2-2

 猫田先生の声に、しんとなる室内。しかし私の胸中は、穏やかではなかった。

 今にも心臓が破裂してしまいそうなほどに肥大し、バクバクと鳴っている。

 これはきっと、錯覚じゃない。だってこんなに大きな心音は、今まで一度も聞いたことがないから。

 理由は単純明快。疑いようもなく、明らかだ。

 前方の席には、倉科先輩が。そして、何故か隣には神代先輩がしれっと座っているからである。

 いつの間にこんなことになっていたのだろうか。だらだらと冷や汗が額や背中を埋め尽くさんと、溢れてくる。

 長い足を組んでいる神代先輩からは、ほんのりと良い匂いが……じゃなくて!

 どうしてこの二人が私のすぐ近くにいらっしゃるの?

 というか、この二人ってば仲が悪いはずなのに、どうして近くの席に座るのかな?

 そもそも、どうして同じ委員会に所属しているの?

 誰か、この状況から私を助けて……。

 パニック寸前の頭で心の声を捲し立てながら、今にも泣きそうな自身をぐっと堪えて、辺りをそっとチラ見する。そうして気が付き、愕然とした。

 深く考えるまでもない。それはそうだ。私だって、逆の立場ならばそうする。

 私の座る席の周りには、例の二人以外、誰一人として人間がいなかった。

 広い会議室内。席がたくさんあるこの場所で、誰もが離れた場所――それも出入り口付近に固まって座っていた。

 私はこの二人に近付いてしまった挙げ句、他の委員メンバーからは同情の視線を一身に浴びていたのだった。

 おかしいな……私もあの群衆の中の一人であるはずだったのに……。

 遠い目をしながら視線を前に戻すと、猫田先生が壁に設置されたホワイトボードに文字を書き終えたところだった。

「では、第一回目の今日は、委員長と副委員長を決めたいと思います。委員長と副委員長には、今後の活動での指揮や会議の進行などをしていただくことになります。基本的には三年生に務めていただきますが、二年生、一年生でももちろん構いません。立候補者または、推薦したい人がいれば挙手をしてください」

 猫田先生の言葉に、静寂が降る。誰もが目を逸らしていた。きっと心の中では、祈りを捧げているに違いない。気まぐれな運命の女神の悪戯など、美化委員になったことだけで十分なのだから。

 おそらく、この二人以外の人たちは、私を含め誰もが漏れなく泣く泣くこの場を訪れた人間だろう。

 だというのに、その上委員長なんてやりたくないに決まっている。だって、この二人の上に立たなければならないから。そんなのは悪夢だ。

 そう考えていると、目の前からすっと手が上がった。

「では、僕が」

 手を上げたのは、倉科先輩。心のどこかで、やっぱりという思いが去来した。

「三年の倉科くんですね。委員長への立候補と捉えて、差し支えないでしょうか?」

「はい」

「他の人は、どうですか? 誰もいませんか? 倉科くんが委員長になることに対しての異議申し立てでも、構いませんよ」

 猫田先生、何ということを言うのだろうか……ここで手を上げる猛者など、この場にはいないだろう。

 唯一可能性のある隣の美人も、こういうことには興味がないのか。腕を組み、つまらなさそうな顔をして黙っていた。

「異議もないようですね。では、委員長は倉科くんにお願いします。続いて、副委員長を決めましょう」

 とんとん拍子に決まった委員長。しかし、ここからが問題だった。副委員長が決まらない。

 誰もが目を逸らし、息や気配さえ押し殺すレベルだ。

 時計の針がカチコチと、秒を刻む音だけが響き渡る。

 意外とこういう時、神代先輩は静かだった。耐え切れず暴れ出すかとハラハラしていたが、そんな素振りは塵ほどもない。

 時間だけが過ぎなかなか動きがない中で、一つ息を吐いた先生からいくつか提案が上がった。

「推薦したい人もいませんか? であれば倉科くんに決めていただくか、あるいは、そうですね……くじ引きで決めるしかないでしょうか。倉科くんは、どう思いますか?」

「くじ引き、または僕が決める、ですか……その選択肢を材料とし判断するのであれば、僕が決めてしまうよりもくじ引きの方が良いのではないでしょうか? 独裁政治よりも、批判的な意見のある方が良いと判じます」

