第11話 羽化する天使 その五



 ためらいながら、ヨナタンを見る。ヨナタンはまだ二つの意思で争っていた。巨石の外の地面をころげまわっている。

 しかし、見ているうちにも、しだいに決着がつきつつある。ゆっくりと立ちあがり、無表情に中空をながめる時間が増えていく。ブツブツとつぶやいているのは呪文だろうか?


「龍郎。早くしなければ、クトゥグアの召喚が完全になる」

「…………」


 クトゥグアの体が地面を押しくずし、こちら側へと動きだす。わずかずつだが、確実に進行している。


「わかった。やろう」


 ヨナタンは好きだ。弟がいたら、こんな感じだろうかと思った。だが、今ここで、ヨナタンを殺さなければ、すべての人間が滅ぶ。父も母も清美も、友人たちも、見知らぬ世界中の人々がクトゥグアの炎に焼かれるのだ。


 たとえ大切な人であっても、その一人の命と全人類を天秤にかけたとき、愛する人だけを守ることは自身のワガママにすぎないと、龍郎は思う。


 もしも、これが青蘭であっても、龍郎はこうする。青蘭がアフーム=ザーに憑依され、あやつられていたなら、龍郎は青蘭とともに自決の覚悟をする。青蘭を殺したあと、自分も死ぬと。


(すまない。ヨナタン。ゆるしてくれ)


 龍郎が念じると、ガブリエルが下降した。ヨナタンの目の前に立つ。ヨナタンのつぶやきが聞こえる。


「……ナフルフタグン……ナイン…………クトゥグア……ナイン! イア……フォマルハウ…………ナイ……」


 必死に戦っている。

 アフーム=ザーの束縛にあらがい、ヨナタンはけんめいに戦っている。ヨナタンの心の声が、そのとき、聞こえた。



 ——タツロウ! コイツを殺して! 僕が抑えてるあいだに、早く!



 思えば、ヨナタンは苦痛の玉のカケラの器として、クトゥルフの信徒にも利用された。今はまたアフーム=ザーの依代にされている。

 なんという数奇な運命だろうか。


 見つめているうちに、龍郎の手の内から退魔の剣が消えた。


「龍郎!」


 責めるようなガブリエルの叫びを聞きながら、龍郎は手を伸ばした。両手でヨナタンの肩をつかむ。


(頼む。きいてくれ)


 以前のように、右手に意識を集中する。じょじょに右手が輝いた。浄化の光だ。


「悪しきものよ。ヨナタンの内から去れ!」


 右手をヨナタンのひたいにあてる。ヨナタンは苦痛の声をあげた。が、逃げようとはしない。龍郎の手のひらに覆われて、両目は見えないが、その手の下から涙がこぼれてきた。


「ヨナタン! アフーム=ザーをふりはらうんだ!」


 白い光がヨナタンの頭部を包んだ。ゆらゆらと影のようなものが、光のなかで苦しげによじれる。


 しかし、それはやはり邪神だ。低級な悪魔のように、かんたんに浄化できるものではない。

 激しく上半身をゆらしながら、》はとつぜん、怒り狂った。浄化の光に抵抗し、黒く淀んだ霧が、炎のようにヨナタンの全身からふきだす。


 おそらく、龍郎が苦痛の玉を持っているときなら、浄化できた。でも、今は玉の力を使えない。

 自分の心臓に吸収した魔力は、フサッグァとガタノソアの二柱だけだ。それもフサッグァは邪神というほどには強くない。せいぜい上級悪魔だ。この二柱の魔力だけで抑えこむには、アフーム=ザーは強力すぎた。


 しだいに龍郎は圧倒され、全身のしびれと、冷たいのに焼けるような苦痛を感じる。アフーム=ザーの炎に、逆に燃やされようとしているのだ。


「龍郎! もういい。彼を殺すんだ! 肉体はただの人間だ。肉体を破壊するほうがたやすい!」


 ガブリエルの声がどこか遠い。意識が薄れかけているのだと気づいた。


「龍郎! 君は星の戦士だ。なくてはならない人だ。それ以上、君を危険にさらすな!」


 ガブリエルが龍郎の体を離し、右手にしがみついてくる。龍郎の意思に反して、ヨナタンのひたいから引き離そうとする。


(まだ、やれる。もう少しだけ、試させてくれ)


「ダメだ。今すぐ、やめるんだ!」


 青蘭の叫び声も聞こえた。

「龍郎さんッ! こっちも、もう限界だ。これじゃ、クトゥグアを倒せない!」


 クトゥグアの体はまだ半分……いや、三分の一も滅却していない。アフーム=ザーを浄化したとしても、そのあと、クトゥグアと戦う余力がなければ、なんの意味もなくなる。


 すると、そのとき、ヨナタンがつぶやいた。ドイツ語だったが、なぜか、意味はわかった。


「もういいよ。龍郎。今だけ抑えても、コイツはまたやってくる。僕は僕のまま死にたい。今なら、それができる」


 ヨナタンは龍郎の手をふりはらい、とつぜん走りだした。クトゥグアのいる魔法陣のなかへ——


「ヨナタン! やめろ!」

「タツロウ。あ、り、がと!」


 ヨナタンは自ら、クトゥグアのいる大地の割れめへとびこんだ。忌まわしい炎が、まるで愛撫するようにヨナタンの体にまといつき、一瞬で燃えあがる。


「ヨナターンッ——!」


 ヨナタンを救うために来て、けっきょく救えなかった。

 龍郎は自分の無力さに打ちひしがれる。


 なぜ、もっと早くヨナタンの異変に気づかなかったのか。知っていれば、穂村が対処法を考えだしてくれたかもしれないのに。


 それに、こうなる前に浄化を試せばよかった。


 それとも、それとも……どうしたらいいかはわからないが、何か方法があったのではないかと。


 ぽんと、ガブリエルが龍郎の肩をたたく。


「彼は自身の意思をつらぬいた。満足だったはずだ。だからこそ、最期の言葉は君への感謝だったのだろう?」


 龍郎はあふれる涙をこらえ、歯をくいしばった。

 あとはクトゥグアを封じるだけだ。ヨナタンの遺志をムダにはできない。

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