第22話 五人とひとりと古都の雅 1章
黒い。それが、新幹線を降りて駅舎に入った瞬間の感想だった。
百年以上前に建てられた駅舎は、何度も修繕を繰り返しながらも、当時の面影をそのまま伝えている。ということは、たぶん俺の両親や祖父ちゃん祖母ちゃんが、今の俺と同じようにこの街へやってきて、一番最初に目にする光景は、この黒い、としか言いあらわせないものだったのだろう。
京都駅烏丸口は、キラキラと明るくて、でも黒かった。ひたすらに。
俺の名前は八木真。東京は多摩地区のベッドタウン・こだま市に住む高校生だ。終業式を終えて翌日、俺はいつもの親友四人に幼馴染の美羽子と、ひょんなことから知り合い、巻き込まれた騒動を一緒に乗り越えた比企と共に、冬休みの旅行に京都へ訪れた。
今回の宿は比企の仕切りで、大まかな場所と、とにかく格安ということしかわかっていない。とはいえ比企のことだ、美羽子も同行することを思えば、あんまりひどい場所ではないだろう、と信じ…よう!
京都に詳しいという比企の事前情報で、盆地だから寒いと脅かされていた俺達は、揃ってダウンジャケットやコートで着膨れ、美和子は女子らしくおしゃれと防寒を両立させるべく、新調したミニスカートにタイツ、レッグウォーマーで身を固めているが、当の比企はと見れば、いつもの白いコートにハンチングという代わり映えしない姿だった。いつものようにくたびれたブーツカットジーンズに、いつもと同じ履き慣れた軍用ブーツ。いつもと違うのは、左手でサックスブルーのキャリーケースを引いているところくらいか。比企にしては荷物が多いが、それでも美羽子がゴロゴロ引いている、パステルピンク地にカラフルなハートが散ったキャリーよりは、ひとまわり小さかった。
早朝五時、前日のうちに結城の家に泊めてもらって一緒に起きた俺達五人と、やっぱり前日、終業式が終わると桜木さんのマンションに泊めてもらって、一緒に出発した美羽子と比企とは、公園駅のホームで落ち合い、東京駅を七時に発つ新幹線に乗ってやってきた。車中ではひと頻りバカな話をして、居眠りしてゲームして、車内販売でシンカンセン・スゴイカタイ・アイスを食い、途中で停車した駅では窓の外の街並みを物珍しく見て、うん、高校生の群れなんて、そんなもんですよ。あほなのは言われなくても知ってる。
三シートの並びを二列に、通路を挟んでもう一シートという、中途半端な席になってしまったものの、俺達は三シートを向かい合わせにして、通路の向こうの席についた比企へお菓子を回し、早朝の便でガラガラだったのをいいことに、美羽子はちょこちょこ比企の隣へ移動して、ガイドブックを一緒に見たりしていた。
気の早い修学旅行気分を満喫して、意気揚々と俺達は、千年単位で文化の中心な古都へやってきたのであった。
比企はとにかく旅慣れているようだった。
「諸君、まずは土産物だ」
新幹線ホームを降りて、改札口までの駅構内、土産物売り場や本屋、コンビニが並ぶエリアで比企は言ったものだ。
「気が早いにも程があるだろ」
呆れたように反論するまさやんに、いやいや、と首を振ると、
「買っておかなくてはまずい相手への土産物は、このタイミングで買っておけば安心だ」
まずい相手、ねえ。そうだな、お袋とか弟とか、クラスの友人連中とか、まあそんなところかな。
「これが帰るギリギリに、新幹線の時間を気にしながらの買い物なんてことになってみたまえ。気ばかりせいて、何かしら忘れて、帰ってから気まずいことになりかねないのさ」
なるほどね。
「学校を出て仕事を持ったら切実だぞ。手土産の一つで、その後の人間関係がフガフガした感じになってしまうからな」
