16.八年目と九年目
*****
────話が通じない。
「二人分払うって言ってるじゃないですか」
別にこの施設が損するわけでもあるまいに。何をそんなに狼狽えているのだこの従業員は。
「い、いえ、ですから、このボートはお一人で乗ったら死んじゃうんですよ」
「なんとかします」
「な、ならないんですって!」
僕が借りようとしているボートは二人乗りで、一人が方向転換、一人が推進力を担当する構造になっているらしい。僕は”君”の加護によって常に正しい方向へと進めるはずなので、理論上一人でも何ら問題がない。
「あ、あの……、もしご希望でしたらスタッフが一人同乗しますが……」
「それじゃ意味ないんですよ」
僕は”君”と一緒に乗る様を想像してポエムに生かしたいのだ。他の人間が乗っていたら台無しだ。
係員のお兄さんが「やべぇクレーマーが来ちゃったよ」と言いたげな目をし始めた。そのお目々のおっしゃる通りなので、僕は一つ会釈を置いて止むなく退散する。
「またか……」
観光地というものは往々にしておひとり様に冷たい。二年も旅をしているとこんな経験は数え切れないくらいあった。……まあいい。今の僕なら実際に乗らずともまるで乗ったかのようなリアルな妄想を繰り広げることくらい簡単だ。
僕は適当なベンチに座り目を閉じる。瞼の裏にはついさっきこの瞳が像を結んだかのようにくっきりと君の姿が浮かぶ。
方向転換役は僕と”君”の関係であれば間違いなく”君”が務めていたはずだ。そして僕は”君”に逞しさを見せつけようと必死に漕いでどこかにぶつかっただろう。”君”は「絶対こうなると思った」と呆れて、僕は「僕も」と返す。”君”の前で僕が止まれるはずないからな。
そして”君”は連想してあの日のことを思い出す。家に消火器を売りつけようとする詐欺師っぽい人が現れた時だ。
”君”が対応に困っているのを見て「僕が追い払う」と割って入った。結果僕は見事に消火器を十三万円で購入したのだ。あれ以来重要な意思決定は基本的に”君”が担当することになった。
”君”はボートの向きを修正しながら、「あのお金があったら旅行に行けたのに」と恨み節で呟くだろう。でもそこに関しては僕にも反論がある。別にあのお金がなくたって僕は立派な旅行を用意したじゃないか。なのに”君”が────
「あ、あの、そろそろ閉園なので……」
「え……?」
目を開けると先ほどの係員さんが「こいつクレーム言わなくても別の形で厄介なんかい」と言いたげな顔で立っていた。いつの間にか空が暗い。周囲に他の観光客は誰もいない。
おかしい。ボートを借りようとしたのは午前中だったはず。妄想に耽っていたら一日が終わってしまったというわけか。さすが”君”だ。時の神クロノスを肘掛けか何かにしているに違いない。
「へ、閉園ですってば……」
「あ、す、すみません」
また”君”に思考を持っていかれた。僕は流石に申し訳なくなってそそくさとその場を去る。駐車場で愛車兼自宅に再会し、あてもなく発進させる。
「……次はどこに行こうか」
呟いた言葉には気だるさが伴っていた。正直もう行く場所がない。
日本はもう二周してしまったし、最初は刺激的に見えた景色も今やどこかで見たものに似ていると感じるばかり。いっそ海外でも行ってみるか? この車で行けるものなんだろうか。長期滞在というだけでハードルは高そうだし、手続きも面倒臭そうだ。
……かつて、海外どころか宇宙で書いたらどうかと提案してもらったことがあったな。もはや僕には不要になってしまったのかもしれない。旅はもう充分過ぎるほど数々のポエムを生み出してくれた。
今日のように”君”を思い返すだけでポエムの欠片を手に入れられるのであれば、元の生活に戻っていい頃合いなのだろう。うん、きっとそうだ。
「帰るか。キリもいいし」
実は僕がポエムを書き始めてから今日で丸八年。明日からは九年目に突入する。可動式のポエム製造マシンから備え付けのポエム製造マシンに改造されるちょうど良いタイミングだ。
僕は一旦車を停め、カーナビの目的地を山形の自宅に設定する。再発進は勢い良く、デカい車体がやたら軽やかに感じだ。
多分、僕は安心しているのだ。この旅が終わることに──。
……いや、違う。この旅は最高だった。残念に思うことはあっても、ホッとするような筋合いはないはずだ。
毎日どこへ行くかワクワクしながら決めた。たくさんのアイディアを貰った。家の中で閉じていく思い出を消費していくだけの日々が劇的に色付いたんだ。
「良い旅だったろ……? なあ……?」
自分に言い聞かせるように呟く。頬に涙がひと筋伝う。誰に見られているわけでもないのに、泣いていないフリをして嗚咽を噛み殺した。
世間から切り離された静かで濃密な時間。橘さんを裏切ってまで手に入れた”君”と僕だけの世界。僕はたっぷり堪能したじゃないか。日本中を巡って、いろんな景色を見て、思いつくだけの体験をして。
心ゆくまで“君”のことを考えられた。隣で“君”が微笑む姿が目に浮かぶようだった。何より、毎日”君”に最高のポエムを書けた。だからこれは良い旅だったんだ。だけど、だけど────、
それはまるで、どこに行っても”君”はもういないのだと、思い知るような旅だった。
分かっていたはずじゃないか。そもそも”君”と僕だけの世界なんてもうないのだと。肝心の”君”がいないのだから。
自分で選んで、自分で始めた旅だった。なのに僕はいつの間にか、ありもしない「もしかしたら」を一つずつすり潰しているような感触に囚われて、ずっと勝手に苦しんでいた。バカみたいだ。
それでも僕は痛みに蓋をして旅を続けるしかなかった。だって、家に戻ったところで君がいないのは変わらないじゃないか。
「じゃあ僕はどこに帰ればいい……?」
潤んだ瞳が映す、輪郭の鈍い街の明かりを最後に、僕の視界はブラックアウトした──。
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