第9話 過去と未来と その四
星流は言う。
「苦痛の玉は、大天使ミカエルの心臓だった。それを天界から盗みだしたのは、アスモデウスだ。だが、それでは、心臓をえぐりだされたあとのミカエルの体はどうなったと思う?」
「知らない」
知るわけがない。
そんなことは誰も。
「僕は思いだしたよ。あの夜は戦勝の宴がひらかれていたんだ。当時は大地の神々の多くも我々と同盟を結び、参戦していた」
「我々……? 君は何を言っているんだ」
やはり、死者だからだろうか。意思の疎通がとれない。それはなんだか、星流の形をした記憶媒体にすぎないようにすら見える。自身の知識を与えるためだけにしゃべっているのだと。
「大地の神々も宴の場にいたんだ。わかるか? 大地の神だ。彼らはそののち、キリスト教の布教とともに悪魔と呼ばれるようになった」
悪魔。魔王。
にわかに、フレデリックは背筋がゾクリとした。だとしたら、その場に彼もいたことになる。
「アンドロマリウス……?」
たずねると、星流はうなずく。
「そう。宴にはアンドロマリウスもいた。天使たちが殺されたミカエルの心臓の行方を追って、騒いでいるのをいいことに、ドサクサまぎれにミカエルの体を持ちだし、六道へ落とした」
「六道へ!」
六道は転生をうながす輪廻へと続く道だ。そこに落とされた死者は誰であろうと、次の生へと生まれ変わる。
「つまり、ミカエルは生まれ変わっている」
ふと、龍郎がカレル橋で青蘭に話していたことを思いだす。あのとき、龍郎はフレデリックをミカエルだと言っていたようだ。バカなことを言うと思っていたのだが。
「まさか……?」
「そう。君はミカエルの生まれ変わりだ。そして、僕も」
「なんだって?」
今度こそ、フレデリックの思考は混乱して、停止しそうになる。
「どうして……そんなこと……」
「アンドロマリウスはミカエルの死体を六道になげこむとき、二つに分断したんだ。転生しても完全な復活をしないように。右半身。左半身。そして、魂はミカエルの剣に封じこめた。僕たちは不完全な形で転生した、ミカエルの半身だ」
愕然として、言葉にならない。フレデリックはしばらく、ぼんやりと星流の顔をながめた。
星流がフレデリックの手をにぎる。快楽の玉を持つ青蘭とそうするときは、爆発するような歓喜に苦しいほどになる。
だが、星流とふれあうと、この上ない安堵に満たされた。それはおたがいに欠けていたものを補いあえた喜びだ。
まるで、がらんどうの胴体のなかに、血と肉が埋まったかのような充足感。
「……なるほど。そうだったのか。それで、私は君がいないと息もできないような心地がしたのか」
にわかには信じがたい。でも、もう心のどこかでは納得している。これまで、ずっと抱いていた疑念が、すんなりと氷解する。
「だから、セオ。僕は君をすてたわけでも、裏切ったわけでもない。僕たちは二人で一つだ。一心同体。でも、それは恋ではなかった」
「ああ。わかるよ。星流。青蘭を前にしたときのわきあがる感情は、まったく別のものだ」
まだ、ミカエルとしての記憶はない。それも、いつかよみがえるのだろうか?
しかし、星流は断言する。
「それはないな。僕らはミカエルの肉体だ。だが同時に、天使として、もっとも重要な心臓と魂を欠いた肉体だ。記憶は『魂』が持っている」
なんとなく空虚な感じがするのは、そのせいなのだと、今さらにして気づく。
「では、我々の魂はなんなんだ? 今の私や君を動かす、この心は?」
「人として転生したときに獲得した、新しい魂なんだろう」
「そうか……」
ふれあった体の記憶。
ただそれだけで、青蘭を求めているのだ。
それもまた、虚しい。
「では……」
聞くまでもないと思った。
これまでずっと、理由はわからないが小憎らしくて、そのまっすぐな性質を見るたびに妬ましかった。
彼を前にすると、自分の存在を否定されるようで、どうしようもないイラだちを抑えることができなかった。
今になって、その理由がわかる。
「……では、魂の行方は?」
星流はフレデリックを——いや、半身である自分自身をも憐れむような目で遠くを見る。
「わかっているだろう? もっとも大きな苦痛の玉のカケラを有していた。彼が、そうだと」
「ああ」
やはりとしか思わなかった。
やはり、そうなのかと。
彼がいつもまぶしくて、その輝きが羨ましくてしかたなかったのは、心の深淵で認めていたからだ。それが天使を形成する上で、もっとも大事なパーツであると。
(私や星流は必須ではない。代替えのきく末端の部品だ。でも、彼は……)
いつもまっすぐなのは、天使の存在そのものだからか? あるいは、剣に封じられたせいなのか? 直刀のように屈折がない。
フレデリックは嘆息した。
(どおりで、かなわない)
しかし、だからと言って、素直に負けを認めはしないが。
星流の姿が、じょじょに陰のなかに薄れていく。
フレデリックはあわてて、ひきとめた。
「待ってくれ! 星流。私たちの魂が、人になって新たに得たものなら、君と私は別々の存在になった。惹かれあっても、なんの問題もないだろう?」
星流は笑ったようだ。
「そうだね。すべての役目を果たしたあと。来世でなら」
あわい笑みを残し、星流の魂は消えた。
「星流……」
最後のお別れだったのだろう。おそらく、今生で出会うことは、もう二度とない。死に場所で、今一度だけ会える日を、ずっと待っていたのだ。
フレデリックは胸の内でつぶやいた。来世でなら、また会える。悲しむことはない。だから、さよならと。
部屋を出ると、階下のホールに青蘭が立っていた。
「青蘭!」
階段をかけおり、近よる。が、どうしたことか、青蘭の顔色がやけに悪い。
「青蘭。大丈夫か?」
呼びかけても返事がなかった。心ここにあらずだ。よほどショックなことがあったに違いない。
「青蘭?」
「……なんでもない。早く、ここから脱出しよう」
すると、そのときだ。
二人の前にナイアルラトホテップが現れた。
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