第16話 アザーサイドレイン
煙草くさい男が歩いていた。
土曜日の昼下がり、良く晴れた気持ちのいい日だった。男は疲れている、つい先ほど立ち寄った店で老人に怒鳴り散らされ、あげく銃まで突き付けられたのだから。
道を行く男の隣をたくさんの人が通り抜けていく、今日は二日前から降り続けていた雨が上がり久しぶりの晴天だ。人通りがいつもより多いのはそのせいだろう。
家族連れ、カップル、散歩を楽しむ老人、大通りから離れたこの場所はいつも人通りが少ない、男はそんな静かなこの道が好きだった。
だがたまにはこんな日もあっていいとも思う、静かな道も好きだがこんなありきたりな平和な光景も悪くない、男は道を歩く自分の足に少しだけ力を込めた。
「あら、生きてたの?」
「ずいぶんな物言いだな」
ジーニャは残念そうにバグウェットを見る、本来ならば店が開いている時間ではないがそれを気にするバグウェットでは無い。
仕事終わりに二、三日してからフラっと昼過ぎに店に来るのはいつもの事だ。彼女もそれを分かっているからこそ店を開けていた。
「いつものでいいの?」
カウンターに座ったバグウェットがその問いに頷くと、彼女は準備していたドルトロットを取り出す。グラスを二つ用意し、自分のグラスにだけ氷を入れ酒を注ぎ始める。
「今回は遅かったじゃない、私はてっきり死んだのかと思って祝い金を用意してたんだけど」
「祝うな祝うな、俺はまだ死にたくねえよ」
そんな冗談を言っている間に酒が注ぎ終わった、二人でグラスを掲げる。
「生き残った悪運に」
「クソみたいな世界に」
グラスがぶつかり澄んだ音が響く、二人だけの店内で同じ酒を飲む。
二人が口からグラスを話したのはほぼ同時だった。
「やっぱいいな、昼間っからウイスキーってのは」
「早死に確定ね、あんたも私も」
「馬鹿言うな、俺はお前よりは長生きする自身があるぜ」
はいはいと呆れたように言いながら、ジーニャはバグウェットのグラスに酒を注いだ。ボトルを受け取り、バグウェットも彼女のグラスに酒を注いだ。
「それよりどうなのよ、ラインズだっけ? 始末してこなかったんでしょ?」
バグウェットは結局ラインズを殺さなかった、敵対した相手を見逃すという事は自分の安全な未来を放棄する事に等しい。
報復行為がいつ行われるか、そんな不安を抱きながらこれからを過ごさなくてはならない。普段のバグウェットならばそんな事はしない、敵対した相手や組織は必ず潰し切る。
『遺恨を残さない』
それが彼の戦いに対する覚悟だった。
もしそれを怠れば結果として自分だけでなく、周りの人間を巻き込んでしまう。それを彼は良く知っていた。
「問題ねえよ、どの道あいつはチャイルドホールに消される。リウを差し出せなかった時点であいつの死は確定したんだ」
もっともらしい事を言いながらバグウェットは酒を飲む、ジーニャは彼の言う理由に隠れたもう一つの理由に気付いていた。
ラインズはどうしようもない極悪人だ、それは間違いない。だが仮にも生まれてからずっと暮らしてきた相手だ、目の前で無惨に死ねばリウの心にいらないトラウマを植え付ける可能性は十分ある。
それを理解した上で殺さなかったのだろうという事を、前もってシギが入れてきた連絡の内容から彼女は察していた。
「ふーん……ま、あんたがいいならいいけどさ」
「しっかしお前もお節介だよな、たかだか風呂に一緒に入っただけの奴の面倒を見ろだなんてよ」
酒をグラスの中で遊ばせながらバグウェットが笑う、ジーニャは少しいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「お風呂に一緒に入るって中々ハードル高いのよ? 第一あんたがそれを言うの? そんな事言ったらあんたなんてたった一日面倒を見ただけじゃない」
「そう言われたら弱いけどよ、朝からの長い付き合いだ。情の一つもちったあ湧くさ」
二人はそう言い合いながらお互いグラスに残った酒を少しずつ飲み、何の面白みも無い話をした。
グラスの酒が尽き、ジーニャは新しく酒を注ごうとした。
「そいつは取っといてくれ。また来たら飲むからよ」
「あらそう? ならキープしておくから必ず飲み切ってよね。一度手を付けた酒を人に出すなんてありえないから」
バグウェットは珍しく酒の代金を払おうとしたが、注ぐのを止めたお返しのようにジーニャはそれを止めた。
