第43話 出張 ⑦
「堀のやつ遅すぎんだろ」
しばらく湯船に浸かっていた俺。
一応堀のことを待っていたつもりだったが、待てど待てど、あいつの来る気配は微塵も感じられない。
「煙草どんだけ吸ってんだよ」
風呂の前にちょっと煙。
なんて抜かしていたが、全然ちょっとじゃない。どうせいつものように、遠い目で外でも眺めているのだろう。
「……ったく。少しは我慢しろよな」
文句を垂れながら湯船を出る。
このままだと俺は間違いなくのぼせてしまうし、これ以上ヤニカスの堀を待ってやる義理はないだろう。
「わりぃわりぃ、遅れたわ」
俺が締めの掛け湯をしていると。
煙草を終えたであろう堀がようやく姿を見せた。
「お前どんだけ煙草吸ってんだよ」
「いやー、ついつい風が気持ちよくてなー……って、お前もう上がるのか?」
「もうって、どれだけお前を待ったと思ってんだ」
体感20分以上は待ったんじゃなかろうか。
本当ならもう少し露天風呂を堪能したいところではあるが、夕食前までに終わらせておきたい仕事も残ってるし、何より湯船に浸かり過ぎたせいで喉が渇いた。
「ちょっとだけ付き合ってくれよ〜、なぁ〜」
堀は
煙草なんかに時間を費やした方が100%悪い。それに今のこいつの頼みを飲むのはちと
「お前が遅れたんだから1人で入れ。俺はもう上がる」
「保坂〜」
泣きつく堀を無視し、俺は脱衣所へ。
そそくさと服を着て部屋に戻ったのだった。
* * *
出張最後の夕食。
俺たちは昨日と同様、畳の大広間へと案内され、豪華な料理が並んでいる側に、それぞれ腰を下ろした。
「センパイ、そこ私の席です」
「ああ、すまん」
適当に座ろうとしたら怒られた。
そう言えばここは藍葉の席だった。
言われるまま俺は今朝座った席に。
最終的な並び順は麗子さんと藍葉。
それに向かい合った形で俺と堀が並んだ。
「それじゃ頂きましょうか」
麗子さんの合図で晩餐が始まった。
もちろん仕事中のため酒などは一切飲まない。
『飲みたかったら飲んでいいのよ?』
と、昨日麗子さんには言われたが。
流石に俺だけ飲むわけにもいかず自粛した。
平然と食べ始める目の前の女性2人。
相変わらず麗子さんの浴衣姿が可愛いと思いつつも、やはり気になるのは、先ほどの露天風呂での一件だった。
——多分私、センパイのこと好きですよ。
ずっと頭に残っているあの言葉。
部屋に戻って仕事をしている時も、今こうして食事をしていても、その意味を一度考え始めたら、そればかりに気を取られてしまう。
今2人はどんな気持ちでここにいるのだろう。
俺と顔をあわせるのは気まずくはないのだろうか。
様々な思考が渦巻いた末、料理の味はほとんどわからなかった。
「センパイ。箸止まってますけど」
「あ、ああ……すまんすまん」
「なんで謝るんですか? 別に私怒ってませんよ」
「い、いやぁ……何となくな」
「ふーん。まあいいですけど」
できるだけ普通に。普通に。
部屋でそう意気込んで来たはずだったが。
あいにく俺は平静を装うのが下手だった。
いざ藍葉を前にすると何と言っていいのかわからない。それなのにこいつは平気な顔で話しかけて来やがる。露天風呂でのことを何も気にしていないのだろうか。
「あのー、瀬川さん」
「な、何かしら」
すると隣の堀は何やら言いたいことがあるようで、若干気まずそうな顔をしながら、麗子さんに言った。
「箸逆です……」
その言葉につられ麗子さんを見ると。
あろうことか。
箸の先と持ち手を逆にして使っていたのだ。
「それだと使いにくいと思いますよ……?」
「ご、ごめんなさい! ついうっかりで!」
「い、いえ」
慌てて正しい持ち方に変える瀬川さん。
職場では決して見られないそのポンコツっぷりに、指摘した堀は必然にも意外そうな顔をしていた。
(やっぱり麗子さんも気にしてんのかな)
この様子だと大方そうだろう。
俺だけが気にしているのかと思ったが、普通の感性を持つ人間なら、気にしないわけがない。
藍葉の肝が座り過ぎているだけだ。
こいつはどんな図太いメンタルを持ってるんだか。
「瀬川さんもそういう一面があるんですね〜」
「あ、藍葉さん……恥ずかしいから忘れてちょうだい」
「え〜? どうしようかな〜? あっ、それじゃ〜」
余裕の藍葉は唐突に箸を置き。
なぜか俺のことを力強く指差した。
そして——。
