瞬間、重吉は背筋が寒くなるような悪寒に襲われた。見てはならない、覗いてはならないと本能がしきりに警告を発していた。それを知ってしまったら最後、永久に自分が穢れてしまうような気がした。

 それは重吉自身が求めてやまなかった名声への憧れ、主を失い一介の素浪人となった自分でも、この世になにがしかを成して生きた痕跡を残したい、という欲望を察したゆえの防御的な反応であったのかもしれない。

「主(デウス)は信仰を守るために戦うことを決して否定なされませぬ!」

 これ以上考えることを放棄して、重吉は悲鳴のように叫んで立ちあがった。信仰を守るために、かよわき同胞を守るために、天草から奥州までやってきたのが、実は己の浅はかな欲望のためであったなど認められるはずがなかった。そんなことがあってはならない。

「それでもよかろう。結局は百万両など、己の生き方の道具にすぎないのだ。自分が一体何がしたいのか、それがわかれば銭を利用する術もわかるであろう」

 重吉は定俊に返事をせずに、脇目もふらず駆け出していた。定俊の問いに答える自信が、今の重吉には持つことができなかった。まして己の本性などわかろうはずもない。

 信仰の敵を相手には命をも恐れぬ若者が、ただただ定俊を恐れて一心不乱に逃げた。

「おう、若い、若い」

 それを見つめる定俊の目はどこまでも穏やかで楽しげである。立身出世結構、自己顕示欲結構ではないか。それを恥ずかしいと感じてしまうのは、つまるところ己の矮小さを認めたというだけのことにすぎぬ。

 逆にいえば、若さとは自分の大きさを知らぬがゆえにどんな大きな夢でも持てる。いや、大きな夢を持たずして何が若さか。いやいや、何の、この定俊とてまだまだ若い。

「一生に一度くらいは、百万両を並べて転がるのも乙なものよな。一笑一笑」

 呵々と笑う定俊の前でつぽん、と浮きが沈み、間髪入れず針を合わせると、五寸はありそうな見事なワカサギが水面から飴色の腹を輝かせて、ぴしゃり、と飛んだ。

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