暗殺者
地雷原
プロローグ
南米のとある国のとある地方、山陵が寄り合う盆地に、一際大きく冷たい鏡のような湖があった。
その湖畔に建つ一軒の白い豪邸。直線的なシルエットに開放的なガラス張りの壁面は水面を抱き込み、赤茶色の屋根と長いウッドデッキは太陽の光を受けて鈍く光る。
ヘリが離着陸できるほどに広々としたデッキの先に、一隻のヨットも停泊していた。
そして、目の前の湖と大自然を一望できる屋外プールでは、一人の美女が悠々と泳ぎながら暑い陽射しと心地良いそよ風を楽しみ。
その姿をプールサイドのビーチベッドに寝そべる男が、ウイスキーの入ったグラスを片手に眺めていた。
「ふふん……いいねぇ」
その視線の先にあるのは肉付きのいい女の尻。プールの水を若々しい素肌が弾き、滴り落ちる水滴がなんとも艶かしい。
プールで泳ぐ事に少し疲れた女は、プールサイドに投げてあったロングタオルを手に取り、軽く髪の毛の水分を吸わせながら男へと振り向く。
極小のビキニは女の胸元をほとんど隠す事なく、女もソレを知っているからこそ胸を大胆に揺らしながら男へ妖艶な笑みを浮かべて見せる。
「ほら、来いよ」
男はビーチベッドの横に立つサイドテーブルに手を伸ばし、ウイスキーの瓶を取って自分のグラスと空のグラスに注いでいく。
「ねぇ、あなたは泳がないの?」
「馬鹿を言え、いい女が俺のプールで泳ぐのを見ながら美味い酒を飲む。これが最高の贅沢ってヤツだ」
「そう……アタシならプールもお酒も楽しむし、いい男も楽しむけど」
女は男が差し出すグラスを手に取るが、口元に運んでも直ぐには飲まず、口元で
「んあ……いい、いいぞ。そう、そこだ」
女の首がゆっくりと前後し、それに合わせて男の顔も恍惚としたものへと変化していく。
女は自分の手管に男が陶酔している事に喜びを感じ、その動きもさらに激しくなっていく。
そして一際大きく男の体が震え仰け反り、自分の顔に液体がかかったことで女は勝利を感じて顔を上げ——。
「きゃぁぁぁ!!」
——目の前の男は胸元に二つの穴をあけ、鮮血を噴き出しながら倒れ死んでいた。
遥か遠くで
指はまだトリガーに掛かったままだが、男にはスコープの中で混乱し続けている女を撃つつもりはなかった。
胸元のポケットから携帯電話を取り出し、番号を打ち込む。短い呼び出し音は、すぐに目的の相手へと繋がった。
「——私だ」
『早いのね、ゴースト。標的は?』
若い女の声が響く。
「終わった」
『さすがね……迎えのヘリを向かわせるわ。ポイント・デルタ、30分後よ』
ゴースト——とは、その男の
本名は
これまでに始末した数は数百に上り、失敗はゼロ。故に幽玄は裏社会最高の暗殺者“ゴースト”と呼ばれるようになった。
今回の仕事は麻薬王シスコの暗殺。フランシスコ・ベルメンドーザが半年に一度訪れる秘密の休息地で待ち伏せ、ボディガードたちを遠ざけて女と二人っきりの時間を過ごす一瞬の機会を待った。
そして実行、撤退が本来の行動パターン——しかし。
「回収は不要。来週には定年だ。このまま引退する」
『——え? そんなこと、ボスが許すわけがないじゃない』
「許すも何も、45歳で定年退職という規則を作ったのはボスだ」
『確かにそうだけど……本当に引退するつもり? 引退して何をするのよ?』
「そうだな……まずは、読まずに積んである本を読む」
『そう……』
電話口から聞こえてくる女の声が、意気消沈したように小さく搔き消える。この女は幽玄のサポート役兼仕事の繋ぎ役として長年の付き合いがあった。
