活動記録その二「水底に棲む影」
――XX、私たちって生きていたんだわ。
無垢な少女は穢れた手で空の青をすくい取った。
しかしその瞳には光などない。
彼女はきっと、すべてを知っていたんだろう。
***
灰色の雲が早く流れていくさまを、教室の窓から見つめていた。
最後に晴れだったのはいつだろう。最近天気があまり良くなく、毎日こうして曇りか雨続きだった。そのせいで放課後になるとプールから聞こえてくる水泳部の掛け声もぱたりと聞かなくなってしまい、なんだかさみしい。
私は机の横のバッグを肩にかけて、一年一組の教室をあとにした。
「折りたたみ傘、持ってたかな」
今日はまっすぐ帰宅する予定だ。なぜなら、今日は火曜日。オカルト研究部唯一の休みである。……とはいっても正式には休みではないらしく、部長の髑髏ヶ城 鏡夜が独断で定めただけであって火曜日でも事件が起きれば赴くんだそうな。つまり、ほとんど意味がない休みだ。
しばらく歩くと、膝に痛みがはしった。
先週、階段から落ちたときの怪我は、正直に申してしまえば実はあまり治ってはいなかった。膝に巻かれた包帯を見つめながら、治りにくい場所を怪我してしまったのを後悔するばかりだ。右頰の大きな絆創膏もなんだかムズムズするわ、インパクトが大きすぎるがゆえに喋ったこともないクラスメイトにひどく心配されるわで、早く良くなってほしいところである。そういう面ではちょっと、怪我がすぐ治るあの人たちが羨ましかった。
花子さんからも妖怪になれるわよ、と言われたのもあって、ほんのちょっと本当になってしまおうかなと思った。いや、それはさすがにダメ、と頭を振ると、急いでローファーに履き替えた。
ふと、とあることに気がつく。外を歩く生徒がみんな傘をさしていた。
雨が降っているようには見えなかったが、よく地面を見てみると、ポツポツと水玉模様を描いている。
そんなに早く降るって言ってたっけ?
朝のニュースでは夜遅い帰宅の方は傘をお忘れなく、と言っていたような気もするが、この時期にはよくあることだ。仕方ない、と折りたたみ傘を求めてバッグの中を探った。
今日は部活もないし家で課題を片付けるのにはうってつけだ。そう思っていたが。
――そんなばかな。
確かに、いつもバッグの中に入れていたはずなのに、いくら教科書を出して底を掘り返しても傘が見つかることはなかった。このままでは、ただ下駄箱でバッグをひっくり返している恥ずかしい人になってしまう。
さて、どうしよう。考えたすえ、選択肢は四つまで絞られた。
一、職員室まで行って傘を借りる。
二、下駄箱に放置されている傘を拝借する。
三、雨がやむまで待つ。
四、走って帰る。
この中から、なるべく濡れないかつ、早く家に帰れる方法を探さなければいけない。
一は手間がかかるものの、正規ルートだ。しかし職員室にあるのはほとんどが放置されたものなので、ろくな傘が必ずあるとは限らない。二は一番手っ取り早い。しかし、たまたま取った傘がまだ校内にいるクラスメイトのものかもしれない。三は時間がかかるものの、間違いない手段だ。課題もできる。四はリスクが高いが、一番早い。
適切な方法はどれだろうか。よく考えてみよう。
では雨月さん、答えをどうぞ!
――はい! 四番の走って帰る!
「阿呆かお前は」
下駄箱の後ろから、細長い影が現れる。その驚きのあまり、バッグを床に落としてしまった。
「あっ、部長……お、お疲れ様です」
「疲れているのはお前の頭じゃないか? この雨の中を走って帰るなどとずいぶん面白いことを思いつくのだな?」
「ううっ、どうしてそれを!」
すると、彼は私の姿を見るなりニヤリ、と笑った。
「言うまでもないな。鞄を散々漁ったと思ったら頭の上に乗せてこの雨の中、突っ込んで行こうとしてただろうに」
ああ恥ずかしい。全部見られてたんだ。
「全部合ってます……」
「まったく、そんな怪我では今のお前は満足に走れないだろう」
彼は手に持っていた黒い傘の先で私の脚を指した。
「あ」
雨で包帯が濡れてしまうことに気がつかなかった。それにただでさえ歩くのもつらいのに、駅まで走れるはずもない。
これはうっかりしていた。
「仕方がないな。入っていくか?」
部長は、ただそう残して飾り気のない傘を開いた。
あの、これは。
「よかったなぁ雨月君、俺がいて! 濡れずに済んだじゃないか!」
「そうですけど!」
私たちは正門に向かっていた。ひとつ傘の下、部長と肩を並べて歩く私。
――これ知ってる。相合傘ってやつだーっ!
ちょっと、いやだいぶ相手を間違えてしまったようだが、周囲から見ればこれは紛れもない相合傘だ。相合傘のあり方そのものだ。ラブロマンスの象徴的イベントだ。
――なにこの絵。私、何で部長とこんなことになってるの?
「なんだなんだ、偉大なる部長様に感謝の言葉はないのか?」
「はい。ありがたや、ありがたや。です……」
私がそう言うと彼はたいへん満足したように頷いた。
部長様の優しさは大変ありがたいのは確かだが、どこかムズムズして我慢ならなかった。
いつもより近くで見る鏡夜部長は、相変わらずまっ白な肌をしていた。それに横から見ると本当にまつ毛が長い。静かに落ちる傘の影が、より彼を儚く見せる。
この人、一応妖怪なんだよね?
