第16話 人外真名
その光景を、僕は目を疑わずにはいられなかった。
僕をこの場所まで連れてきたヴァルグと瓜二つの龍が奥に見えるボロボロになった人間と対峙している。
その人は口から大量の血を吐き出したのか、足元には見慣れた赤い池が出来上がっていた。
顔も大きく腫れ上がり、服も生地がズタボロで僕たちが着ているものより酷い有様になっている。
誰がどう見ても、追い詰めている側と追い詰められた側がはっきりとした状況の中、満身創痍な様子を隠すことなく、ヴァルグではなく僕を見つめる視線に思わず息を呑んでしまう。
「………コルド……さん……」
初めて会った時からとても親切にしてもらった。
あの人と出会わなければキューイと友達になることはなかった。
僕の力不足を補い、キューイの窮地に駆けつけてくれた。
返すことの出来ない恩を何度も受けた僕の恩人。
そんな人に対して、僕は恐怖を覚えた。
「やぁ、ルイ君」
何事もなかったかのように僕の名前を呼んだ。
おかしい。
何であんな状態で平気な様子でいられるの?
でも、そんなことよりも、僕を見るコルドさんの目がいつもと違っていると感じて、そのことしか考えられなくなっていた。
いつも僕に向けてくれていた優しい目とはかけ離れた、絶対に手放さないと決めた狂人のような目。
身体が勝手に震えている気がして、悪寒が止まらなくなる。
……本当にあの人は僕の知っているコルドさんと同一人物なの?
別人にしか見えない。
腫れ上がった顔でも、ボロボロになった服装でも、何度も見たから見間違えるわけがない特徴をしているのに、僕は目の前の人物を認めることが出来ない。
「元気そうで何よりだ!ここまで来るのは大変だっただろ?もう少し待っていてくれたまえ。直ぐに、っおっと!」
身体に刻まれた怪我を一切気にする素振りも見せず、僕に明るく、いつもの調子で話しかけてきたコルドさんは、言葉を遮って身体を横に素早くずらした。
するとコルドさんがいた場所の後ろの壁が大きく凹み、中心から凄まじい亀裂が広がっていた。
「え……」
「なに余裕ブッこいてんだ弱者。頭イカれたか。どう解釈したら今の状況で俺から目ぇ離してガキと暢気に会話できるのか是非聞かして欲しいなぁ、ああん?」
何が起こったのか理解できていない僕に対して、前にいる方のヴァルグは左腕を前に伸ばしながら怒気が入り混じった声をコルドさんに向けた。
「これは失礼、…いや失礼ではありませんね。私は言った筈ですよ炎龍王。私の勝ちです、と。ならば余裕でいられるのも理屈が通るのでは?」
「……ここまでこけにされると怒りを通り越して愉快になるなぁ。はーはっはっはー………ああ、いかんなぁ………………殺したくなる」
「っっ!?」
戦慄した。
後ろにいて、僕に声をかけられたのではないと分かっているのに、聞いただけで、見ただけで、身体中の汗が一気に吹き出していく。
これまで恐怖を感じたことはあった。
キューイが熊の魔物に襲われた時、此処で教官に何度も殴られた時、僕はある程度の恐怖を体験している自負があった。
でもまだ、僕はその上を知らなかった。
恐怖を感じる暇もない程の殺意を。
息ができない。動けない。目が離せない。
訓練で見せられた紛い物じゃない。
自らの恐怖を塗りつぶすためのものではなく、心の底から湧き出るものを惜しみなく見せつけた純粋な感情。
殺される。あんなのを向けられたら絶対に殺される。
コルドさんは間違いなく殺される。
止めないと…。
でも僕はまた、何も出来ず黙って見ていることしか––––––。
「ここにいろ」
肩を叩かれた。
ボソッと耳打ちされた言葉は前から聞こえてきた声色と全く同じだったのに、とても穏やかで、縛り付けていた殺意から開放してくれるには十分な安心感が得られるものだった。
それが真横にいたヴァルグが与えてくれたものだと理解した時には、猛スピードでコルドさんに突撃して、すでにぶつかりあった後だった。
「おやおや、
「はっ!助け舟感謝しろ。二度目はねぇぞおらぁ!!」
全身から力が抜けていくのを感じ、身体は自然と膝から崩れ落ちて、両手を地面に付けて荒い呼吸を繰り返してしまう。
顔から噴き出た汗が何度も垂れ落ちていき、頭を上げることすら儘ならない状態で、地面を向いたまま必死に身体中へ酸素を送り込んでいく。
頑張って顔を上げると、コルドさんはいつの間にか手に持ったステッキでヴァルグの両腕と尻尾による一方的に見える攻撃の連打を完璧に捌いている、ように見えた。
僕の目ではどちらが優勢なのか判断出来ず、現実離れした攻防から目を離せずにいると、小さく舌打ちする音が聞こえた。
見れば、前にいるヴァルグから感じていた殺意はいつの間にか収まっていて、落ち着いた雰囲気が感じ取れた。
「『
「……?」
小声で何を言っているのか分からなかった。
でも不思議と、目の前にいるヴァルグからも今では安心感を感じることができた。
僕よりも小さい身体なのに、さっきのことといい、彼は本当に何者なのだろう…。