そうねと美羽子がうなずいた。
「あんた達のん気だから、そういうのわからないだろうけど、女子はそういうのシビアよ。お土産リスト作っといてよかった」
言われてみれば納得なので、全員ぞろぞろとお土産コーナーを徘徊。比企もいくつかお菓子の箱を買っていた。
「師父と桜木警視と、あとは実家だな」
私の母上はそばぼうると生八つ橋がお好きなんだ、と言って、ちょっとだけ柔らかい眼で笑った。
わいわいとお土産を買い求め、早朝でひと気のまばらな待合所で、キャリーの空いたスペースに詰めてから、改札口を出る。八条口側にしか新幹線の改札がないのは昔からのようで、連絡通路で烏丸口へ抜ける間に、途中にあった自販機で、市バスと地下鉄抱き合わせのプリペイドカードを買った。
そうやって着いた烏丸口は、とにかく黒かった。
暗かった、じゃないよ。
黒かったの。
何せ、外へ面している辺りの壁と天井は一面に、黒大理石? 黒御影? 黒い石が張られていて、だからこそ真っ先に「黒い」という印象になってしまうのだ。
まるっきり建て直す案も何度か出たようだけど、その度に、伝統と歴史の街がコロコロとスクラップ&ビルドを繰り返すのはいかがなものか、と却下され、今に至っているのだそうな。おかげで、今こうして俺達は、祖父ちゃん祖母ちゃんも見たであろう京都駅を、そのまま目にしている。
烏丸口へ出たのは、宿まで案内してくれる人と待ち合わせをしているからだった。
どんな人かは知らない。比企からは、京都で半年ほど暮らしていたとき世話になった人だと聞いていた。
いやあああ! と悲鳴のような歓声をあげて、
「いややー梅ちゃん、東京行ったらこーんなかわええ子達連れて戻るなんて、ちょっと待って! みんなイケメンやしこの子もかわええし、いやーもう、うちどうしたらええのん? 」
やっぱり東京の子は垢抜けてはるねえ、としみじみうなずいて、雛鶴さんはやおらにやあっと笑うと、それで、と俺達にひそひそと声を低めて訊ねた。
「この中の誰が、梅ちゃんの彼氏なん」
一斉に重々しく首を振る俺達。
「勘弁してください」
「無理っす」
「俺らには荷が重いっす」
「俺、他に好きな女の子いますし」
忠広、まさやん、結城に源が順々に否定。俺もお地蔵さんのような表情を自覚しながら否定した。
「第一、比企さんの彼氏なんて、一般人の高校生に務まりませんよ」
雛鶴さんは俺の返事を聞いた瞬間、それまで堪えていたのが我慢できなくなった風で、ブフーッ! と吹き出しくの字に腹を抱えてケタケタ笑い出した。
「いややー…いやーおもろいー…久しぶりにわろてしまったわあー」
ひいひいと笑って、やっと落ち着くと、それでも堪えきれずに思い出し笑いで吹き出しかけながら、大丈夫と言って雛鶴さんは深呼吸した。
「大丈夫。梅ちゃんの彼氏なんて桜木君くらいしか無理やわ。あのぐらい心広ないとまず保たへんね」
うわあい。わかってらっしゃる。
そこで雛鶴さんは、改めて自己紹介。
「春先まで梅ちゃんに日本語教えとった雛鶴です。よろしゅうお頼み申します」
小柄ながら、スタイルがよくてスラリとしているので、実際より五センチは身長が高く見える。グレーのパンツに白いセーターとキャメル色のジャケット、モノトーンの千鳥格子のストールというおしゃれな美人のお姉さんは、舞妓さんみたいなきれいな京言葉で挨拶したが、実際にこの、黒髪ロングのストレートがステキな雛鶴さんは、祇園でも売れっ子の舞妓さんなのであった。
雛鶴さんの好きなものは、地元ローカル局の深夜番組にお酒、仕事柄、着物に合わせる帯留めコレクションに、