こう見ると信じられない。でも、白い肌と細長い体格を見るとあの骸骨姿と重なるような気がしなくもなかった。部長は私より三十センチくらい背が高い。そのせいで相合傘としてのバランスはあまり良くないようで、私の左肩がだんだん濡れつつある が、気にしないようにしよう。全身ずぶ濡れよりいい。
「ああ、雨月君。その怪我はまだ痛そうだな」
部長が横で右頰を指でつつく仕草をしたので、つられて私は絆創膏の上から頬をなでた。
「まぁ、ちょっとはましになりましたけど」
「そうか。そのままだとマヌケ顔ワカメに見えるからな、早く治せ」
「ちょ、なんで突然暴言吐かれなきゃいけないんですか!」
部長は横でニヤニヤにやけていた。落ちた時に打ったのか、まぶたが腫れてしまったのでマヌケっぽくなっているのは認める。この顔のせいで、花子さんの件の後「雨月さんそれどうしたの? 大丈夫?」と何度話しかけられたか。階段から落ちちゃって、というのは紛れもない真実なのでそう説明して回っていたが、周囲は案外優しくしてくれた。でもここだけの話、まだすごく仲がいい人がいるわけではないけれど、クラスに話せる人は増えたのでけっこう嬉しく思っていたりもする。もちろん怪我して嬉しいとかそういう訳じゃなく。
でも、彼はいつも通りだ。ちょっとは心配してくれているのかなと思った私がバカだった。
そうこうしているうちに、校門に到着した。だが、校門をくぐった部長が向かう先は、なぜか駅と逆方向だった。
「あれ、駅って向こうですけど」
私は坂の下り方向を指さして言った。
この応間学園は坂の途中にある。坂を下れば最寄り駅の三上駅のほうに行くが、坂をさらに上れば以前お邪魔したあの廃墟みたいなアパートと森しかない。本当になにもないのでまず坂の上には誰も寄りつかないはずだが。
「少し寄りたい場所がある。付き合ってくれぬか?」
それだったら私が困る。私は駅に行きたいのに。
「嫌なら先に帰ってもいいぞ」
「はい、そうします。って、私ずぶ濡れになっちゃいますって!」
傘がなくなってしまったら本末転倒だ。
そう連れて来られたのは、部長と蜜弥子先輩のアパートを通り越し、さらに橋をひとつ渡った場所にある、薄暗い森だった。目立った建物も家もない場所に、森の入り口にはぽっかりと植物でできたトンネルが開いているだけだ。駅の逆方向にはあまり足を運ばないので、こんな場所があることは詳しくは知らなかった。
部長は躊躇することなく、トンネルの中に入っていく。しばらくの間進んでいくのを見届けていると、向こうのほうで部長が私を待っているようだった。
「これ、もしかして私も行かなきゃいけないの……?」
葉の露で濡れるのもかまわず進んでいくのを、私は慌てて追いかけた。
でも、彼はここに何の用があるのだろう。
足がムズムズするのも我慢して進んだ。ちょっとだけ体が濡れたが、葉のトンネルは不思議と雨から守ってくれた。トンネルの高さはというと、部長は必死に腰をかがめているが、私はなんとかそのまま立って進めるくらいで、子どもならスイスイと通れてしまうくらいのものだ。秘密基地でも作るならここがちょうどいいかもしれない。
そんなことを考えていたら、部長が急に立ち止まった。
「わぷっ」
彼の腰につっかえ、ついへんな声をあげる。
「ちょっと、いきなり止まらないでくださ……」
「着いたな」
広がる光景は、予想を裏切るものだった。
葉っぱのトンネルの先にあったのは、ひらけた場所にぽつん、とそびえ立つ石碑のみ。部長と同じくらいの高さの石碑は根のほうが苔むして、鉛筆のように先が尖っている。表面には漢字が刻まれていたが昔の表記らしく私には読めなかった。かろうじて「三上」というこの土地の名だけは読めた。
「あの、ここって」
問うも、部長は石碑に向かってそっと手を合わせた。
黒い傘を片手に持ちながら長々と目を閉じる彼に、かける言葉はなかった。
私はまた石碑に目をやる。
――部長、なにしてるんだろう。
彼は黙ったままだったが、しばらくして目を開けて言った。
「ここは終わりにして始まりの場所、と言ったらいいか」
「なんです、それ?」
「この石碑。それが全てを示している」
「……もうちょっとわかりやすく言ってくださいよ」
彼は、その後何も答えてはくれなかった。ただ、口を閉ざす。その表情は、雨が降るなか冷たさを帯びていたようにも見えた。
なんだったんだろう。
沈黙の中、後を引く闇。ただ雨音だけがささやいていた。
***
翌日の放課後、鏡夜部長は部長会議でしばらくいないそうで、蜜弥子先輩と二人で先に活動していてほしいと命令を受けた。
今日も相変わらずの雨で、こんな気候だと地下にオカ研が部室にしている倉庫は息苦しいくらいにジメジメとしていた。昨日よりはましだが、けっこう降っている。
あの後、部長と別れて駅に向かったあとも、静かに手を合わせる横顔がまぶたに焼き付いていた。
――終わりにしてはじまり。
部長はいつも、詳しいことは教えてくれない。聞こうとしても、こういう時にちゃっかりいないし。
私は、ため息をつきながらゆっくりと部室のドアを開けた。
「先輩、なにやってるんですか」
そこにはソファに寝転がるひとつ上の先輩がいた。先輩は私に気がつくと、体を起こす。
「だってー、このソファいっつも師匠に使われちゃってるんだもん。今くらいいいかなって」
「ああ……」
このソファはだいたい、部長が占領してしまっている。幅は二人がけが出来るほどはあるものの、彼はよくここで仰向けになって眠っていたりする。
蜜弥子先輩は部室に立ちこめるジメジメ感も気にせず、ソファの上によくわからない雑誌を広げてくつろいでいた。可愛らしい先輩のことだからティーン雑誌でも読んでいるのかと思ったが、その名前は『妖闇通信・六月号』。表紙には白い肌に白い髪をした女性モデルと「梅雨の雨に負けない! お化け傘セレクション」「色白が命? 幽霊さんと雪女さん必見の日焼け止めって?」の文字が踊っていた。
「これは?」
「妖怪の世界の雑誌にゃん。人間もこういうの読むんでしょ?」
「そりゃ確かにこういうのありますけど」
雪女って日焼け止め塗るんだ。新事実発覚。雪女の夏は大変そうだ。たぶん表紙で頬杖をついて流し目をしている人は雪女なんだろう。妖怪にもモデルの仕事があるらしい。なんというか……。
「今の妖怪って、すごい人間くさいんですね」
「妖怪って、時代遅れってさんざん言われてるから、こうやって暮らしやすいように頑張ってるにゃん。あたしたちは人間のこと襲うこともあるけど、別に嫌いなわけじゃないんだよ」
ほら、と手渡されたので私も妖闇通信とやらをめくってみた。中には通販ページもあり、妖怪がよく見えるレンズの通販情報が掲載されているページには折り目がついていた。私がもらったあのメガネは、これの応用版のようだ。もともとは妖怪同士にも見えない存在というのがいて、それを見るための商品らしい。
本当だ。この雑誌は人間のものをきちんと手本にしている。妖怪特有の言い回しなのか、ところどころ理解不能な言語が書いてあったりもするが、妖怪たちもよりよく見せたり、便利に暮らそうと思っているわけだ。
以前、鏡夜部長に言われた言葉を思い出す。
――全部の妖怪がああやって悪いヤツではないと言っておこう。
「むしろ、人間大好きじゃないですか」
すると先輩は隣から顔をのぞかせて言った。
「でも昔はね、師匠は人間が好きじゃなかったんだよ」
「えぇ、鏡夜部長が?」
意外だ。人間である私にちょっかい出してくるし、不本意だったけど相合傘したし。
先輩は突然、神妙な顔つきをした。
「ねぇ悠ちゃん、師匠のことでわからないこと、いっぱいあるとおもうけど師匠ってああ見えてけっこう……」
コンコン。外から聞こえた軽快なノックによって、先輩の言葉はさえぎられた。
――誰?