「仕上げをする。ルイ、そこから動くんじゃねぇぞ」
名前を呼ばれた。
それだけなのに嬉しい気持ちが込み上げてくる。
でもその気持ちを表に出さないようにグッと堪える。
まだだ。まだ隣にあの子がいない。
だから今はまだその時じゃない。
「うん!!」
力強く返事をしてゆっくりと身体を起こしていく。
そのままヴァルグの少し後ろでコルドさんともう1体のヴァルグの戦闘を見守った。
それはまさに一進一退の攻防だった。
ヴァルグが攻め続けている姿勢は変わらないまま、時折コルドさんがステッキによる突きを繰り出しヴァルグの隙を狙っている。
ヴァルグも当たらないように避けたり捌いたりして有利を取られないようにする。
実力は拮抗しているように見えた。
だった筈なのに、突然戦闘は終了した。
ヴァルグの攻撃の隙をつくように繰り出されたコルドさんの一撃、それが当たる直前にヴァルグの姿が消滅した。
「おや」
「これって…」
コルドさんは怪訝な表情を見せて、僕は周囲に変化が起きていることに気づいた。
突然地面一帯から薄い青色の輝きが発生し、距離の離れたコルドさんのいる足元も輝きの内側に入っている。
ただそれだけで、何かが変わったようには感じなかったけど、コルドさんは自分の身体を確認して異変に気づいている様子を見せていた。
「……驚きましたね。まさか『
「はっ!大正解だ。魔術なんぞ遊びだ。だからこそ面白く、知る価値がある。そして危険性にも気づいた。その際にこの力は必須と考え、今こうして貴様の手立てを全て封じることも出来たと言える。…諦めろ、『
勝敗は決した。
会話の内容は理解できなかったけど、ヴァルグがコルドさんに言っている言葉からどちらが追い詰めたのかは見るに明らかだった。
なのに何故か、コルドさんは余裕のある表情を浮かべていた。
「…炎龍王。あなたは優しい方ですね」
「あ?」
「キツい言葉を浴びせながらも相手に対する思いやりの心を常に忘れない信念、あなたのような方が次世代を担っていけばこの世はきっと正しい方向に進んでいくのでしょうね」
「……んだテメェ急に。気持ち悪りぃ」
「コルド、さん…?」
その言葉からは尊敬の気持ちを感じた。
その表情からは憂いの気持ちを感じた。
コルドさんの言葉と表情から、ヴァルグは嫌悪感を、僕は懸念感を口にした。
「あなたのような方ばかりであればどれだけ良かったことか。そうであればこんなことをしなくても、こんな心配をしなくても済んだのでしょうね。……残念です。今からあなたを殺さなければいけないなんて」
ヴァルグを殺す。はっきりとそう言った。
ヴァルグが反論しようとした。僕も疑問を言おうとした。
でもそれは、コルドさんの身体全体を包み込む黒色の膜によって阻まれることとなった。
「………………は?」
薄く現れた膜は一瞬にしてコルドさんの身体が見えなくなる程濃い黒色に変化した。
僕が言葉を失う中、ヴァルグはあり得ない現象を見たような驚きの反応を示し、膜が音も無く消え去ると、そこには見知らぬ人がいた。
見知らぬ人、この言葉が正しい表現なのかは分からない。
それは確かに人の体型をしていた。
でもその手から伸びる爪は刃物を感じさせる程鋭く、肌の色は黒が入り混じった紫色をしていて、背中からは身長の半分の長さはある翼を生やしていた。
背中まで伸びた銀色の長髪と剥き出しの身体から見て取れる鍛え上げられた肉体が人間らしさを残してはいたけど、目の前にいる存在を表すのに相応しい言葉はきっとこれしかなかった。
「悪魔……」
空想上の生き物として絵本で見たことはあった。
龍と同じ、伝説として語られている生き物だけど、人が変身した姿なんて聞いたことがない。
僕が知らないだけ?
何でそう思ったのか、理由は分からないけど、そう信じたかった。
「…………喰ったのか貴様」
そんな甘い考えはヴァルグの言葉が切り裂いた。
「答えろ!!貴様、我が同郷を喰ったな!!自ら種の理から外れたか愚か者が!!」
「…これが最善でしたので」
ヴァルグの怒号を目の前の存在が淡々と肯定した。
その声は聞き覚えのある声だった。
面影はない筈なのに、その表情からどうしても重なってしまう。
「……どうして……」
信じたくなかった。認めたくなかった。
でも、心が決めつけてしまった。
これまでの思い出に残っていた全てが打ち砕かれて、信じていた優しい面影は、狂い果てた狂人へと成り代わっていく。
「どうしてですか!!コルドさん!!」
僕の叫び声を聞いた存在、コルドさんはいつも僕に見せていた優しい笑顔で言った。
「いずれ君にも分かるよ、ルイ君」
そして正面に向き合うと、コルドさんは背筋を伸ばして両足を揃え、どこからともなくステッキを出現させて下につく。
その格好はいつも見てきたコルドさんを彷彿とさせるには十分だった。
「この姿になったからには私の本当の名をお聞かせ致します。私はクリード。『
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