「いやーそれにしても美羽子ちゃんお肌きれえやねー。それに大牙君も髪サラッサラやん。やー二人ともかわええわあー」
かわいい男の子と女の子だそうで、バスを待つ間から、祇園の停留所でバスを降りて歩く間も、ずっと二人の間に挟まって、ご機嫌である。まあ確かに、このメンツでかわいいと言うと、この二人が飛び抜けてるよなあ。比企はかわいいというより、いささか物騒な上にシャープな感じだし、まさやんは漢前タイプだし、結城は上背のデカさもあって、かわいいというよりイケメン。忠広と俺は、身長は高すぎず低すぎずではあるけど、かわいいというよりは、まあ「少年」って感じ? 元気の方が優ってるせいか、結果、文化祭での女装姿で違和感が息絶えていた、かわいい系の源が、どうしたって餌食になることに。美羽子も普段の押しの強さが鼻につくだけで、黙っていれば見てくれはそう悪くはない。比企は困惑しながらも手放しで絶賛され照れる源と美羽子、大はしゃぎする雛鶴さんを、ちょっとほっこりした顔で見ていた。
両手に花の雛鶴さんを先頭に、ぞろぞろと俺達御一行様が続いて歩く。四条通りの角を曲がると、広い通りの両側は木造の、いかにも京都な二階屋だ。
それが、初めて見る花見小路だった。
通りに面した部分はそう広くはなくて、でも奥へ長く続いて面積を確保している。なんだっけ、そうだ、町屋だっけ。ただぼんやりと歩きながら、建物の構えを見ているだけだと、そこが何屋で、飛び込みでポンと入っていい場所なのかどうかなんてさっぱりだ。雛鶴さんは両脇の二人と後ろの俺達と巧みに歩調を揃え、ここは甘味処、ここは置き屋さん、と案内をしてくれる。比企は最後尾を歩き、周囲と俺達に注意を払いながら、携帯端末でどこやらに電話をしていた。ときどきニェーとかクレムリンとか、ダーチャとかなんとか、すっかりこの半年ちょっとで耳に馴染んできた響きから、どうもロシアの親戚やじいやのミーチャさんと話しているようだ。
やっと話が終わったのか、比企はぶつんと通話スイッチを切って、ぶはあ、とため息をついた。
「クリスマスには戻れるのかって、日本では新学期だと何度言えばわかるのか、まったく」
え、クリスマスは昨日終わりましたよ? 一緒にまさやんのうちで、イブの日に、妹ちゃんのお誕生日兼ねてパーティーやったじゃん。バースデー用とクリスマス用とケーキ二ホール買って、一緒にプレゼント持っていったじゃん。
「ロシアでは一月七日なんだ」
混乱しかけた俺を見て、比企が教えてくれた。なるほど。まあ、ほら日本だって旧正月とか盂蘭盆とかあるよね。似たような感じなのかな。
雛鶴さんは、花見小路から細い路地へ曲がってちょっと入ったところで、ここ、と立ち停まった。
「こっちの真ん中が置き屋、両脇がうちらの寮」
おお、と二階建ての棟を見上げる俺達。
「右側は前からの寮やけど、左側は秋頃に、お隣さんが置き屋畳むいうて、譲り受けたんよ。丁度おかあはんも、待遇改善やて、寮の部屋の割り振り見直そ、言うてはったから、ええタイミングやったわ」
「ここの女将さんはホワイト経営で、ときどきビジネス雑誌のインタビュー受けたりしてるんだ」
すげえところなんですね。でも比企とはどうやって知り合ったんだろう。
その疑問は、置き屋さんの座敷で女将さんが種明かしをしてくれた。
「実はね、梅ちゃんのお父さんがうちの上客なんよ。仕事で外国のお客様の接待も必要やし、京都で外国人の接待となると、舞妓芸妓と座敷で遊ぶなんて、もうハズレはないですやろ。どなたさんも喜んでくれはります」
確かに! 外国人には鉄板で受けそう!