「奢るわよ、これから大変になるんだから」
「そりゃどーも、じゃあまた来るわ」
「今度はみんなで来てよ」
バグウェットはだるそうに返事をして店を出て行った、ジーニャはグラスを洗うと店の外に置いてある看板に『本日店休日』と書かれた紙を貼り、太陽に向かって思い切り体を伸ばし、大きく欠伸をした。
「……寝よ」
ジーニャは薄くクマのできた目をこすりながら、夜まで起きないだろうなと小さく笑いながら店に入って行った。
バグウェットはジーニャの店を出た後、煙草が吸いたくなり近くの喫煙所を訪れていた。
喫煙所には誰もいなかったため、気楽に吸えると彼は嬉しく思っていた。ベンチに座り煙草に火を点ける、思い切り煙を吸い込むと何とも言えない充足感が体に広がっていく。乾いた喉を水で潤していくような、心地よい感覚だった。
「……お前も吸うか?」
バグウェットの座るベンチの後ろ、背中合わせになるように置かれたもう一つのベンチに顔を隠した怪しげな人物が座っていた。バグウェットが来た時、確かに周りに人影は無く、またその人物が後ろに座った物音すらしなかった。
だがバグウェットはその人物の接近を理屈ではなく、肌で感じていた。
「流石……と言っておきましょうか」
その声は男とも女とも取れる声だった、その人物はバグウェットの問いには答えなかった。
「チャイルドホールの使いだろ、何しに来たんだ?」
「もう知っているはずでしょう、先日の贖罪会を潰した件ですよ」
近いうちにチャイルドホールが接触してくる事は分かっていた、ラインズを生かそうが殺そうが彼らの一大行事を潰した事に変わりは無い、何も無くこの件を見過ごすような組織では無い事は誰の目にも明らかな事だった。
「それでお前は何しに来たんだ?」
「ただの報告です。今回の件につきましては不問にする、そう上層部が判断しましたので」
「そりゃ、ありがたいね。こっちはいつ寝込みを襲われるかと肝を冷やしてたからよ」
バグウェットはそう言って笑いながら煙草を吸う、煙を吐き出すとそれは風に乗って後ろに流れて行った。手で煙を払いながらその人物は言葉を続ける。
「あの
「あいつはどうなった?」
「さあ? あの程度の人材はいくらでもいますから。あまり興味がありませんね」
「ただあの男の処分を一任された者が、私の知る人間の中で一番人を苦しめて殺す方法に精通しているという事は知っていますが」
その口ぶりから、ラインズがすでにこの世にいない事をバグウェットは理解した。
彼があの時ラインズを殺さなかったのは、リウの受ける精神的ダメージを考慮した結果だが、理由はもう一つある。
それはラインズが、どの道チャイルドホールに消されると知っていたからだ。どれだけ上納品を納めても、治安部隊に嗅ぎつけられるような無能を許すはずが無い。
ラインズのせいでグランヘーロではより児童売買に対する取り締まりがきつくなる、そのせいでチャイルドホールはほとぼりが冷めるまでグランヘーロで商売ができなくなってしまう。
その損失を考えれば、ラインズが消されるのも無理からぬ話だった。
「私からは以上です。ただ、あまり私たちの邪魔をするようならその時は御覚悟を」
「それから一点だけ、あなたの発言を訂正します」
その人物はそう言って立ち上がった瞬間、気持ちのいい青空の下で放ってはいけないほどの圧を放つ。
その気になればいつでも殺せる、そんな強い意思が形無き言葉になってバグウェットの背中にのしかかった。
「先ほど寝込みを襲われると危惧していましたが、ご安心ください」
「我々は寝込みなど襲いませんよ、堂々と正面から叩き潰しますので」
バグウェットが振り向くとそこには誰もいなかった、肩の凝りを取るように腕を回し、すでに吸う場所の無くなった吸い殻を携帯用灰皿に押し込み立ち上がった。
「ったく、せっかくの良い天気だってのに」
そんな愚痴を小さく零し、バグウェットは喫煙所を後にした。
「どーも旦那、今日は一人ですか?」
喫煙所を離れてから十分と経たずにオルロが現れた、いつものように軽薄で胡散臭い雰囲気を漂わせながら。
「ああそうだよ、お前こそ今日は一人か?」
「みんな仕事中ですよ」
「じゃあお前はサボりか」
「サボりです」
オルロはいつものように仕事をサボり、バグウェットの元へ来ていた。
その頃バーレンは、オルロの机の上に溜まっている書類を床にぶちまけようか本気で悩んでいた。