「そ、そうですね……では、くじ引きで決めることにしましょう。反対意見はありますか?」

 沈黙をもって、全員が肯定を示す。

 それにしても、神代先輩以外であれば、たとえ誰が選ばれたとしても独裁政治になると思うんだけど……そう考えていると、ふいに猫田先生と目が合った。

 にこりと微笑まれる。

「白瀬さん。申し訳ないのですけれど、くじを作る手伝いをお願いできますか?」

「は、はい!」

「皆さんは、少し待っていてくださいね」

 やはり彼女は救世主! 私をこの席から連れ出してくれるなんて。

 女神が担任で良かったと感動しながら、今にもスキップしてしまいたい衝動を抑えつつ、嬉々として席を立ち先生の元へ向かった。

「紙はこれを。人数分を切りましょう」

 手渡された白い紙を均等の大きさに切り分けて、四つ折りにしていく。

 先生と二人でひたすら紙を切り、折った。

 席で待つ生徒からは、抑えた声ながらも、ざわざわと話し声が聞こえる。

 どれもが同じような内容。誰もが、不安を口にしているようだった。

 その声を遠くに聞きながら、私たちは美化委員全員から二人分を抜いた数の無明記くじと、たった一つの「はずれ」を用意する。

 さて、何に入れようかと顔を上げると、猫田先生がにこりと微笑んだ。

「できましたか? では、この袋に入れましょうか」

「わかりました」

 猫田先生が自身の荷物の中から取り出したのは、一枚のクリアなショッピングバッグ。

 二人で一緒に折り畳んだくじを、その中へ投入していく。先生が最後に振り混ぜて、準備は完了した。

「皆さん、お待たせ致しました。では、順番にくじを引きに来ていただけますか?」

 まずは三年生からということで、先輩たちが一組から順に列を作ってくじを引く。

 一発目に、一組の神代先輩が引いた。面倒くさそうな彼女が開いた紙は、真っ白。倉科先輩以外の全員が、ほっと胸を撫で下ろす。

 誰もが引きたくはない「はずれ」だけれど、唯一彼女にだけは引いてほしくなかったために、安心した。

 推薦や立候補と違って、くじで決まってしまえば異議の申し立てなど不可能。

 もし委員長、副委員長がこの二人に決まってしまったら、それこそ今年の美化委員は終わりだ。

 そうならなかったことに安堵しつつも、しかしまだ何も終わっていない。

 むしろ、これからだ。倉科将鷹の隣に立ち、立場上、神代アウルの上に立たねばならない副委員長に誰がなるのか。

 緊張感漂う空間が、心なしか息苦しい。

 誰もが見守る中で、次々と三年生が引き終わり、続いて二年生が列に並ぶ。同様に先輩たち全員が引き終わったが、ここまでで該当者は現れなかった。

 残るくじは、あと八個。一年生の誰かが餌食になることが、明白となってしまった。

 そっと、クリアバッグを見つめる……あの中に「はずれ」くじがあるなんて……。

「二年生まで引き終わりましたね。誰も当たりを引いてはいませんか? 文字を書いているくじが、当たりですよ」

 誰が当たりだと思うかは、この際さておいて。きっとその説明がなくても、さすがに皆はずれは見た瞬間にわかるだろう。だって「副委員長」と書いてあるから。

 しかし、なるほど。実は引いているにも関わらず、申告しないで隠しているというケースもあり得るのか。

 であれば、万が一引いてしまっても、その手を使えば……いやいや、ダメだ。「はずれ」は一つしかないのだから、すぐにバレてしまう。

 そうなった時が問題だ。今年度最初の標的――倉科委員長率いる美化委員のターゲット第一号になってしまう。

 ぼーっと列の一員になってそんなことを考えていると、一人緊張感とは無縁な変人が、にこにこしながら口を開いた。

「大丈夫ですよ、先生。僕がきちんと一人一人のくじをチェックしていますから」

「あら、そうだったのですね」

 なんと抜け目のない。だから教壇のそばに立っていたのか。これでは不正ができないというものだ。

 どのみちリスクしかないため実行するつもりもなかったから、結果は同じなのだけれど。

「では問題ありませんね。次、一年生どうぞ」

 問題は大ありだったけれど、誰もが黙って従った。

 先輩たちと同じく、一組から順に並んで、くじを引いていく。

 そうしてとうとう「はずれ」が出ないまま、私の番になった。

 残ったくじは、六個。六分の一……まるで、サイコロでも振るかのようだ。

「さあ、白瀬さん」

 促され、猫田先生の前に立つ。

 縦長の透明な袋の口を向けられ、目を逸らしながら、意を決して手を入れた。

 背けた顔。その視線の先には神代先輩がいて、ふいにどきりと鼓動が跳ねる。彼女と目が合ったのだ。

 やや冷ややかな瞳とは裏腹に、形の良い唇がニイッと吊り上がる。

 なんだかいたたまれなくて、私は慌ててこの場を離れようと手を動かした。

 くじを求めて彷徨う指。バラバラと動かし、こつんと最初に爪先へと当たった紙を掴み、そのまま真上に手を抜く。

 折り畳まれた状態では、文字が書いてあるかどうかはわからなかった。後ろに並ぶ人へ先頭を譲るため、一歩横へずれる。

 そうして、くじの結果だけではない理由でドキドキと鼓動が跳ねる中、ごくりと喉を鳴らして、私は普段祈らない神様に都合良くも懇願しながら、何故か薄目を開けてかさりと折り畳まれた紙を広げた。

 そこには――

「あ……」

 文字が書かれていた。見間違いようのない、先生の綺麗な字。「副委員長」の四文字だ。

 口を開けたまま小さな紙を見つめていると、ふいに手元へ影が差した。

 声が降ってくる。

「どうやら、決まりだね」

「――!」

 いつの間にか目の前に立っていた倉科先輩の存在にも驚いたけれど、私は同時に自身の運の悪さにもびっくりしていた。

 まさか、ここまで運が悪かったとは……どうやら、今日は厄日らしい。こんな日は、終わったらまっすぐに帰って早く寝てしまおう。病み上がりだし。

 私ががくりと肩を落とし黒髪を揺らしていると、先輩が先生のそばへ行き声を掛けていた。

「猫田先生、副委員長が決まりましたよ」

「あら。では、白瀬さんが引いたのですね」

「……、ええ。そのようです」

 私の隣で引いたくじを握り締めていた数名と、そうして列に並んでいた残りの一年生たちは、皆一様に胸を撫で下ろしていた。先輩たちからは、哀れみの視線を感じる。

 良いなあ……とはいえ、これは公平無私なくじ引きだ。引いてしまった以上、諦めて大人しく受け入れるしかない。

 なんてったって、異議申し立ては許されていないのだから。

「では皆さん、席に戻ってください。倉科くんと白瀬さんは、前へお願いします」

 猫田先生の声掛けに、生徒たちがぞろぞろと席へ移動していく。

 対する私は、同じく名を呼ばれた先輩とともに教壇に立った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る