「そしたら、あるときいきなり、うちに外国人のきれえな女の子連れて来はってね。下の娘は訳あって外国で暮らしてたおかげで、日本語がだいぶ怪しくなっているので、ここでしばらく下宿させて、生活しながら日本語を教えてもらえないか、とこうですわ。それが梅ちゃん。外国人みたいに見えたんは、もともと晴信さんがクォーターやから、そっちの方が濃く出ただけで、確かに親子そっくりやったわ」
「晴信さんって」
「私の父親だ。言っておくがまるで似てないぞ」
「何言うてはるの。そっくりですやん。茹で卵の殻の割り方、なーんにも示し合わせもないのに、おんなし割り方してはるんよ。こう、卵をな、おでこのところでコンコーン、て」
女将さんはコロコロ笑った。
なんか、うん、なんか、見た目はすごく品があってきれいな、この前うちで親父が「極道の妻たち」観てて、それに出てた高島礼子にそっくりな人なんだけど、中身はかなりファンキーな感じみたいだ。でもすげえホワイト経営を貫いてて、舞妓さんとかのコンプライアンス教育も徹底しているとかで、そういう点から、どんなお客をもてなしたのか自体が国家機密になる、現役自衛官の比企の親父さんが置き屋さん指名で仕事を頼むようになったみたい。待遇に不満がなくて、教育もしっかりしてれば、お座敷で見聞きしたことをよそへ漏らすこともない。
今回俺達が宿にするのは、この置き屋さんの、さっき雛鶴さんが説明してくれた左側の寮だった。
譲り受けた最初のうちは、芸妓さんが数人入っていたのだけど、程なくしてまた元の部屋割りに戻し、しばらく空き家のままになっている。
その理由こそが、格安で宿として借りられるところにかかっていた。
格安も格安。何しろただなのだから。
つまり俺達は、観光や三度の食事だけにしか、お金を遣わずに済む。やだお得。だけど世の中、そんなうまい話がある訳ない。ないんだけど、そこに迷わず美羽子が飛びつき、気がつけば今に至るのだった。
もともと比企は、世話になった女将さんに宿を周旋してもらうつもりでいたらしい。京都に行こうと意見がまとまったところで、女将さんや雛鶴さんに連絡すると、それならうちに来るといい、新しい寮が増えて部屋数も増えたから、とお声がかかったのが、秋の初め頃。やったやったと喜んでいたら、どうにも雲行きが怪しくなり、多少宿代がかかっても安全な方がよかろうと、俺達にはよそへ宿をとらせ、比企は自分独りで置き屋さんで調査すると提案したのだが、それでは仲間で旅をする意味がなかろうと、俺達はもちろん、美羽子が頑なに拒否した。よくやった美羽子。
「旅行は行きます。それに、友達を一人で別行動なんてさせません」
危険かもしれないからという比企の意見は、完膚なきまでに粉砕された。
「だって文化祭のときだって、比企さんは守ってくれたし、源君だって比企さんサポートしてくれたし、みんなでそうやって助け合えば、どんなことだってできるわ。私だって、助けられることは手伝うし」
「だから本当に危ない局面になったら、」
「そうなったときこそ一人な方が危ないじゃない! 一人はみんなのために、みんなは一人のために! マコ、ヒロ、わかってるわね! 」
サイドポニーを揺らし胸を張る美羽子に、何が、なんて言える度胸は俺にも忠広にもなかった。
かくして美羽子は圧勝。比企もスパッと諦め、潔く全員野球でことに当たるための支度を整え始め、そして今に至る。
いやあすげえな。美羽子、ついに比企さんまで巻き込んだか。
しかし気になるでしょ。今回の旅の何がそこまで危ないのか。それは、
「梅ちゃんには話したんやけど」
女将さんと雛鶴さんは顔を見合わせ、ぬるまってしまったお茶を下げて、新しいのを淹れ直してくれてから、改めて経緯を聞かせてくれた。