「センパイを私にくれたらいいですよ」
時が止まった。
俺はまばたきを忘れるほどに硬直し。
藍葉が向ける指の先を死んだように見つめていた。
「あ、藍葉さん……今なんて……?」
「だから、センパイを私にくれたら忘れてあげます」
震えた声で麗子さんが聞き返すも。
藍葉から出る言葉は何も変わらない。
センパイを私にくれたら——。
センパイというのは間違いなく俺のこと。
指まで差されてしまっては、勘違いとも言えなかった。
「な、なあ才加ちゃん……ちょっと話が急すぎね?」
「堀さんは黙っててください」
「うぅぅ……」
困っている俺たちを見かねてか。
堀が割って入ろうとしてくれたようだが全くダメ。憤りすらも感じる藍葉に軽くあしらわれてしまった。
「で、どうなんですか」
続けて藍葉は困惑する麗子さんに詰め寄る。
「瀬川さんはセンパイを渡す気はありますか?」
「な、何を言ってるの藍葉さん……」
「あなたはセンパイのことを本当に好きなんですか?」
「私は……」
あまりの勢いに黙り込んでしまった麗子さん。
そんな彼女の姿を見ていればわかる。
もうこの人のメンタルは限界を迎えていると。
「早く答えてください」
それでも藍葉は容赦しない。
徹底的に麗子さんに詰め寄っていた。
(もうやめてやってくれ……)
俺の手で止めてやりたい。
本心ではそう思っていた。
でもなぜか『やめろ』の一言が出てこない。
それはまるで2人との間に見えない壁でもあるような。俺の言葉は届かないのだろうと、心の何処かで思ってしまった。
それはきっと堀もそう。
ずっとこの場を沈めたそうな顔をしているが、唇をぐっと噛んで、ただただ2人の様子を見守っていた。
「答えられないんですね。もういいです」
ほんの数秒ほどの沈黙。
それを経て藍葉はスッと身を引いた。
その姿からはもうさっきまでの憤りは感じない。
でも代わりに酷く何かに失望しているような。
諦めてしまったような、そんな暗い表情をしていた。
「まっ、まあまあ。才加ちゃん落ち着いて」
「落ち着いてますけど」
「た、確かに今はそうだけど……」
再び堀が前に出ようとするが、流石のこいつも今回ばかりはテンパっているらしい。珍しく言葉の言い回しがぎこちない。
「瀬川さんも。あまり落ち込まないで、ね?」
「…………」
俯いたまま何も言わない麗子さん。
箸とお椀を手にしたまま、置物のように固まっている。
そして——。
「……ごめんなさい。先に部屋に戻るわね」
小さくそう言い残すと。
麗子さんはまだ途中の食事をそのままに去ってしまった。
俺たちの間に重い空気が流れる。
彼女の後を追いかけた方がいいのか。
それとも今は1人にさせてあげるべきか。
パニックな故、取るべき行動が定まらない。
「保坂、このままでいいのかよ」
堀には小声でそう言われた。
でも聞こえただけで返す言葉は見つからなかった。
今の自分に何かできることがあるなら。
きっと俺は迷わずその選択をすると思う。
それで麗子さんが救えるのだとしたらだ。
でも。
事実、俺は何もできなかった。
あれだけ麗子さんが追い込まれていたのに。関係のない堀でさえ、必死に場を収めようとしたのに。彼氏である俺だけが、何一つとして思い切れなかった。
情けない。
ただただ情けない。
思いもよらぬ事態に怖気付いて。
ただじっと事の終わりを待っていたのだから——。
「……さか……聞いてるのか保坂!」
「お、おう……わるい」
「俺たちもそろそろ部屋戻るぞ」
堀の声でふと我に帰る。
慌てて周りを見渡せば、もう藍葉の姿はない。
「夕飯ってもう食い終わったっけ……」
「何バカなこと言ってんだ。ちょうど今食ったじゃねーか」
「あ、ああ。そうだったな」
まるで夢から覚めたような。
そんな気分だった。
ちゃんと食べたのか記憶が曖昧だが。
俺の分の食事は、綺麗に平らげられていた。
どうやら俺は考えながらも箸を止めなかったらしい。
「いつまでもぼーっとしてないで早く行くぞ」
「お、おう」
こうして俺の出張最後の夕食は幕を閉じた。
次の日。
全ての業務を終え、東京へと帰還した俺たち。
3時間もの移動の間、これと言って麗子さんとの会話はなく、俺はただじっと、流れ行く外の景色を列車の窓から眺めていたのだった。
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