マダイ

ミンミンゼミが暑さを掻き立てるように鳴いている。

固く閉ざした両眼は色彩豊かな現実世界を遮断し、純然たる漆黒だけを作り出していた。

「おねーさんッ!ねえ、おねーさんってば!……起きなよ。日陰でも八月に公園のベンチで寝るのはとても良くない。熱中症になるよ。そもそも、女の人が公園で寝るのは危ない」

朝の挨拶をするように芯の通った声だ。

わたしは暗闇から意識を浮上させる。

視界に飛び込んできた少女の顔は、上下が逆さまになっていた。

わたしは笑って、そろそろと上半身を起こす。

少女はおっとりした大人しそうな顔をしているけど、熱風で髪が靡くとシャープな輪郭があらわになり、活発そうな印象が強まった。


年齢はおそらく小学生低学年程度だろう。

わたしはベンチに座ったまま、彼女に向き直る。

「えーっと、きみの名前は?」

「……日見七歌(ひみななか)。おねーさんさぁ、ひょっとして知らないの?名前っていうのは相手に尋ねる前に自分から名乗るものじゃないの?」

「あ、そっか。ごめんね。わたしの名前は魚野依未、高校二年生です。親しみを込めて依未ちゃんって呼んでくれたら嬉しいかなー……なんてね、えへへ」

金色の瞳に、わたしが映っていた。

何となく照れくさくなってしまう。


七歌ちゃんはそんなわたしに鼻を鳴らして、謝礼を求めるように小さな手を突き出してきた。

「ところで、あたしにお礼はないの?おねーさんを熱中症から救ったヒーローなんだけど」

太陽は一番高い位置にあって、日差しは刺すように強い。

わたしは眩しさに目を細めて、額に浮かんだ汗を桜色のハンカチで拭う。

広い公園では無いので、配置は把握できている。

自販機で買ったばかりの280mlペットボトルのカルピスは二本とも数滴の汗をかいていた。

一本のカルピスを差し出すと、七歌ちゃんは大事そうに両手で受け取る。

自販機のある場所から、あそこに座ろうかと先程までわたしの寝ていたベンチを指さすと黙ってついてきた。


わたしは隣に座る彼女の、その低い位置にある横顔を見つめる。

「おねーさんってさ、友達からチョロいって言われたりしない?」

ふてぶてしい口ぶりとは裏腹に、ペットボトルの蓋を開けようと必死に格闘している姿に、つい口元が緩んだ。

七歌ちゃんはわたしの表情を見て、不快そうに鼻にシワを寄せる。

「おねーさん、弟か妹いる?」

「うーん、一人っ子かなー……どうして?」

「ふうん、そんなふいんきはする」

ふいんき?

「それを言うなら、雰囲気じゃないの?」

「……、……ちがう!ふいんき!あたしの世界ではそう言うの!」


パタパタと両腕両脚を振りながら、駄々をこねるように七歌ちゃんは言った。

黄色のキッズサンダルが地面に擦れてズリズリ音を立てる。

わたしはカルピスに口をつけた。

口内に広がる甘ったるい冷たさに、寝起きの頭が喜んでいる。

思ったよりも糖分が足りなくなっていたらしい。

「おねーさんは、どうしてここで寝ていたの?馬鹿なの?ホームレスなの?」

わたしはぱちぱちと瞬きをした。

「そんな。えぇー、違うよぉ……」

「ふうん。じゃあ、どうして?恋人にデートをすっぽかされたの?」


「うん」

「……えッ?」

「そうだよー」

わたしの口元からくすくすと笑いが漏れる。

ごうごうと風がざわつき、生い茂る緑が揺れた。

雲一つない青空の下、深く息を吸うと不思議な夏の匂いがする。

七歌ちゃんはまだ驚きの表情を浮かべたまま、こちらをぽかんと見上げていた。

そして、唐突に彼女は立ち上がって言う。

「それ!ソイツ!最低じゃないの!?何時が待ち合わせの時間なの!?」

真剣な面持ちでわたしを見ていた。

睨んでいるという方が近いかもしれない。


わたしはしばらく、ただぼんやりと目の前の少女を眺めていた。

そして、ふゆくんに初めて殴られた夏休み前の記憶が夢の如く眼に浮んだ。

「わたしの恋人は……最低だけど、最高なんだよ。好意を試されるのは悲しいけど、いっとう大好きなんだ」

鮮明にあの日の出来事を思い出してしまい、わたしは一人満面の笑みを浮かべた。

嗚呼、なんて恐ろしいのだろう。

考えただけでも鳥肌が立ってしまいそうだ。

「そうなの……?おねーさんはそれで幸せになれるの?」

七歌ちゃんは不安そうに瞳を曇らせる。

目の前の少女は年齢不相応に聡明だ。

彼女にはわたしの言葉の意味が上手く理解出来ていないかのような様子だった。


真夏の熱気で温くなったカルピスを飲みながら、わたしは笑って聞き返す。

「七歌ちゃんは、今のわたしが幸せじゃないように見える?……それに、もうすぐなんだ。あと少し……きっかけさえあれば、全部が上手くいく。きっと、今だけ、こんなのは今だけなんだよ。わたし達は、ずっと一緒に居るんだからね……」

わたしの言葉に反応したのか、七歌ちゃんは何かを決意したかのように唇を噛んだ。

「……おねーさんは、ピッキングの方法って知ってる?」

「ピッキング……?知らないかなぁ」

「じゃあ……あたしが教えてあげる。おねーさんは馬鹿っぽくて悪い人の食い物にされそうだけど、あたしはおねーさんに長生きして欲しいからさ」


七歌ちゃんは近くに転がっていた立派な木の枝を手に取ると、土を抉るようにしてガリガリと図解のようなものを描いていく。

「そのピッキングの技術って、一体どこで覚えたの?」

顔を上げずに七歌ちゃんは淡々と答えた。

「一緒に住んでる叔父さんが小説家なの。書斎にあった本を読んで練習したらすぐに出来たから、おねーさんも練習したらすぐに出来るようになるよ」

「それって、た、試したの……?」

「そうよ」

今度は顔を上げてニカッと笑い、途端に子供らしい印象になる。

助けてくれた人というだけではない、七歌ちゃんの真っ直ぐな声と笑顔にわたしはかなり好感を持ってしまっていた。


「おねーさんにはカルピス一本分の恩があるし、あたしのとっておきを教えてあげるの」

「えへへ……そっかぁ、ありがとう」

「ところでデートの待ち合わせってさ、本当は何時だったの?」

「えっとねー、多分三時間は前かな?来るかなー、今かなー、まだかなーって……わたしはすっごく楽しみにしてたんだけどねー、ざんねん」

「さッ、さん、さ……最低……」

「あとね、あとねー。わたしって実は来週が誕生日なんだけど、彼ってば、すっかり忘れてるかもしれないー。どーしよう、えへへ」

「ソイツにも同じことをして分からせてやればいいんじゃないかな……」

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