女将さんの置き屋さんはもともとが少数精鋭、芸妓さん舞妓さんの数は合わせて十人もいないけれど、お座敷でのマナーや芸事全般だけでなく、さっきもちょっと触れたけどコンプライアンスや、外国のお客さんにも対応できるよう、英語やフランス語の学習教育も充実させており、そのおかげで客筋がよく、一時的な徒花のような派手な稼ぎはないものの、コンスタントに地道に、堅実な経営状態であった。
そこへ、隣の置き屋さんが店を畳み引退するという噂が流れ、程なくして当の隣家から、どうせ手放すのなら、同じ置き屋を営んでいるお宅に建物を譲りたい、と話がきたのだそうだ。
値段は言い値で構わない、とにかく家財一切を整理して、花背の実家に帰りたい──。
随分と急ぐなとは思ったが、女将さんは不動産屋から界隈の土地の相場など教えてもらい、相応の金額で隣家を買い取った。それが、さっき雛鶴さんの言っていた「左側」の寮だ。
修繕が必要なところは直し、以前からの寮は舞妓さん、新しい寮は芸妓のお姉さん達が使うよう部屋割りを決め、みんなで賑やかに引っ越しをして、数日も経たないうちのことだった。
夜中、女将さんが寝ていると、襖一枚隔てた隣室から、小さく怯えたような悲鳴が聞こえた。すぐに襖がバンと勢いよく開いて、転がるように芸妓の千早さんが血相変えて逃げ込んできた。
「おかあはんっ」
そこで千早さんは、女将さんの顔を見て我に返ったのか、わあわあと泣き出した。
女将さんの話がそこまで差し掛かったタイミングで、置き屋の法被を着た帯師のお兄さんがす、と障子を開けて、千早姐さん戻りました、と耳打ちする。
「こっち来るように呼んでな」
「へえ」
「ああ、皆さんすみませんなあ、今その千早がお稽古から戻ったさかい、本人から何を見聞きしたか話させます。梅ちゃん、千早と会うのも久しぶりやろ、あの子もあんたが戻るって聞いて喜んどったわ」
待つというほどのこともなく、すぐに千早さんは座敷へ入ってきた。ただいま戻りました、ときれいな所作で挨拶して、すっと袂を直したのは、雛人形みたいにトラディショナルな京美人。雛鶴さんより幾つか歳上っぽくて、キリッとかっこいいお姉さんだった。
「いややー! 梅ちゃんやー! いやー嬉しいー! 」
が、黒髪を結い上げたうなじがきれいな、かっこいいお姉さんは、比企を見て雛鶴さんとそっくり同じ反応をした。
「んもー、五月の連休以来やないのー! 会いたかったー! うちだけやのうて、おかあはんも雛菊も千とせも、うちではみーんないっつもその話ばっかりしとったんよー! 」
比企、大人気。そこで千早さんは俺たちの存在に気がついて、あら、と照れたように三つ指ついて挨拶。
「ご挨拶が遅れてしもて、すみません。千早と申します」
俺達もそそくさと居住まいを直してご挨拶。そう、俺達は美人には弱い男子高校生。きれいな女性には礼儀正しいのだ。美羽子も緊張してるのか、借りてきたチワワくらいにはおとなしい。千早さんも美羽子を見て、あらかわいい子がいてはる、とご機嫌だけど、同性同士で対抗意識とかないんですかね。
すると千早さんはにっこり笑ってひと言。
「だって、かわいい子ぉは、男の子も女の子も、見ていて心地ええやないの」
わかったようなわからないような、うーんこの。でもその脇で、雛鶴さんがめっちゃうなずいてるんですが。
千早さんはお茶で一息入れて落ち着いたところで、問題の夜に何があったのかを聞かせてくれた。
その夜、千早さんはいつものように、お座敷から戻って風呂を済ませてから、日課のヨガで体を整えて床に着いた。
すぐにうとうととして眠りかけたそのとき、部屋の中で、誰かの声がする。誰の声かはわからない。何を言っているのかもわからないけれど、とにかくえらい剣幕で罵り毒づいているのはよくわかる。それも、どうやら自分に対して。
ぶつぶつと何かが発酵するようなその声は、やがて段々と声が大きくなって、徐々にはっきりしてきた。
