第十一話 喰らう闇
深夜、響子は再び眠れぬ夜を迎えていた。自宅の寝室は静まり返っていたが、空気は重く、皮膚の下を這うような冷気が絶えずまとわりついていた。
頭の奥が鈍く痛む。悪魔の気配は遠のいたはずなのに、心の内側には奇妙なざわめきが残っていた。
「……私の心の闇の中に入り込もうとしている」
誰かに“見られている”という感覚。自我の輪郭がぼやけていくような違和感。ふと、枕元のスマートフォンが自動的に点灯し、ホーム画面に見覚えのないアプリが浮かび上がっていた。
《WELCOME》
タップもしていないのに、自動でアプリが起動する。画面には白地に赤い文字でこう表示されていた。
《お前は、どれほどの時間、自分自身に嘘をついてきた?》
響子は息を呑んだ。
その言葉は、誰よりも自分に刺さった。
——そう。自分はずっと「自分は強い」と思い込ませてきた。
だが真実は、霊を見ることも、対処することも、心の奥では恐ろしくてたまらなかった。
《力では勝てない。恐怖を知る者が最も脆い》
画面に歪んだ人の顔が一瞬映る。それは響子自身の顔だった。
だが目が、真っ赤に染まり、口元には裂けるような笑みがあった。
その瞬間、スマートフォンが激しい火花を散らして発火し爆発した。
照明が明滅し、部屋が凍てついたような冷気に包まれる。
そして、再び“あの声”が響いた。
「響子……ようやく…… ようやく気づいたな」
地の底から響くような、幾重にも重なった悪魔の声。
「お前もまた、私と同じだ。家族に憎まれ、孤独に生き、正義を装いながら内心では人間を見下していた……違うか? 偽善者が!」
「黙れ……!」
「真希を見捨てたのは……お前! お前だ! お前なんだ! 助けられたかもしれないとそう思ったのだろう? だが、あの娘が狂っていく姿を見て、お前はこうも思ったはずだ…… “自分じゃなくてよかった”と安堵していたのだろう?」
言葉が喉に詰まり、何も返せなかった。
ベッドの足元から、黒い靄が立ち上る。
悪魔は姿を見せない。だがその存在は、確実に響子の精神に触れてきていた。
「お前の心の闇を喰らうことで、私はこの世に完全な姿で現れる」
その言葉と同時に、響子の目の前に黒い影が立ち現れた。
人のような、獣のような。全身が毛に覆われ、裂けた口には黄ばんだ牙がびっしりと並び、目は血のような赤。そして、その目の奥には無限の嘲笑と怒りが宿っていた。
カチカチカチカチカチカチカチカチカチと黄ばんだ牙を何度も何度も繰り返し鳴らしている。
「私は名前を持たぬ者。だが、呼ばれてきた。お前たち人間が造った憎しみ、恐怖、嫉妬——それらの感情が、私という形をこの世に生んだのだ」
「……この家族を呪ったのも、お前ね?」
「孝之はやっと見つけた理想的な最高の“器”だった。だが、もう老いて腐りかけていた。今、私はもっと良い器を探している」
悪魔の目がぎらりと響子の目を見つめた。
「お前だよ、響子。お前は“視える”。“感じる”。だが誰にも助けを求められず、自分を殺して生きてきた。お前の魂ほど、熟したものはない」
——今、乗っ取られる。
その感覚に、響子は魂が引きずられるような恐怖を感じた。
「私は……お前に決して屈しないわ!」
響子は奥歯を噛みしめ、懐から一枚の霊符を取り出した。それは前田真希が生前、響子に手渡した、唯一の“希望”の印。
霊符に込められていた文字が金色に輝き、部屋中に眩い閃光が走る。
悪魔の姿が一瞬崩れ、悲鳴をあげる。
「クァアアアアアッ!! 何故だ! 何故その符を……その文字は……誰に教わった!?」
「あなたに負けないために、あの真希が残してくれた最後の力よ!」
霊符の光が悪魔の体を裂き、部屋全体に激しい衝撃波が走る。
だが悪魔は消えなかった。
ただ、一時的に姿を引いただけだった。
すべてが静まり返った後、響子はその場に膝から崩れ落ち床へ倒れ込んでいた。
指先は凍え、心臓は壊れるほどに早鐘を打っている。
「私は……私自身と、戦わなくてはならないのかもしれない……」
悪魔は恐怖を糧にする。
それは外部の恐怖ではなく、自分自身の中にある影に他ならない。
かつての前田真希のように。
今、響子は気づいていた。真希は悪魔に憑かれたのではなく、自分の心の闇に触れられ、そこから入り込まれてしまったのだ。
「私の中に……まだ、悪魔はいる……」
だが今度は、逃げない。
響子は静かに立ち上がった。
戦いは、自分自身との戦い。
そして、それは次の舞台へと向かおうとしていた。
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