仕事が溜まっていようがお構いなしに出かけるオルロに、どう仕返しをするかをバーレンは考え出していた。
「うちは優秀な奴が多いんで」
「お前……後ろから刺されても文句言えねえからな」
そのまま二人は人通りの多い場所に出た、向かうのは話題のクレープ屋だ。あまり甘い物にバグウェットは興味が無かったが、オルロが奢ると言うので付いていった。
「ここですよ、ここ。うちの奴らに聞いたらみんな美味い美味いって言うんです、食わなきゃ人生三分の一は損してるとまで言うんですよ」
「なら食わねえとな、これ以上損な人生は送りたくねえし」
それなりの年齢の男が二人、クレープ屋に並んでいる光景は中々に強烈だった。周りは若い女性や家族連れ、カップルばかり、二人は肩身の狭い思いをしながら列に並んだ。
やがて自分たちの番が来ると二人はそれぞれ注文したが、オルロは帰ってからも食べてほしいといくつか余計に注文し、バグウェットに手渡した。
「これは中々イケますね、うちの奴らが夢中になるのも分かりますよ」
「確かに……こいつは美味い」
二人はクレープ屋から離れた場所にあったベンチに腰掛け、クレープを頬張っていた。
クレープの皮は非常に弾力があり食べ応えがある、そして中身に至っては自分の好きな味を言えばどんなものでも包んでくれる。
店にメニューもあるが、それ以外にも注文があれば多種多様な食材を使ってクレープを作ってくれる。
オルロはイチゴとホイップクリームをふんだんに使った、こぼれクリームイチゴクレープを食べていた。
採りたての瑞々しいイチゴを十個も使い、さらには特性ホイップクリームを溢れるギリギリ、頭から終わりまで詰め込んでいる。
「さすが『食べ始めから終わりまで』ってキャッチフレーズ掲げるだけの事はありますね」
そう笑いながら、オルロはなるべくバグウェットの方を見ずにクレープを食べていた。
バグウェットが食べているのは、もはやクレープでは無かった。
いやクレープなのかもしれないが、オルロはそれをクレープと呼んでしまったら自分の中にある『クレープ』の定義を大きく書き換えなければならない気がし、それをクレープとは認めないと心に強く誓った。
「ん? なんだよ、食いたいのか?」
「いやー……貰うのは申し訳ないんで、どうぞお気になさらずー……」
「そうか?」
バグウェットは自分の手の中にあるクレープ? を頬張る。チーズとバニラアイスまではオルロも聞いていたが、コンソメと豚骨パウダーが聞こえだしてからは耳を塞いでいた。
バグウェットが何を注文したかは定かではないが、彼の手元からただよう塩気と甘さを含んだ匂いと、オーダーを受けた店員の青ざめた表情から彼が店が始まって以来の注文をしたという事は分かった。
「馬鹿舌もここまで来ると凄いな……」
「なんか言ったか?」
「いいえ、何も」
二人は無心でクレープを食べ、やがて二人の手からそれが無くなるとバグウェットは口を開いた。
「そういや前に行ってたアタッシュケースの仕事、どうなったんだよ」
「結局ケースなんて見つかりませんでしたよ、無駄な労力でした」
「まあ元から無理な話だったからな」
最近の各組織の動きや、オルロの部下の話など当たり障りのない話をし、バグウェットは立ち上がった。
「じゃあ俺はそろそろ帰る、クレープありがとよ」
「いつもお世話になってますから、それくらいは安いもんですよ。ちなみに今日飲みに行ったりしませんよね? ジーニャさんの店でとか」
「悪いな、今日は用事がある。それにあいつの店は今日休みだ」
そこで二人は別れた、一人残ったオルロは部下たちに土産としてクレープを買って行こうと思い立ち、クレープ屋に向かって歩き出した。
そこには仕事をサボった事を見逃してもらおうという思いもあったが、残念ながらそれは叶わず、後にクレープを頬張りながらオルロに追加で仕事を持っていくバーレンの姿を他の部下が目撃した。
見慣れた景色、いつも寂しい風が吹き抜ける路地を通りバグウェットは事務所の前に立った。
ドアを三回ノックする、これは彼が一人で外出し帰ってきた時にする行動だった。
「おかえりなさい、早かったですね」
ドアが開き、シギが出迎えてくれた。
事務所の中はバグウェットが出かける前と比べると、かなり綺麗になっていた。
床に散らばっていた書類や雑誌もまとめられ、脱ぎっぱなしだった服も洗濯機の中で景気良く回っている。