──なぜここにいる。
……の者はどうした。
名前ははっきりとは聞き取れなかった。ただ、千早さんは自分がここにいることを、声の主が激しく糾弾しているのだと感じた。
ええ加減にせえ。明日も早いのに。
それでも眠ろうと布団をかぶっていた千早さんは、ついに腹が立って、布団を跳ね上げた。部屋に誰が忍び込んでいるのか、確かめて叩き出してやろうと思ったのだ。そして。
千早さんは見てしまった。
部屋の天井にみっしりと逆さ吊りに並んだ、黒い小人の群れは、千早さんと目が合うと、一斉にぞろりと動き、全く同じタイミングで、揃って同じセリフを口にした。その声は、一人が喋っているように聞こえた。
「う せ ろ」
腹の底から恐怖で凍りつくような、そんな声だったそうだ。千早さんは自分でも頼りなく思えるほど、か細い悲鳴をあげて、矢も盾もたまらず、隣の部屋の女将さんに助けを求めた。
同じ悲鳴をあげるにしても、いっそ大声を出せていれば、まだ気分的には救われただろう。でもできなかった。何がどう、と訊かれると返事に困るが、とにかく芯から怖ろしくて、大声など出せなかったのだと、千早さんは言った。
それからも奇妙な出来事はいくつか続いた。
廊下を歩いていると、足元を何か、小動物が走り抜けたような感覚があったり、天井から虫がぼたぼたと何匹も降ってきて、それだけでも恐怖だけど、驚いて悲鳴をあげ、誰かが駆けつけると、もう一匹残らず消え失せていたり、夜に部屋で一人でいると不意に誰か、あるいは何かにしたたかに殴られたり。
あんまりひどいので、不動産屋に相談してみたところが、つてを辿って拝み屋を連れてきた。それが、
「ものの役にも立たへんかったんよ」
「効かなかったんですか。御祈祷」
「効かへんかった、ゆうか」
結城がのほほんと質問すると、三人は顔を見合わせた。
「いきなりあほになってしもたんよ、その人」
「御祈祷してはったら、突然苦しみ出して、えへえへ笑い出してん」
「あれは梅ちゃんが見とったら、指差して大爆笑しとったね」
深くうなずく雛鶴さんと千早さんに、えー、そんなのやるなら呼んでくれればいいのにー、と比企はだいぶ残念そうだ。やめなさい。
その拝み屋は、しばらく経つと正気に返りはしたが、ご祈祷の続きについては断固として断った。玉串料も返すから、とにかくもう関わりたくない、とけんもほろろに逃げるように引き揚げ、以来そのまま、芸妓さん全員、新しい寮に住み続けることもできず、仕方なく以前と同じ、元からの寮に戻って暮らしているそうだ。
そこで女将さんが切り出した。
「せっかくお友達と来てくれたのに、梅ちゃんにこんなこと頼むのは、ほんとに申し訳ないと思っとるけど、もう他に頼れる人もおへん」
怪異は二階にのみ集中しているそうで、俺達の寝泊まりする部屋は、寮の一階に用意してあると言って、女将さんはスッと指をついて頭を下げた。
「梅ちゃん、お願いします、あの棟に起こってること、その正体を、突き止めとくれやす」
もちろん、必要であれば正式に、公社を通して依頼として、きちんと報酬もお支払いします──。
女将さんがそう言うと、比企は待ってくださいとその手を取った。
「私はもう、先払いで報酬をいただいてます。ここで日本での暮らし方、日常使う言葉、習慣、そういう全部を私に教えてくれたのは、ここのみんなです。受けた恩義に報いることができるなら、お安い御用だ」
だからどうかお顔をあげてください、と比企はやさしい声で、きっぱりと言い切った。
「この仕事、お引き受けします」
それから美羽子や俺達に向き直ると、この通りだ、また貴君らに甘えることになってしまった、とすまなさそうに詫びた。
「こんなことを言えた義理ではないが、笹岡さんを守ってあげてほしい。もちろん、私もできることは全部やるが、至らないところもあるだろう。貴君らが頼りだ、よろしく頼む」