別れを惜しむわけではないが、感謝の言葉の一つでも言うべきだろうか? と考えた幽玄だったが、次に発した女の言葉に、そんな感傷的な感情が自分たちの間には一切無用なものだった事を思い出した。
『……組織が本当に退職金を支払うと本気で思っていたか? ゴーストと恐れられる君が、そんな現実社会の枠組みに捉われていたとは……これは驚きだ』
聞き慣れた女の声が、聞き覚えのない老齢な男の声へと変質した。
「誰だ?」
幽玄の足が止まる。
『寂しいことを言うな……だが、無理もない。長年私の下で働いていたが、こうして君と話をするのは初めてなのだから』
「……ボス」
『そう、その通り! 初めまして“ゴースト”、そしてサヨウナラだ!』
電話口から聞こえる老齢な男は愉快そうに笑い声を上げ、同時に幽玄の耳はこちらに接近するローター音を捉えていた。
『ハハハッ! 他の暗殺者たちがそうであったように、裏社会最高の暗殺者であるゴーストも衰えには勝てない! 時代の変化について行けず、日々進化していく近代技術に取り残されていく君を見るのは忍びない、ならばここで……その晩年を汚さずに伝説の暗殺者として幕を閉じる事に手を貸すことこそが! 雇い主であり、親である私の役目だと、そうは思わないか?』
「……裏切るつもりか?」
『そう思ってくれて構わない。“ゴースト”、君の長年の功労に報いたいが、色々と知りすぎ——』
裏切られた瞬間、幽玄は笑いを堪えるように歯を噛み締めた。
名も知らぬボスと呼ばれる老人の言葉を聞いていたのはそこまでだった。無言で通話を切り、バッテリーを外し、SIMカードを抜き取って折り、携帯電話とバッテリーは踏み潰して破壊した。
幽玄に残された時間は少ない。携帯電話の他に身に付けている電子機器を全て外し、壊し、捨てる。
ショルダーバッグに入れてある
ショルダーバックから
と同時に、幽玄の頭上に死神の協奏曲を奏でる
「むぅ、走るのは老体に堪える。それは否定しないよ、ボス」
幽玄は頭上のハインドを見上げて
◆
雷鳴の如く響き渡る砲声の中を、幽玄は恐怖に竦むことなく駆け抜けた。低木や茂みを巧みに利用し、全速で駆けながらも緩急をつけ、攻撃ヘリとしては大型のハインドを翻弄する。
土が跳ね、若木が裂ける。幽玄は低木が密集する雑木林へ逃げ込むと、機関砲によって薙ぎ倒される木々と舞い散る枝葉を利用して身を隠し、自分の身体が隠れるほどの木に背を預けてハインドの様子を窺った。
「はぁはぁ——、組織が引退する老骨を本当に処分していたとはな……」
幽玄にとって、組織は自分の家族と言っても不思議ではない程には密接な存在だった。実の家族など一人もおらず、仕事や日々の生活以外での人との接点もない。組織の人間かその関係者との関わりのみが、他人との接点だった。
だが、組織に対して全幅の信頼を寄せていたわけでもない。組織が引退した者を、足を洗った者を始末していると言う噂は幽玄の耳にも入っていた。
確証はなく、証拠もない。しかし、引退した同僚と誰も連絡が取れないことは、噂を一笑に伏すことができない事実ではあった。
「さて、どうするか……」
ハインドは雑木林の上空を旋回していた。このまま離脱したいが、雑木林を利用して完全に離脱できるほど広くはない。
いずれ業を煮やし、雑木林を焼き払うぐらいの選択肢は採ってくる。
幽玄は慎重に周囲を見渡しながらハインドのローター音を意識から離し、そのほかの環境音に耳を澄ました——。
——微かに聞こえる水の流れる音。事前調査で確認した豪邸近くの地形を思い出す。
「仕方ない……」
幽玄はこの危機を脱する方法をいくつか考えながらも、その成功率の低さにため息を零しつつ、ハインドの機首が明後日の方向に向いたのを確認して再び走り出した。