私がドアの方に向かうより先に、先輩が何事もなかったかのようにソファから腰を浮かせる。
「はいはーい」
「あの、こんにちは。オカ研の部室ってここだよね?」
ドアの向こうには、細い腕に腕章を巻いた男子生徒が立っていた。彼はスマートフォンを片手に、困ったような笑みを浮かべている。
この人、どこかで見たことあるかも。でも具体的にどこで見かけたのかは思い出せない。胸の中で勝手にモヤモヤしていると、先輩がぴょんぴょんと跳ねた。
「おー! ランランだー! おっひさ!」
なにそのパンダみたいな名前。
「あ、久しぶり猫屋さん。ええっと、鏡夜に来るように言われたんだけどまだいないのかな?」
ランランさんは部室を覗きこんで中を見渡した。どうやら部長を探しているらしい。
「師匠? ううん、帰ってきてない」
「そうなんだ。じゃあもうちょっと待ってみるよ」
「ずっとそこにいるのもアレでしょ? 中入ってていいよ!」
知り合いだったんだ。ランランさんはおじゃまします、と一言断ってから中に入ってきた。するとすぐに私に気がついたようで、こちらを見ながら軽く礼をしてきた。つられて私も頭を下げる。
「こんにちは。あれ、もしかして君が新しい部員?」
唐突な問いを投げかけるランランさん。あれ、どうして知ってるんだろう。
「は、はい。一年の雨月です」
「やっぱり! 鏡夜が『聞いてくれ! うちの部活に新しい部員が来たんだ!』ってすごい嬉しそうに言ってたからそうだと思ったんだ!」
へ、あの人が?
「僕は三年の四季(しき)島(しま) 嵐(らん)。鏡夜とは三年間同じクラスでね、まぁ、彼には色々とお世話になってるんだよ」
あの人に本当は友だちがいるというのは至極どうでもいいことだが、なぜか安心した。でも部長と三年間クラス一緒とか可哀想だなぁ、と真っ先に思ってしまった私は間違っているだろうか。小柄で目もクリクリしているし、あの人に振り回されたら体が持たなそうだ。
「あのね悠ちゃん、ランランはすごいんだぞー。三年生の学年成績二位にして高等部の生徒会長なんだよ!」
「そうなんですか」
「あと水泳部にも入っててー、いっぱい大会に出てるんだよね!」
「ひぇえ!」
まさに文武両道、ハイスペック! そんな人が鏡夜部長のお友達なんて!
驚いたが、よく見ると腕章に太い文字で生徒会と入っているのにも納得だ。どこかで見たことがあると思ったら入学式の代表挨拶だった。それに体型からは想像できないが、よく見ると髪の色が少し薄い。水泳をやっている人は薬品で髪の色が抜けるってどこかで聞いたことがある。ランランさん改め四季島会長は恥ずかしそうに顔を赤くして笑った。
「あはは、僕って全然そんな器には見えないよね……。僕も鏡夜くらい体力と行動力とかあればなぁ」
いえいえ、そんなことないと思います。もしあの人が生徒会長だったらこの学園はすでに崩壊してますって。やめたほうがいいです。
「皆よ、待たせたな!」
生徒会長になった部長が食堂のメニューを全品大盛りにして生徒を泣かせているのを想像していると、その本人が勢いよく部室に飛び込んできた。
「師匠おかえりにゃん。あ、ランラン来てるよ」
もうちょっと普通に入って来られないのか疑問だが、そろそろもう慣れた。昨日の放課後はあんなアンニュイな表情をしていたのに、もう心配する必要はなさそうだった。
しばらく嬉々として両手を広げていた鏡夜部長は、会長にソファに座るようにうながすと、自分もその隣に脚を組んで座った。
「俺は会議だったから先に来てもらった。わざわざすまないな、嵐君」
「ううん、いいんだよ。オカルト研究部は一度覗いてみたいと思ってたし」
「そうか。しかし今日は俺たちに用があって来たんだろう?」
彼の言葉に、急に会長の表情が変わった。
「ずばり、依頼だな?」
冴えた青い瞳が見つめる先には、顔から笑みを消し去った会長がいる。
部室に張りつめた静寂が訪れる。
――依頼。
前回携わったあの怪奇現象は、生徒が立てていた噂を私たちが勝手に調査しただけだったが、部室のドアに貼ってある通り、我が部活は一応「お悩み」――つまり依頼も受け付けている。部長の話によれば年に数回はそういった話が持ち込まれるということだが、これはそのレアケースのうちの一つのようだ。なぜか、気が引きしまった。
四季島会長は膝の上の拳を握りしめ、語り始める。
「……うん。今日はね、依頼したいことがあってここに来たんだよ。生徒会の力じゃ、どうにもならなそうな、ね」
会長はさりげなく腕章の位置を直した。
鏡夜部長も、蜜弥子先輩も、私も皆、彼の話に一斉に耳を傾けている。
「水泳部内で良くないことが起こってるかもしれない」
部長はその言葉を噛みしめるように、アゴに手を当てながら虚空を見つめていた。
しばらくして、口を開く。
「良くないこと、か。具体的にはどんなことか聞かせてくれないか?」
「鏡夜、部長の湊……二組の戸崎(とざき) 湊(みなと)は知ってる?」
「ああ、水泳部の部長だろう。 先ほどの部長会議で見かけたが、そいつがどうかしたのか?」
「そう、その湊。最近、更衣室に荷物を置きに行ったんだけど、湊の私物だけが続けて盗まれたんだ。一度じゃなくて、何度も」
――ということは、盗難事件?
「僕たちは更衣室に自分の練習道具とかを普段から置いているんだけど、隣の湊のロッカーから、いつも物がなくなってて。最近ロッカーの位置をみんなで変えたのを忘れてて、たまたま見ちゃたんだ」
「嫌な事件ですね……」
部活やクラス内で起こる事件の嫌なところというと、問題を起こした犯人がほとんど身近にいること、そして今までの信頼関係が崩壊してしまう場合が多いことだ。この水泳部も放っておけば、悪化してしまう。四季島会長はきっとそれを恐れているのだ。
「彼、最近休みがちで連絡が取れなくてね。今日は来てるみたいだけど、なんか気まずいし……どうしよう」
「ほう、俺たちにその盗難事件の犯人探しをしてほしいと」
「そうなるね。でも、それだけじゃないからオカルト(君)研究部(た ち)に頼んでいるんじゃないか」
といいますのは……。
「誰かが侵入した跡を見つけたんだけど、それが不自然なんだ。なんというか……人の仕業じゃない感じの」
やっぱりまた「そういう系」だ。
鏡夜部長が目をはっきりと見開いた。さらに、会長は続ける。
「最近、今日みたいに雨続きだから練習でプールは使ってないんだよ。だからそもそも、誰かがいるのがおかしいんだ。プールの入り口は鍵かけてるし」
「……そうだな。ならば犯人が『人ならざる者』である可能性は無いとも言い切れない」
どうやら、部長はまた「見えない犯人」の犯行の可能性を見ているようだ。
また会長も同じ意見だそうで、こんな時にプールにいるのはやはりそういった存在と信じているようだった。確かに、そうかもしれない。雨なのにもかかわらず、プールに誰かがいるのは不審だ。でもプールって学校の怪談ではあまりメジャーなものではないような気がする。もし本当にそういった存在の仕業だったとしたら、どんな妖怪なんだろう。
――でも、盗むってことは、今度のやつは極悪なやつなのかな。
「僕自身も忙しくて部活にも最近顔出せてないし、だから君に頼んだんだ」
すると、部長はおもむろにソファから立ち上がった。
「いいだろう。長年の友からの依頼だ、引き受けよう」
「鏡夜、本当?」
「ああ、勿論だとも。というより、実際に見に行ったほうが早い」
そう言って部長は口元を歪ませ、ニヤリと笑った。
「そうとなったら、行くか。戸崎君、今日はいるんだろう?」
――はい?
