第26話 人と魔物の間で
「……やったな……」
クロエの声が不気味に低くなった。まだ力が感じられるのを意外に感じながら、ラグナは剣を構える。
「きみの武器で、もう一つ気に入らないものがあったよ。その魔法だ。四大元素の理を無視したでたらめな術。魔法と呼ぶのもおぞましい……」
クロエは斬り離された自分の腕を掴むと、傷口にくっつけた。
「なにを?」
驚いたことに、傷がすぅっと消え、なにごともなかったように腕がくっついた。腕だけではない。けっして浅くはなかった胸の傷も、見る間に回復していく。
「こ……こんなことが……」
さすがのラグナも唖然とした。これほど早く傷を癒やすなど、ヴォルフ・ガングですらやってのけなかった。
「ぼくは回復魔法が得意だったろ? そのせいか知らないけど、傷の治癒が異常に早いんだ。他のみんなも、それぞれの個性にあった特殊能力を身につけてると思うよ。フェスラムには、なにかなかったのかい?」
ラグナの脳裏に浮かぶフェスラム・レゼントの笑顔。そして最期の瞬間。あったのかもしれない。いや、あったに違いない。しかし、彼女は敢えて使わなかったのだ。ラグナに殺されるために。
「今ので、君が本気でぼくを殺そうとしているのがわかった。それでいい。それでいいんだ。ぼくも本気を……ほ、ほん、き……を……は、や、く……殺し……て」
ラグナの直感が彼を飛翔させた。考えるより早くクロエに斬りかかったが、ラウゼンヴィッターに食い止められてしまった。そして、そのまま振り切られ、ラグナの体は跳ね飛ばされた。
「うおおおおっ!」
柱に激突し、そのまま崩れ落ちる。凄まじい強打に、頭の芯まで痺れが突き抜けた。視界が白く弾けるが、その視界を強引に引き戻させる光景が、ラグナの目前で展開された。
クロエの体が、どんどん人間から遠ざかっていく。その異形はナルク・シント以上におぞましかった。
「見る、な……こんな……こ、こ、殺して、やる。殺してくれぇ」
苦痛が全身を貫いているのか、変身中のクロエは異常なほどに震えていた。床に落ちていた十字架を拾い掴むが、あまりの怪力に、神の象徴はいとも簡単に歪んでひしゃげた。
「クロエェッ!」
憎悪と懇願をごちゃまぜに口に出すクロエの姿に、ラグナの意識が収束した。一刻も早く救い出してやらねば。友を助けられるのは、神ではなく自分だ。
軋む体を無理やり立たせ、柱を蹴ってクロエに突っ込んだ。
だが、素早く繰り出す斬撃はラウゼンヴィッターによって止められ、ラグナは驚愕と焦りの声を漏らした。
「その体で、剣を振るえるのか?」
「こぉろぉすうぅぅぅっ!」
クロエは刃を受けたまま、力任せに振り切った。
ラグナは剣を滑らせ、身を屈める。重たくも速い攻撃が、ラグナの頭上をかすめる。纏った魔力が烈風となって、ラグナが激突した柱を真っ二つにした。
肝が縮み上がる威力に、動きまで小さくなりそうだ。
「しかしっ!」
転がりながらも剣を振るい、クロエの脚を傷つけた。
「ぐぬっ!」
クロエが片膝をついた。だが、脚の傷も瞬く間に治癒し、すかさず襲い掛かってきた。紙一重でかわすものの、ラグナは防戦一方に追いやられていく。激しい攻防の末、とうとう壁際まで追い詰められてしまった。
「うおっ⁉」
ラグナはバランスを崩した。最初の攻撃で、クロエがぶちまけたベンチの木片に、足を取られたのだ。
「死ねっ! ラグナッ!」
「我が言霊はグリトニルの鍵っ! 地獄を目指す天使は重き扉を開けっ!」
ラグナが素早く詠唱すると、クロエの足元が砂と化した。規模は小さいが、クロエのバランスを崩すには充分だ。しかし、クロエは構わず剣を振り切った。
「ぐっ!」
ラグナは受け流して、さらにクロエの態勢を崩した。
「往生際が悪いぞっ!」
クロエは片膝をついたまま、剣を返すことなく、爪で攻撃してきた。リコほど長くはないが、倍近く太い腕から繰り出される五本もの刃は、頭など簡単に粉砕する威力を持っている。
爪が当たったと思った瞬間、クロエは我が目を疑った。壁際まで追い詰め、もう身動きが取れないはずのラグナの体が、深く沈んだのだ。
