II.
†
「オペラを観に行くぞ」
「オペラ、ですか」
フィオナが突然新聞を閉じ、片手間に受け取っていた
「舞踏会があったろう」
「ええ。サミュエルズ伯爵主催の、でございましょう?」
ジャスパーが相槌を打つ。
「その折にオペラ歌手と知り合ったのだが、是非にとチケットを譲り受けたのだよ。だが生憎、私は一人鑑賞などという
「お前達の分だ」とフィオナが指をずらすと、三枚のチケットが扇状に広がった。
「フィオナ様。頭でも打たれましたか?」
呆れた様子で、グレンが彼女が空けたグラスに水を注いだ。まるで、これを飲んで頭を冷やしてください、とでも言っているようだ。
「私達にはチケットなど無用ですよ」
「なんだ、主人の言うことが聞けないのか」
その言葉に、ジャスパーなど口許を覆いながら笑ってしまっている。
「フィオナ様、幾らなんでもお優しすぎます。私共執事が主人と並んで座るなど、言語道断。珍事などと書かれて新聞に載ってしまいます」
「好きにさせておけばいい」
むすっとした彼女の、口を一文字に結んで譲らない様子に、グレンは一瞬困り顔をしてフィオナの名を呼んだ。
「ではフィオナ様、我々の席のご用意は結構です。ですが、フィオナ様のお傍には控えさせていただきます。それでよろしいでしょうか」
「……仕方ない。許可する」
「ありがとうございます」
ジャスパーによって述べられた感謝の言葉は、未だ笑いに震えている。「笑うな」と叱る彼女自身も、微々たる苦笑を噛んで殺していた。それからは、演目のことを考えたのだろうか、
ギルバートはチョコレートを四粒、透明な
「お前達と鑑賞したかったのだ。オペラとはそういうものだろう? しかも見ろこれを。ヴェルディのリゴレットだ」
「フィオナ様がお好きな演目ですね」
グレンが微笑む。
「こういった陰惨な話は好物だ。特に、愛と悲劇が複雑に絡むシーンは実に甘美な気分になるよ」
彼女は悲劇が好きだ。こういうものに関しては嗜好の偏った、偏食家と言って違いないかもしれない。
ギルバートは、シャンパンを長細いシャンパーニュグラスに注いだ。その
ジャスパーがバスタイムの用意が整ったことを報せた。フィオナはシャンパン片手に椅子から立ち上がり、
フィオナの斜め前にジャスパー、後ろにグレンとギルバートが、言葉を交わすことなく、すっと配置についた。広く、しんと静まり返った廊下。そこがさも演劇の舞台かのように、彼女はくるくると踊るように回っては、シャンパンを口に含む。その様子を、ジャスパーが目線だけで振り返った。
「良かったですね。オペラ歌手の方とは、フレッチャー様でございますか? 最近人気を博しているとか」
「ああ、そうだ。ダンスを共にしたよ。随分気に入ってくれてね。特等席をくれたんだ」
フィオナの指が、宙で踊る。バレリーナの如く、爪先にまで糸が通っているかのような手つきで。寓話の姫の如く、小鳥を指にとめるのかのように。淑やかに、そして慎ましやかに、繊細で流麗な所作を繰り返す。
彼女の声帯が微小に震えた。リゴレットの作中で歌われる、『女心の歌』だ。
フィオナが目を瞑りながら縦横無尽に回るもので、執事たちは彼女が壁にぶつからないよう、何度も位置替えをしなければならなかった。
「そんなに、私共とご覧になりたかったのですか?」
グレンが斜めに傾いだフィオナの肩をそっと押し返し、壁に掛かった肖像画の額縁から守る。
「悪いか。好きなものは好きな人と観るのが一番だ。当然だろう」
その返答が嬉しかったのか、グレンは相好を崩す。
「カッセルズ伯爵やギャロウェイ伯爵、フィッツ侯爵などもいらしたのに。きっとフィオナ様がお誘いすれば、皆様喜んでご一緒しますものを」
「あんな野郎共と観て何が楽しい。どうせ話が二転三転して、
舞う、その狭間に、フィオナは眉根を寄せた。
「秀麗な伯爵方は、確かに女性の方々が放っておきませんが……お近づきになりたいと思われているのは、貴女様もなのですよ」