「今からですか?」
この人は外の様子見えてないんですかね。雨ザーザー降りですよ。事件現場というプールは部室棟からは近いものの、外にあるので間違いなく濡れる。それに私は怪我もしているので、なおさら避けたい。
「傘をさせば問題ないだろう。まさか今日も忘れたんじゃあるまいな?」
「き、今日はちゃんと持ってきてますよ……」
今日は朝からずっと雨だったのでしっかり傘は持ってきている。だが雨はいっそう激しくなっていた。
「また相合傘してやってもいいんだぞ? ん?」
「ああもうニヤニヤしないでください! もうあれはいいですってば!」
私は肩を組もうとしてきた部長の手を押しのけた。すると彼は、しおれたように悲しそうな顔をしたので、少し罪悪感を抱く。相合傘をしているとき、なぜかものすごく恥ずかしかったし、正直もうごめんだ。
でも、こんな状況でも結局のとこは行かなくてはいけないのはわかっていた。つまりは、いつも通りだ。
「さぁ今回もよろしく頼むぞ雑用。 今回は怪我に気をつけろよ!」
懲りずに私の背中をグイグイ押す部長は、やっぱりいつもより楽しそうだった。久しぶりに依頼が入ったから上機嫌なのかな。
「はいはい、わかりましたって」
「いざ往かん! オカルト研究部!」
オー、と声をあげたのは蜜弥子先輩だけだったが、私たちと四季島会長は、部室を飛びだした。
私たちは部室棟の裏にあるプールへと向かうことにしたのだが、普段練習をしていない日は入り口を施錠してあるようだ。事件現場の更衣室はプールの敷地内にあるため、鍵がないと入れない。というわけで、先に普段鍵を管理しているという戸崎部長のもとへ向かった。プール横にある物置のうち、一番広い部屋の中で部員たちが輪になってストレッチをしていた。
「少しいいかね? 戸崎 湊君?」
「――あ?」
鏡夜部長が話しかけると、脚を伸ばす運動をしていた男子生徒が、顔を上げた。
「お前は、一組の髑髏ヶ城……?」
さすがは「変人」。なかなかの有名人のようだ。自分の姓を呼ばれた鏡夜部長はというと、誇らしげな笑みを浮かべる。
「フフフ、俺のことを知っているのか? 俺も有名になったものだな」
しきりに頷いている彼を、戸崎さんは鋭い目で睨みつけた。
「一体何の用だよ……」
「湊、久しぶり。ちょっといいかな」
「おい嵐。いねぇと思ったらこの一組のヤバい奴とサボってたのか?」
「こらこら、人を指さすでない」
鏡夜部長が指摘すると、戸崎さんはさらに不機嫌そうにため息をついた。すみません、いきなりこんな人数で押しかけて。戸崎さんが不機嫌になるのも無理もないと思う。せめて部長と四季島会長だけで行ったほうがよかったんじゃなかっただろうか。
しかし、それはむしろ逆効果であった事はすぐに明らかになった。
「……いちいちうるせぇなさっきから。化学部に乗り込んで血のり作ってみたり、校庭の桜の木を掘り起こして死体がないか確認したりして、そのくせ学年トップなんて、そんな奴知らないほうがおかしいだろ!」
怒鳴る戸崎さんの表情は、嫌悪そのものだ。部長本人はというと若干驚いているが、戸崎さんが怒っている理由までは気がついていないようだ。部長は普段から奇行を繰り返しているのは分かるが、戸崎さんがなぜそこまで敵視する理由は不明だ。
それよりも、今、とんでもない言葉が聞こえたような。
「部長が、学年トップって……」
その瞬間、部室で蜜弥子先輩が発した言葉を思い出した。
――ランランはすごいんだぞー。三年生の学年成績二位にして高等部の生徒会長なんだよ!
四季島会長は学年で二番目。ということは、その上が一人いるということだ。
――まさかね。
すると左隣にいた蜜弥子先輩がこっそりと耳打ちしてきた。
「そのままの意味だよ。師匠はね、三年生の中で一番成績がいいにゃん」
「マジですか!」
いつも何も考えずにおかしな行動をしている上に本来は妖怪という人なので、勉強とか興味ないイメージがあったが、どうやら間違いだったらしい。
「ああいう感じだけど実はめちゃめちゃ天才にゃん。ホントたまに生徒代表の挨拶とかやってる事あるよ」
へぇ。真面目な彼はいつか見てみたいものだ。
睨みつける戸崎さんとは裏腹に、部長はいつものニヤニヤとした笑みを浮かべながら胸を張った。
「俺を知っているのなら話が早い。そう、俺はオカルト研究部の部長にして第三学年の首席・髑髏ヶ城 鏡夜だ。と後ろにいるのはその部員。今日は嵐君とともに水泳部の更衣室で起きているという事件について調査しに来た。プールの鍵を貸してくれないか」
「断る!」
――わぁ、なんて見事な即答!