「なにいっ⁉」
クロエの爪が、ラグナの頭上をかすめて壁を削ったと思いきや、腕が肘まで壁にめり込んだ。
「これはっ?」
ラグナの不自然な動きに対する疑問と、腕から伝わる違和感が同時に過ぎるが、それは瞬時に氷解した。
「きさまっ。自分の足元と壁もっ?」
ラグナは口角を上げ、転がってその場から脱出した。砂化していた部分が、元通りに復元され、クロエの動きを封じ込めた。二の腕まで壁に減り込み、足首がすっぽり地面に飲み込まれている。少し暴れたくらいでは逃れられない、即席の戒めだ。
「動きを封じたっ。壁際まで後退したのは誘いだ。そのままおとなしくしてろっ」
「隠遁生活で鈍ったんじゃないか? 昔のおまえは、もっと鋭く尖っていた」
「なんだと?」
「誘ったのは僕の方だって言ってるんだっ。こいつがある場所になっ!」
クロエは床と壁に取り込まれたまま、ラウゼンヴィッターを思い切り振った。一際大きな風が発生し、ベンチの木片がラグナに襲い掛かった。
「うあっ⁉」
とっさにリィヒト・ハルフィングを盾代わりに構えるが、矢にも劣らぬ速度を得た木片が、ラグナの体を貫いた。
しかも、飛んできた木片は一つや二つではない。横から殴り掛かってくる雨の如く、避けようのない凶刃となって、ラグナを容赦なく穿った。
「うわああああっ‼」
リィヒト・ハルフィングを構えたおかげで、体の中心部はガードできたが、四肢には木片が突き刺さり、無残な様相を呈していた。特に左の腿には大きな木片が刺さっており、歩くのにも困難なダメージを負ってしまった。
焼ける痛みが全身を駆け巡る。目が眩んで、体がよろけた。片膝をつくが、リィヒト・ハルフィングを床に突き立て、なんとか転倒するのは防いだ。
「う……おお……」
「いいザマだな。ラグナ。その絶叫が聞きたかった。その絶望の表情が見たかったぞっ!」
クロエは力任せに、封じられていた腕と足を引き抜いた。もう、人間と呼べる部位は残っていない。外見は完全に一匹のデーモンと化していた。
まるで、王に謁見を許された騎士のように、ゆっくりとした足取りでラグナに近づく。
「七聖剣の英雄も、こうなっては惨めなもんだな」
「そっくり返すぜ……呪いに負けて、デーモンになり下がりやがって……」
「その台詞、フェスラムに言ったのか?」
「言うわけないだろ。彼女はデーモンには堕ちなかった。誇りある人間のまま、死を選んだんだ」
「本当にそうか? 一人だけ呪縛から逃れたきみを妬み、どす黒い炎に身を焦がしていたんじゃないのか? きみがそれに気づけなかっただけで」
「……堕ちてどうする? 人間を襲うのか? その不死に近い体のまま……」
「人を襲う? バカなこと言わないでくれ。僕はデーモンから人を守るために……」
クロエの言葉が途切れた。眉をひそめて視線を泳がせる。自分の言葉と行動が一致していないことに、戸惑っているのだ。彼の中で、人間の正義とデーモンの邪心がせめぎ合っている。
「う、あっ……か……」
「クロエッ」
「うああああああっ!」
タガが外れた咆哮が、礼拝堂を突き抜ける。クロエは、叫びながらラウゼンヴィッターを大きく振りかぶった。いくつもの戦いを経た者の動きではない。素人が闇雲に剣を振り回すのと同じくらい、統率のない動きだ。
迫力はあるが隙だらけの姿勢に勝機を見い出し、ラグナはリィヒト・ハルフィングを構えた。心臓を貫けば、超回復力を持つクロエといえども倒せるはずだ。
勢いをつけて立ち上がろうとするも、木片が突き刺さった脚に走る激痛と、激しい戦いで蓄積されてしまった疲労が一気に伸し掛かり、態勢を崩してしまった。
「しまっ⁉」
もう立て直す暇などない。無情にもクロエのラウゼンヴィッターが振り下ろされた。
ラグナは己の死を覚悟した。脳裏を過るのは、死への恐怖ではなくフェスラムの顔だった。
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