その言葉に、任された! と源がうなずく。
うん、すげえわかりやすいけど、でもあれです、源なら安心して任せられるわ。これでも一応幼馴染だからね、イロイロ心配はしてるんだけど、源なら大丈夫。俺と忠広は黙ってサムズアップし、うなずき交わした。
一階の座敷三間が、女将さんが用意してくれた部屋だった。玄関に近い六畳二間は襖で仕切られている続き間で、こちらは俺達男子が、トイレや風呂場の近い、奥の八畳間は比企と美羽子が使う。
朝七時の新幹線で東京を発って二時間ちょっと。リニアを使えばもっと早いけど、高校生のバイト貯金ではどうしたって、安さ重視の移動になってしまう。九時過ぎに京都へ着いて、すぐに雛鶴さんと落ち合い、花見小路のこの置き屋さんへ案内された。それから女将さんや千早さん、雛鶴さんとことの経緯について話し、気がつけばもうお昼を過ぎていた。これから置き屋さんは忙しくなる時間帯だというので、俺達は荷物を部屋に置いて、まずは近場から観光しようと、街へ繰り出した。
祇園から歩いて行ける場所となると、まずは建仁寺、それから八坂神社に円山公園。比企のガイドで建仁寺から円山公園を歩き、昼飯を食い損ねた俺達は、八坂神社の屋台でお好み焼きとか食ってるところです。関西に来てお好み焼きとかたこ焼きとか、なんか本場って感じ。専門店とかじゃなく、屋台で堪能できちゃう俺ら、つくづく安上がりにできてるな!
ベンチに座って食ってる間、比企はキーボード出して端末に繋ぎ、凄まじいスピードでぶっ叩いている。食う速度はいつもの上海亭での姿と変わらないが、明らかに量は足りないよね。
何してるのと美羽子が訊ねると、うん、と比企は端末から目を離さず、それでもちゃんと生返事でなく答える。
「情報収集を頼んでる。あの寮の歴代の持ち主一覧」
「誰に? 」
「専門家。こういうことが得意な連中がいるんだ」
そういえばこれまでも、ちょいちょいこういうことがあったけど、言われてみれば誰に頼んでるんだろ。
「専門家って警察とか? 」
結城がのほほんと訊ねると、いや、と比企はそこでキーボードをしまった。
「露人街情報屋組合所属の凄腕ハッカー〈ラジエルの書〉。ちょいと高いが頼りになる。何せ言霊使い級だから」
高いって、どのぐらいなのかしら。ねえ奥さん気になるわよねえ。
「そうだな、日本円だと、こだま市内に新築で庭付き一戸建てを土地ごと買うぐらいかな」
うげげ。まじかよ生々しいお値段だな! そんでもって高いよ!
「ただしお友達になると、岩下の新生姜味ポテチ一ケースとかで、頼んだ以上の仕事をしてくれるぞ」
「何それ」
忠広がげっそりしたが、要するに、と比企はお好み焼きの最後のひと口をばっくり食うと、大事なのは信用だということさ、と言って、さっき買って置いていた明石焼きのスチロール椀に手を伸ばした。
あっという間に明石焼きを流し込み、っていや、もうね、ほんと流し込むとしか言えない食べ方だったんだけどね。うん。とにかく瞬きする間くらいでひと椀食べ終えて、比企はよし、と立ち上がる。
「では行こうか諸君」
「え。もういいの」
「ああ。とりあえず依頼はした。あとは結果が上がってくるまで待つしかないからな。京都を楽しもう」
携帯用のキーボードを畳んで、いつものフライターグに放り込むと、比企は立ち上がって伸びをした。ヤッフー! と大喜びで立ち上がる一同。
「夜になって皆がお座敷へ呼ばれ出かけるまで、置き屋は大忙しだ。短期間とはいえ居候の我々は、落ち着くまで邪魔にならぬよう外で過ごさねば」
京都は夜にだって見どころがたくさんあるぞ、と言って、比企は屋台が用意しているゴミ箱に、空のスチロール椀とお好み焼きのパックを放り込んだ。
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