そうなりますよね。そんな言いかたしたら誰でも断る。あたりに不穏な空気が流れ始めた。
「何でお前なんかに……。だいたい事件なんて起きてねぇよ。いい加減なこと言ってプールをヘンな風に使うつもりだろ」
「おや、君は知らんのか?」
「……は?」
私は思い出した。会長の話によると、戸崎さんは最近、学校に来ていなかったんじゃなかったっけ。
鏡夜部長もそれに気がつき、更衣室での盗難事件についてゆっくりと説明した。戸崎さんの荷物が立て続けになくなっていたという事、それを隣のロッカーの四季島会長が発見した事、そして、犯行は部員の可能性があり、またはそうではない別の存在の可能性もあるという事まで。
「というわけだ。プールに変な侵入跡もあるらしい。だから調べたいだけなんだがな」
「いや、なんだそれ。初めて聞いたぞ。嵐、お前は知ってたのか?」
戸崎さんは会長のほうを向いた。会長はひどく驚愕しているようだ。
「え?」
「何で言ってくれなかったんだ」
「だって湊……。ううん、何でもない。ごめん」
そう言われ、戸崎さんが今度はプールのほうに顔をそらした。そこに部長が彼の顔をのぞき見る。
「ん? 更衣室に確認しに行くか?」
「ああ、お前ら抜きでな」
「……はぁ、ずいぶんと嫌われたものだな」
部長の顔は見事に押しやられてしまった。さすがの彼も困惑しているようで、つい戸崎さんから一歩引き下がってしまったのを見た。すると、その間に四季島会長が入ってきた。
「もう、湊。鏡夜たちは心配してくれてるのに、さすがにそんな言いかたはないでしょ」
「別に、確認に行くならこいつらがいなくてもいいだろ」
「そんなことない。鏡夜の推理と直感は本当に探偵みたいなんだ! 必ずこの盗難事件の犯人も見つけてくれるって」
悲しい事に、彼には効果がないみたいだ。
「ウソつけよ。こんな頭おかしいやつが探偵ごっことかふざけんな!」
「ああっ、待ってよ!」
彼は勢いよく会長を押しのけたかと思えば、プールのあるコンクリートの階段へと走り去っていった。後ろにいた私と蜜弥子先輩にも、止めることは出来なかった。降りしきる雨も気に留めずに走っていった彼のその手には、間違いなく鍵束が握られていた。
「戸崎さん、行っちゃいましたね……」
「うん、まいったなぁ」
私が言うと、会長は肩を落とす。
「実は、湊は一組の人たちがあまり好きじゃないんだよ」
部長をあんなにも嫌っているので何となく察してはいたが、あそこまでとは思わなかった。
「雨月さん、君は一年生だったね」
「はい、そうですけど」
「この学園って、一学年ごとにクラスが二つに分けられてるでしょ。それが大体成績順で、一組に成績がいい人が集められてるのは知ってるよね?」
はい、知ってます。という私も入試の結果でなぜか一組になってしまったのだ。
「じゃあ、一組と二組には見えない壁というか、派閥みたいなものがあるのは?」
「……そうなんですか?」
それは感じていなかった。まだ一年生の私たちは、そこまで成績や進路については気にしていないからだろう。そもそも私自身、成績にはこだわらない人だし。
会長はそっか、とため息をついてから続けた。
「いつからだろうね、昔からあったみたいだよ。ちょっと頭がいいからってクラスが分けられてカリキュラムも別のものになって、そんなの差別だって言う人たちがいるんだ。よくある話だよ」
「それで、戸崎さんは……」
会長は静かに頷いた。
そんな背景があるのなら、ちょっと、今回はあきらめるのも手かもしれない。
部長、今日はこのへんで……。
私がそう言いかけたとき、部長は何も言わず、部屋から出ていってしまった。
「ちょ、部長!」
彼の細い腕をつかもうとするも、すり抜けてしまう。
私はあきらめて部屋の陰からこっそりと外を覗くことにした。すると、部長はプールの出入り口で南京鍵を開けようとしている戸崎さんの背中に向かって、叫んだ。
「おい、本当にそれで良いのか」
雨に濡れるのも構わず、部長は険しい顔つきでそこに立っている。戸崎さんは背中を向けたまま、こちらを一切振り向かない。
「お前はここの部長なのだろう? このまま犯人が捕まらなかったらどうなるか、お前なら考えずとも分かるだろうに」
彼は部長の叫ぶ声にも反応しなかった。それに構わず部長は続ける。
「実はな、理由は控えさせていただくが、これは嵐君からの依頼なんだ。俺は水泳部内で起こった事件を解決してほしいと頼まれた。お前がどうしても嫌なら考えるがな」
「……嘘つけよ、だれがお前なんかに頼むんだ」
雨音が大きくてあまり聞こえないが、たしかに戸崎さんは背中を向けたままそう言った。
部長はそのまま口を閉ざす。先ほどから見ていれば、ずいぶんと追い詰められているようだった。新参者の私が言うのもなんだが、こんなに余裕のない彼は見たことがない。日ごろから予想もしないような行動を取る人だ。あの性格から考えて、やはり彼の敵は多いのかもしれない。
部長はひどく表情を歪ませて、額に手を当てた。
「……そこまで俺のことを信用していないのなら、ここで推理でも披露してやるが」
「はぁ?」
私も戸崎さんと同じ声をあげそうになった。こんな天気の中、何を考えているんだか。しかも推理って、まだ事件現場にも行っていないのに。
「そうだな、試しにお前の事でも暴いてやるか」
「暴くだと? 意味わかんねぇ」
「何度も言わせるな。それで俺の実力があると見ればここに入れてほしいと言っている」
戸崎さんは頷くことすらしなかったが、部長は特に気に留めずいつもの自信満々、までとはいかないが口元にかすかに笑みを浮かべた。やがて静かに語りだした。
「最初にお前は、俺の事を知っていたな。だが名前ではく『一組の』髑髏ヶ城と記憶していたようだが」
「だから何だっての」
「その言葉が最初に出て来たことから察するに、俺の普段の行動よりも成績トップの奴というほうで記憶していたんじゃないか?」
確かに最初に話しかけたとき、そう言っていた。だから一体何だというのだろう。すると私の背後から蜜弥子先輩と四季島会長が覗いてきた。振り向いてみると、なぜか二人は似たような顔で青ざめている。軽く疑問に思ったが、私はまた部長の披露する推理に耳をかたむけた。雨音の中、聞き逃さないように耳をすます。
「……それに加えてお前は先ほどから俺に暴言ばかり浴びせているな。だがその言葉は乱暴なだけで身がない」
「んだと?」
「ほら、そういうのだ。俺をそんなに目の敵にしているということは、だ」
拳を振りかざそうとした戸崎さんを、部長は風のようにひらりとよけた。
「成績関連で何か言われたのか?」
その瞬間、私は彼の目が泳いだのを見逃さなかった。
――まさか、図星?
でも、どうして部長はあまり面識のない彼にそんな推理ができたのだろう。しかもこんな短時間の会話で。
「その様子だと当たったようだな。深く推理せずともわかる。成績上位者の集まる『一組』というワードを多用してそこまでムキになるのは成績しかないだろうと思ったんだ」
私はつい、はっとした。部長は、あの時と同じ瞳をしていたからだ。
――夜の校舎で、花子さんへ向けたあの青く冷やかな瞳。
「鏡夜師匠がおこだ!」
突然、蜜弥子先輩が叫んだ。ていうか「おこ」って何ですか。
「あわわ、あれはだいぶ怒ってるにゃん……」