「見違えたな、俺らの事務所とは思えねえ」
「一人じゃ無理でしたけど、二人なら何とかなりましたよ」
バグウェットは机にクレープを置き、ソファーに座る。ソファーの穴も新品、とまではいかないが綺麗に塞がれていた。
キッチンの奥にあるバスルームの扉が開く、どうやら掃除が終わったらしい。
「もうありえない! どんだけ掃除してないのよ。排水溝すっごい詰まってたんだけど!」
リウは呆れた様子でバスルームから飛び出してきた、先ほどまで彼女は排水溝の詰まりを取るために奮闘していた。
その甲斐あって詰まりは取れ、排水溝は勢いよく水を飲み込めるようになっていた。
「おまえ結構マメだったんだな」
「あんたたちが掃除しなさすぎるだけよ」
バグウェットがバスルームの様子を見に行くと、排水溝だけでなく他の箇所も綺麗に掃除されている。
鏡に付いた水垢は綺麗に落とされ、壁際にうっすらとあったカビは跡形も無い。
「どう? 綺麗になったでしょ」
自慢げな彼女が顔を覗かせた。
「大したもんだが……お前大丈夫なのか?」
気丈に振舞っているが、リウの精神的疲労は計り知れない。育ての親に裏切られ、帰る場所ときょうだいを失い、さらには人が山のように死ぬ場面を見たのだ。
加えて彼女はそれらを気にせず生きていけるような、太い神経を持ち合わせてはいない。
「……うん、今は何かやってたほうが気も紛れるし、それに大丈夫じゃないのはお互い様でしょ」
バグウェットの傷は致命傷では無かったが、それでも重傷と言って差し支えないものだった。
元気そうに歩いてはいるが背中の傷はまだ痛む、体のあちこちの筋肉も悲鳴を上げていた。
「じゃ怪我人同士、一番元気な奴に面倒見てもらうとするか」
二人はシギを見る、彼は諦めたようにキッチンで夕飯の準備を始めた。バグウェットがソファーで仮眠を取っている間に、夕食が出来上がる。
どうやら今日のメニューはカレーらしい、バグウェットが目を覚ますとスパイスの香りが部屋の中を漂っていた。
「バグウェット、起きたなら皿を用意してください。リウさんは手伝ってくれたんですから」
リウは抜け駆けしてシギを手伝っていたらしく、付け合わせのサラダを盛り付けていた。
ノロノロと立ち上がり、バグウェットはカレー皿を取り出しご飯を盛っていく、あっという間に机の上には夕食が並んだ。
「そういや俺の知り合いがクレープくれたんだ、お前ら食っていいぞ」
席に着いた二人にクレープの入った袋を渡す、喜んで袋を開けた二人は不思議そうな顔をしている。
「ねえ、バグウェットは食べないの?」
「は? 二つしか入ってねえだろ?」
オルロはリウが事務所に来た事を知らない、当然袋の中にはシギとバグウェットの二人分しか入っていないはずだ。
だが袋の中にはきっちり三人分のクレープが入っていた。
「まあ食べないと言うなら、僕たちが食べてもいいんですけどね」
シギは期待の籠った目をしていたが、バグウェットは自分の分をしっかりと確保した。
「よし、食うか」
「待って下さい、せっかくですし乾杯しませんか?」
シギはバグウェットが以前ジーニャから貰ったドルトロットを持ってきた、これで乾杯しようと彼は言ったが、さすがにジュースにしておけとバグウェットに止められてしまい、結局リウとシギはオレンジジュースで乾杯する事になった。
だがリウは乾杯のやり方を知らない、そこでシギがコソコソと耳打ちし乾杯の作法を教えた。
最初に口火を切ったのはシギだ、グラスを高く掲げる。
「煙草臭い馬鹿に」
その次はリウだった。
「えっと……甘党に」
最後にバグウェットが口元に薄く笑みを浮かべ、グラスを掲げた。
「正直者の馬鹿に」
それぞれがそれぞれに向けて、乾杯の言葉を向ける。
全員が小さく笑ってから、グラスを引いた。
『乾杯!』
ぶつかりあったグラスから澄んだ音が事務所に響き渡る。
こうしてクロートザックに新たなメンバーが加わった。
巨大都市フリッシュ・トラベルタ、正直者が馬鹿を見るこの場所に似つかない少女が一人。
彼女は誰よりも正直に、真っ直ぐに人を信じ続けそして裏切られた。
だが彼女は人を信じる事を辞める事は無い。
なぜなら彼女は誰よりも正直だったからこそ、この街で一番の馬鹿たちを見ることができたのだから。
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