グレンに続いて、ジャスパーが口を開く。
「そもそも、フィオナ様が好む演目自体、血腥い香りがするような気がいたしますが」
「ジャスパー、それは聞き捨てならんな」
「いえ、フィオナ様。これについては誰がどう見ても事実ですよ」
裾が脚に巻き付き、ぐるんと緩やかに床に近づくフィオナの肢体を、今度はギルバートが音もなく抱きとめた。瞑っていた瞳を開き、映り込むその翠が反射する光をうっとりと眺めて、フィオナは首を捻る。腑に落ちないと言わんばかりの表情だ。
「ギル、君もそう思うかい」
「申し訳ございません。ジャスパーは正しいかと」
「そうかい」と、フィオナはからからと笑って、ギルバートの腕から身体を離した。
もうバスルームは目の前だ。ジャスパーが戸を開けた。陶器製の楕円のバスタブには、甘い色彩で美しい装飾が施されている。油絵の具を塗り切ったような
フィオナが通れば、
ふわふわと泡が舞う。フィオナは蜜な泡を身体の隅々にまで広げて伸ばした。石鹸の
「んー……」
フィオナはめいいっぱい伸びをする。湯は滑らかな絹の如く、肌を優しく包む。
「フィオナ様」
ドアのノックと共に声が掛かる。彼女は適当な返事をする。
「失礼致します。本日はラベンダーの香りのシャンプーに致しましょう。オペラが楽しみで楽しみでしょうがない、子供のようなフィオナ様も、リラックスしてお休みになれることでしょう」
「そんな余計なことはよろしい。ジャスパーは黙ってマッサージしろ。ギル、シャンプーだ。グレンはシャンパンを」
「飲み過ぎでは?」
「いいんだ。酔いたい気分なんだ。今、最高に気持ちが良い」
ギルバートが彼女の髪を洗う一方、バスタブから持ち上げられた脚をジャスパーがマッサージする。ふにゃふにゃと締まりのない顔をして、フィオナは先程より少しだけ量の少ないシャンパンを受け取った。無論、酔っ払いのフィオナは、そんなことを露程にも知らない。
「なぁ、グレン。お前も酔おう。ギルも、ジャスパーも。共に酔おうじゃないか」
「フィオナ様は酔われると、いつも私達まで飲ませようとしてきますね」
くすくす、とグレンは頬を上気させた彼女から顔を背けて、肩を揺らし、笑う。
「絡み癖、とやらですね」
ギルバートもフィオナの髪を優しく泡で揉み込みながら、口を挟む。執事達に揶揄われ、フィオナの唇が尖るのもきっと時間の問題だ。ジャスパーが、彼女の
「フィオナ様が直接飲ませてくださるというのならば、是非」
「なに」
ぱっ、と突然機敏な動きをした所為で、ジャスパーの手元から落ちたフィオナの脚が、水飛沫を上げた。ギルバートの方にも、紫色がかった泡が飛ぶ。
「では飲みたまえ。ふふ、有り難く頂戴しろよ、我が執事達よ。主人から直々に、シャンパンのご褒美だ」
こくり、とフィオナの喉が上下したかと思えば、
苦しげに息を吐き出す音がすると同時に、フィオナのふっくらとした唇が、ゆっくりと離れた。目の前には、あまりにも突然の出来事に、シャンパンに濡れた口許を手の甲で覆うギルバート。彼の瞳に映るは、妖艶に瞳を潤ませるフィオナの姿だった。
「お前もだぞ」
グレンの持っていたトレーが、危うくタイルの上に落ちそうになるも、彼の手の内で不安定にキャッチされた。
「っはぁ……フィオナ様」
引き寄せていたグレンのネクタイから手を離し、にっこりと天使の微笑みを浮かべたフィオナは、
バスタブのへりに両袖を腕捲りした肘をついているジャスパーの元へ、彼女はすいっと水中を移動する。もう察した、と言うように、にやりと口角をあげるジャスパーは、頬が彼女の両手で優しく包み込まれると、そっと瞳を閉じた。
唇が彼女のそれと重なり、ごくり、と喉仏が大きく上下した。
「さぁ、もう飲んでしまったな。今日の仕事は終いだ。飲み明かそう」
フィオナは勝ち誇った表情で、シャンパンのボトルを手に取った。
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