先輩はさらに真っ青になって、問いかけた私の背後に隠れた。あれで怒っていると言えるのかわからない口調だが、それは口調だけの話だ。
「この前の学年模試の結果が出た時か。ずいぶんとくやしかったのだろう? だからといって人に暴言を吐くのは良くないな。そろそろ耐えられん」
彼は裂けんばかりに薄い唇を吊り上げた。耐えられない、その言葉が意味するのはきっと……。背筋が凍ったのは、雨の冷たさのせいではなかった。
戸崎さんはというと、すっかり下を向いて停止してしまっていた。何か言いたげではあったものの、そんな気力もないようだ。
「当たったようだな。ほら、認めたなら通したまえ」
部長が無理やり戸崎さんの横を通ろうとするが、動かない。見かねたらしい部長は、少し立ち止まった。
「今度はお前や先輩たちが守ってきた水泳部員が、被害に遭うかもしれないんだぞ。部員を守るのも部長の役目だろう。同じ部長として協力させてくれぬか」
「……チッ」
部長の手に、鍵束が投げられた。と同時に戸崎さんは物置に戻っていってしまった。
――部長。すごいんだか、怖いんだか、優しいんだか。
それにしても、部長の「推理」、本当に当たってたんだろうか。私たちは傘をさして外に出た。私が部長のもとに駆け寄ると、彼は手の中で鍵束をチャラチャラ言わせた。立ち去った水泳部の部長を見つめる瞳には、輝きが戻っていた。濡れた前髪をかき分けてすっかり上機嫌のようだ。
「部長……」
まったく、あなたという人は。
「別にいいだろう。結果的にプールに入れるようになったんだから」
それはそうですけど、怖すぎます。
「終わりよければすべてよし、という言葉があってだな?」
「はぁ……」
彼は私の頭を軽く叩いてきた。
「もう、叩かないでくださいよ」
部長は持っていた鍵束のひとつを南京錠に差し込む。その瞬間、閉ざされていた網状の柵が開かれた。
でも、私はまだ知らなかった。この事件が思いもよらぬ方向に向かっているなんて事を。
***
更衣室はプールに入ってすぐの場所に設置してあり、男女どちらもシャワールームとひとりひとつ分のロッカーが備え付けられていた。更衣室から出るとすぐ目の前にはプールがある。
「ちくしょう、誰が持っていきやがった!」
戸崎さんは更衣室のロッカーを開けるやいなや、情けなく叫んだ。少しだけ後ろからのぞいてみると、明らかに荷物が少なくなっていた。小さなビート板などの練習道具がえんじ色をした大きなリュックと黒いボストンバッグに入っていたがそれ以外には何もない。他の部員が入れている水着の予備やジャージといったものは見当たらなかった。戸崎さんがあまりロッカーに物を置いておくタイプではないのかもしれないが、ジャージや水着をいちいち持って帰る必要はない。
こんなこと、人間にできるのだろうか。私は思わず肩を震わせた。
――あの二人、大丈夫かな。
鏡夜部長は普段こそ穏やかだが、地雷を踏みでもすればけっこう怖いことがわかった。あの戸崎さんと一緒で平気だろうか。
という私と蜜弥子先輩はというと、鏡夜部長が会長とロッカーの確認をしている間に不可解な侵入の痕跡を調査することにした。背の高い柵で囲まれているプールサイドを歩きながら、気になるものがないか探す。
「あ、あれ?」
急に、先輩がプールの二十五メートル……中央の線あたりで立ち止まった。
「どうしました、蜜弥子先輩」
「悠ちゃん、これ……」
彼女がしゃがんで柵の方を指さした。
「!」
プールを囲む柵に穴が開いていた。大きさは人の腕が二本分通るくらいのもので、むりやり網を捻じ曲げて開けたような穴だった。
「なんですこの穴」
さっそく怪しいものを見つけてしまったような気がする。こういうとき部長がいないと案外どうしたらわからないものだ。
「わからないにゃん。というかこれどこに繋がってるの?」
「普通にプールの外じゃないですか?」
すると先輩は何を思いついたのか、穴を差していた傘の先でつついた。
「ちょっと、無理にいじらないほうがいいんじゃ」
「これじゃわからないか。もう、どうしよー」
穴は背の高い雑草に囲まれて、その先がどうなっているかわからない。教室棟の日蔭にあるのでドクダミだとかそういうものがよく育ってしまっているようだった。
「……あ」
頬をふくらましている先輩のかわりに、私は思いついてしまった。会長も戸崎さんもいないからできる、この穴がどこに繋がっているか確認する方法がひとつあった。そのことをすっかり忘れていた。
「先輩、お願いします。あの姿になってください……!」
「ほえ? って、う、うにゃ?」
私は両手を合わせ、必死に拝んだ。
そう――この先輩は一見普通の女子高生だが、どういうわけかかの有名な妖怪・猫又なのだ。以前見たときはけっこう小さいサイズだった記憶があるのでこの穴を通るには余裕だろう。
「部長でもよかったんですが、あれはさすがに大きすぎますし」
無理なお願いなのはわかっている。でも私はあの部長と行った石碑のところのトンネルを通るのに精いっぱいだったし、会長たちも絶対に通れないだろう。
「だ、誰かに見られたらどうするの? あと師匠は実は大きさ調整できるにゃん。ま、小さくなれても骨格標本レベルだけど」
うわあ。部長のとんでもない機能を知ってしまった。いつ使うんだろうそんな機能。理科室かな。
「き、きっと大丈夫ですよ、みなさん向こうにいますし……」
私が更衣室兼シャワールームのほうを見ると、まだ三人が固まっていた。
「え。う、うん……もう、しょうがないにゃんねー」
しぶしぶと立ち上がった彼女は。スウ、と彼女が息を吸うと、先輩のツインテールのあたりから猫耳がピョンと生えてきた。蜜弥子先輩はこうやって妖怪の姿に戻るんだ。
『にゃん、と!』
猫又の姿になった先輩は水しぶきをあげ、軽やかに地面に降り立った。と同時に私は、いつも通りブレザーのポケットに忍ばせておいた眼鏡をかける。
『悠ちゃん……ほんとにここ行かなきゃいけないの?』
「こんな雨のなか申し訳ないですが、よろしくお願いします……」
これは仕方がないことだ。水が嫌いな先輩には悪いが、穴の向こうに行ってもらうことにした。妖怪だし、たぶん大丈夫だろう。先輩は小さい体をねじ込み、中へと進んでいく。なんだかデジャヴな光景だ。
しばらく待っていると、プールの柵の向こうに先輩の姿が見えた。こちらに向かって懸命にジャンプしている先輩はなんだかかわいい。と、そう言ってる場合ではない。
「やっぱり外に繋がってた……」
――ということは。ここから盗難事件の犯人が外から侵入したのかもしれない。でもこんな穴を通れるのは先輩ぐらいしかいない。それとも。
「ほう、猫屋君を使ったのか。やるな雑用」
後ろからした声に驚かされるも、その正体には気がついていた。
「部長、向こうはもういいんですか?」
彼はゆっくりと頷いた。なぜか音もなく背後にいることがあるが、不気味なのでやめてほしい。この人は静かにたたずんでいるのが一番怖い人だ。
「ああ。確認したら他の部員のロッカーは開けられてすらいなかった。嵐君とあいつはずいぶんと困惑していたようだが」
「そうですか……」
「戸崎君は部活動に戻っていった。終わり次第また帰ってくるだろう」
と言ったら部長はしゃがんで、蜜弥子先輩と同じように穴を傘でつっついた。
「というか一体なんなんだこの穴は。こんな物あったか?」