そして、ハインドもまた走り出した幽玄の姿を見つけ、機種を旋回させて必殺のタイミングを計りながら追撃を開始した。
「そうだ——真っ直ぐ追ってこい」
幽玄はジグザグに駆けながらも、一本の太い幹の陰に滑り込む。ショルダーバッグからプラスティック爆薬を取り出すと、素早くズボンのベルトを引き抜き、それを手際よく巻き付ける。
信管のタイマーを20秒後にセットし、ベルトの端をしっかりと握り込む。
幽玄は残り時間を脳内でカウントし、残り五秒のタイミングで飛び出して機関砲を空転させていたハインドの左翼を狙い、ベルトを振り回して遠心力を利用したスリングのようにプラスティック爆薬を投擲した。
同時に、ハインドの機関砲も再び銃弾の豪雨を降らす。
「何のぉー!」
幽玄は銃弾の雨を転げるように掻い潜り、カウントがゼロになる瞬間に身を屈めて間近の木の陰へと飛び込んだ。
頭上で轟く爆発音。爆風が木陰に隠れた幽玄の両脇を焦がす。幽玄は僅かに顔を覗かせてハインドの状態を確認。ハインドのテイルローターが火を噴き、体勢を崩しながら旋回している。だが、その動きからまだ殺気が滲み出ている。
「さすがに——」
——しぶとい。そう言い終える間もなく幽玄は木陰から走り出し、茂みを掻き分けて目的のポイントまで一直線に駆け抜ける。
その後方では、ハインドがテイルローターを爆散させながらも幽玄を正面に捉え、ギリギリまで照準を合わせたTOW対戦車誘導ミサイルが発射された。
しかし、ハインドという大型戦闘ヘリは、機体が傾いた状態での急旋回時に揚力を失い、大きく横揺れするという設計上の問題点が存在する。
幽玄が投擲したプラスティック爆薬でテイルロータを失い、大きく傾きながら逃げる幽玄を正面に捉えようとする挙動は、まさしくこの問題点を引き起こす挙動そのものであり、それこそが脱出の隙を生み出すために幽玄が狙った行動でもあった。
そしてハインドはミサイル発射の反動を制御しきれず、そのままコントロールを失って旋回しながら高度を下げていく。
草木をかき分けて駆ける幽玄はミサイル攻撃が外れたのを耳で確認し、足を止めて振り返った——その刹那、幽玄の視線と交差したのは、決死の形相で操縦桿を握るハインドのパイロットの顔だった。
防弾ガラス越しでも、その眼光の鋭さと鬼気迫る表情はハッキリと見えた。
「逃しは、しない——ッ!」
パイロットの口が動いた。操縦席から届くはずのない、魂の叫びが幽玄には聞こえた。
幽玄が暗殺のプロフェッショナルならば——この男もまた、戦場を生き抜いたプロフェッショナルだった。
機体の制御を失いながらもコントロールし、最後の足掻きと言わんばかりに幽玄目掛けて突っ込んでくる。
このままでは墜落に巻き込まれる——幽玄は考えるより先に駆け出した。
視界の端に、木々の切れ目——渓谷が迫る。崖下から聞こえる水の音——崖下まで数十メートルはある。着水の衝撃は避けられないが、生き残る道はそれしかなかった。
背後から、機体の各所で小爆発を起こしながらハインドが急降下してくる。風を裂く鋼鉄の咆哮が、決死のパイロットの雄叫びが、幽玄の背筋を駆け抜けた。
崖まで三歩。
あと二歩。
一歩。
幽玄は勢いよく地面を蹴り、宙へと身を投げ出した——その瞬間、爆音と爆風が背後から襲い掛かる。身体が炎の熱気に包まれ、一瞬意識が飛びそうになる。
だが、今はまだ、意識を手放すわけにはいかない——。
幽玄は身を丸め、着水の瞬間に備えた。
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