「つっつかないでくださいよ。それ先輩もやってましたから。まったく仲良しですか!」
妖怪は誰でもそういうことをする習性でもあるんですか、と無性に言いたくなっていたら、ガサゴソと音がした。
『あっ師匠、戻ってきたんだね!』
穴から先輩が顔を出してきた。そしてどういうカラクリか、いつの間にか人間の姿に戻っていた。
「ふう、悠ちゃんは猫又づかいが荒いにゃん! なんか師匠に似てきてるよ!」
「うう、ごめんなさい……悪いと思ってます」
「何かおごってくれたら許してあげる」
「え? ……わかりました」
そう言っておきながら私は頭の中で財布の中に残っている小銭の数を気にしたが、そんな間もなくやったあ、と先輩が跳ねる。
「だがこれはどうも妙だな。この学園の向こうにある山から下りてきた小動物が捻じ曲げたか?」
部長のおっしゃる通りその可能性はある。
「でもおかしいです。動物だったとして、こんな網を捻じ曲げる力があるんでしょうか」
「そうだな。嵐君が言っていた侵入跡というのはこれの事だったのか。動物でないというのなら――」
『ガボボボ……』
プールのほうから奇妙な音が聞こえた。音というか、鳴き声のようなものだった。
「今の音、なに?」
蜜弥子先輩は小さくブルル、と震えあがった。
「さぁなんでしょう?」
「雨月君、お前も聞こえるのか?」
「ええ、まぁ」
あまり自覚はないながらも、私は昔ピアノをやっていたせいか耳はいいらしい。たぶんこの二人ほどじゃないけど。
「ほう……しかし、だ。この中からなぜ?」
部長は振り返り、プールの中をのぞき込んだ。雨を蓄えて増水しているプールの一部に、かすかに気泡が浮かび上がっていた。しかしその正体は、揺らめいている水面を見つめているだけではわからない。部長は水の中に手を突っ込んだりして様子を見ていたが、頭を抱えているようだった。そして少し間をあけて。
「よし、いいだろう」
自分に、激しい水しぶきがかかったと思えば、部長の姿はいつの間にか、プールの中にあった。しかも、彼は服を着たまま水面にただよっている。
「ふう」
「平然とした顔して何ダイブとかしてるんです! ずぶ濡れじゃないですか……」
「何を言うか。もともと先ほどからずぶ濡れだったから綺麗になってちょうどいいではないか!」
もうこの人の頭の中がどうなっているのか、知りたくても知りきれない。
「しかもこのほうが早いしな。……よし、捕まえた!」
部長はそのまま水底に潜っていった。服とか呼吸とか心配な面はたくさんあったが、人間の体ではないのでそれから数十秒してから浮上してきた。
『がぼぼ、助けてくれー! ってあれ、オイラ浮いてる?』
部長が抱えていたのは、緑色の喋るビーチボールのようなものだった。濡れて頭がツルツルしていて、かわいらしい瞳とくちばしが顔をのぞかせた。
「ひ、なにこれ……」
「そこの排水口に挟まっていた」
と、なぜかビーチボールから小さい手がニョキ、と生えてきて、部長の腕をつかんだのだ。
体型はまん丸で今にでも転がっていきそうだが、くちばしといい頭の皿といい心当たりがあった。
「お前は妖怪・河童だな」
『そうだよオイラ河童、ってお前、なんでオイラのこと見えてるし掴んでるんだ!』
河童。少年のような口調でそう語る彼を見て、私はかけていた眼鏡を少しだけ外してみた。すると不思議なことに部長の腕の中がぽっかりと空いたように見えたのだ。ということは、この子は本物の妖怪だ。
「ふふふ、どうしてだと? 簡単な話だ。俺たちはオカルト研究部だからだ」
彼は胸を張っているが、それは答えになっていない。
『おかると、ってなんだよ? オイラわかんない』
ほら、悲しそうな顔させちゃった。可哀想。
「……お前と、そして俺たちのような存在のことだ。約一名、違うのがいるが」
『それってもしかして――』
部長は腕の中でジタバタもがく彼をそっと片手でおさえたが、それを突き破って河童はまた暴れだした。
『あー! そういえば、さっきそこの二つしばりの姉ちゃんが猫又になってんの見た!』
蜜弥子先輩が目を丸くした。もしかして、これはもともと提案した私のせい?
『さっきシューって小さくなってんの見たぜ! 最初は幻かと思ったけどホントに妖怪だったんだな!』
「うそ。あれ見られてたにゃん?」
『オイラ可愛い子が大好きだからつい釘づけになっちまった! でもホントは大人の姉ちゃんが好きなんだ』
「ちょっと子どもがなに言ってるの! あたしが貧乳で悪かったにゃんね!」
先輩は自分の平たい胸をしきりになでた。もう、先輩も河童くんもなに言ってるんですか。
「蜜弥子先輩、私があの姿になれって言ったばかりに……」
「まぁまぁ良いではないか。俺たちが妖怪だとわかっているのなら警戒されずに済むのだからな。彼女はまぎれもない猫又の猫屋 蜜弥子君だ」
『マジだったのかあれ!』
「という俺は髑髏ヶ城 鏡夜。俺も妖怪だ。それとここにつっ立ってるのは雨月 悠君。こいつは人間だが訳あって俺たちの雑用をやっている」
『おー、そこの姉ちゃんは妖怪じゃないんだなー』
訳ありというか、正しくはなりゆきだと思うが余計なことを言わないようにしよう。
「というわけで俺たちは同じだ。何でも言いたまえよ。河童、こんなところで何をしていたんだ?」
そう部長にたずねられた河童くんは、とたんに暗い顔をした。
『……オイラね、母ちゃんとはぐれちまったみたい』
「ふうん、母親と?」
よく見ると、河童くんは小さな目から涙を流していた。どうやら、思っていたよりも深刻な状況みたいだ。
『オイラ、そこの山に流れてる川に母ちゃんと住んでるんだ。……オマエもこのへんの妖怪なら知ってるだろ?』
山、と聞いて部長は目の色をより鋭くさせる。山といえば部長ときのう行ったあの三上山だ。通らなかったが、石碑のある場所に行く手前にふもとには小川が流れていたような気がする。
「ああ、あの川か。確かにあそこは河童やら人面魚やらが住んでいたな」
『そう。きのう、母ちゃんと食べ物を探しにこのあたりに来てたんだけど、ちょっとよそ見してたら母ちゃんがいなくなってて……。それでなんかここに来たんだ。で、水がいっぱいある場所に着いたからやったー! とか思ってたらそこに詰まったんだよ!』
どうやら彼は迷子で、気がついたら学園に侵入してしまっていたらしい。たしかに水はあるし河童としては絶好の場所だ。少し気になることはあるけれど。
「でもこのプール、どうやって入ったんでしょう?」
「そうだな。ここは閉まっていたはずだ……あ」
部長は何かに気がついたようだった。
「あそこに開いていた穴は……」
「この子はあそこから入ったんですかね」
すると河童くんはしきりに頷いた。
『そうそう! いやー大変だったぜ!』
「ならば、お前。最近このあたりで怪しい者を見かけなかったか?」
部長もなにか妙だと思ったのか、彼に問いかけた。
「怪しくなくてもいい。このプールに最近泥棒が入ったみたいなのだが、誰か見かけなかったか」
河童くんは首をひねって考えていて、しばらくは答えなかった。すると、部長の顔がだんだんと険しくなっていくのがわかった。
「まさか、言えないということはお前が犯人だとでも?」
そう言って、河童くんの体を両手でつかんで激しく揺らす。
「部長! かわいそうなんでやめてください!」
「あんな穴、どんな動物でも開けるのは難しいはずだ。妖怪のお前しかいないだろう!」『ひい、し、ししし知らないよ! オイラ、母ちゃんがどこ行ったのか考えるのに必死でさ。最近、三上町の妖怪を襲うヘンなのがいるって聞いたし、母ちゃんが不安なんだよ……だから離して!』
瞳からふたたび涙をこぼしたのを見て、彼の気持ちは痛いほどに伝わってきた。盗難事件が起きた今、危険だしこのまま、ここに置いておくわけにもいかない。すると今のいままで口を閉ざしていた蜜弥子先輩が河童くんの頭をなでた。
「ねえ、師匠。すぐ疑うのは良くないよ。この子のお母さん、あたしたちで探してあげよう」
『蜜弥子姉ちゃん……』
部長は河童くんを地面に離してから先輩の顔を眺めている。
「この子、かわいそうだよ。お母さんはまだこの町にいるだろうし、絶対に向こうも探してるって!」
「猫屋君。……そうかお前は」
「うん。放っておけない」
なんだか、普段より増して真剣な声音で言っている蜜弥子先輩がいた。部長はそれに圧倒されてしまったのか、心なしか一歩下がったようにも見えた。
「仕方ない。猫屋君がそこまで言うなら母親を探してやろう」
『本当?』
目を輝かせる河童くんは白い手のひらに軽くなでられた。横にいる先輩も嬉しそうだ。
「母親を探すだけだし簡単な話だ。しかしお前、これからどうするつもりだ」
『これから……』
なにも考えていなかったようだ。もしかしてずっとプールにいるつもりだったのだろうか。
「川に帰るか?」
『嫌だよ! あそこオイラたちより強い妖怪がうようよしてんだ! 母ちゃんもいないのにオイラ食べられちゃうよ』
「ふむ、たしかにお前は冷やしたスイカみたいで美味そうだな」
瞬間、河童くんの愛らしい顔が恐怖に染められた。
『え、やめてくれよ……』
「ふっふっふ。冗談だ」
部長が軽く舌なめずりをするふりをすると、河童くんはガタガタと小刻みに震えていた。きっと部長なりにスイカみたいで美味しそうと言ったんだろう。うん、そういうことにしておこう。私はなにも知らない。
「ねえ師匠、笑えない冗談言ってないでさ、いい場所があるよ」
蜜弥子先輩が示した場所には、使われていないある場所があった。
「……?」
私たちはシャワーの横にある大きな湯船のような場所に移動した。部長いわくここは「洗体槽」または「腰洗い槽」と呼ばれるものだそうで、数十年前まではプールに入る前に体の消毒として使っていたが、すでに廃止している学校が多いらしい。戸崎さんと四季島会長にたずねてみたらこの学園もすでに使っていないので、許可をとり、水を入れていいことになった。当然二人には何に使うつもりだ、と問われて返答に困ったが、部長のことだ。「ただの水質調査だ」とよく考えればまったく意味のわからない言い訳をして乗り切った。準備に手間取ったものの、河童くんは小さな水しぶきをあげながら生き生きと泳いでいた。
「それにしても、河童ってキュウリが好きなあの河童さんですか?」
「そうだ。河川に住まうという伝説の妖怪だ。いたずら好きで人間から尻子玉を抜くとされているな。力は妖怪のなかでも格下だが」
「たしかにこの河童さん、小さいし河童にしては迫力に欠けてますよね」
「雨月君、そんなはっきりとスイカみたいだとか子供に転がされてそうとか言ってやるな」
「そこまで言ってませんけど!」
スイカみたいだと言っていたのはあなたのほうだったのにどうして私に押しつけるのか。しかし河童くんは怒ることもなく言った。
『へん、きゅうりなんて嫌だね! カロリーバーのほうがおいしいし!』
はぁ? カロリーバーぁ?
『その通り! オイラが好きなのは普通の味だ! 拾い食いしたとき美味しかったんだよな!』
うーん、拾い食いは良くないんじゃないかな。というか美味しいのかなそれ。
「河童のくせに贅沢を言うな」
『ふんだ。お前とオイラは違うんだよー!』
「それに、そんなもの一体どこで手に入れたんだ」
部長は、何かに気がついたようにハッと顔をあげた。
「やはり貴様、あの更衣室から盗んだのか……!」
カロリーバーは運動する人にはもってこいの食べ物だ。きっと水泳部員にもカバンに入れている人がいるはず。ということは、この河童くんはもしかして……。
「あああ! そうそう、お母さんとはどのあたりではぐれたのかな?」
ふと蜜弥子先輩が慌てた様子で私と河童くんの間に割り込んできた。そのとき確かに見た。部長がちょっとだけだが拳を握りしめたのを。暴力反対ですよ。
『うーん、なんか綺麗で胸がデカい姉ちゃんに見とれたらはぐれちゃったこと以外覚えてないなー』
「ええ……」
私は思わずうめいてしまった。状況はかわいそうだが、なんて子だ。しかし部長は完全なスルースキルをお持ちのようで、すぐ次の質問に移った。
「どんな人物だった?」
『なんかやけにかわいい服着てたぞ。えーっと、泥水みてえな色してた! でもその姉ちゃんが着てたらめちゃくちゃ可愛いかったんだ!』
表現に問題はあるものの、泥水色ということは茶色系統だろうか。
「泥水、わからないな。雨月君と猫屋君は何か心当たりはあるかね」
「いや、私には……」
「あたしもわかんない」
『……そうだよな』
答えのない私たちに対して、河童くんはあからさまにへこんでしまった。茶色い服の人はこの町にも、そうでなくてもたくさんいるし、彼の発言だけでは限定できない。探すのにはもう少し手がかりを集める必要がある。なるべくなら早く見つけてあげたい。
蜜弥子先輩の言う通り、この子の母親はきっと今頃とても心配しているだろう。そう思うとひどく心が痛んだ。
でも、部長の意見通り、実をいうとこの子が犯人だという可能性も必ずあるわけだ。そんなことをする子ではないと思うが、相手は妖怪だ。更衣室に入ったような事も言っていたし、全く怪しくないわけではない。
「鏡夜たち、お疲れ」
更衣室から四季島会長が顔をのぞかせた。
「雨ひどいし暗くなってきたし、今日はもう帰っていいよ。僕たちも帰るからさ」
「む、そんな時間か」
ふとプールの外をのぞくと、ぞろぞろと部員が部屋から出てくるのが見える。雨のせいで時間というものをよく確認していなかったが、スマートフォンで時間を確認すると、すでに一八時手前だった。
「よし、続きは明日にしよう」
「わかりました。お疲れ様です」
四季島会長は横で首をかしげていたが、彼は不思議と私たちを深く詮索したりはしない。さすがあの部長の親友というくらいだ。
「ありがとう鏡夜たち。湊は相変わらずだけど、またよろしくね」
会長は、なんだかいつも困ったように笑う人だ。
最寄り駅で降りた頃には、先ほどまでの大雨が嘘だったかのように小雨になっていた。傘がなくても歩けるくらいだ。
私は駅からさほど遠くない、青い屋根にクリーム色の壁をした一軒家を目指す。
「ただいま」
玄関に響く私の声と同時に、パタパタとこちらに駆け寄ってきたのは、雨月(あまつき) 亜矢(あや)――私の母さんだ。
「悠、遅かったじゃない!」
「母さん、今日は部活だって言ったじゃん……」
娘が家に帰ってきて一番はじめに怒鳴りつける親ほど嫌なものはいない。というか娘の部活の日程くらい覚えておいてほしい。私がわざと大げさにため息をつくと、母さんはさらに目をつりあげた。
「ああもうこんなに濡れて、どんなことしたらそうなるのよ!」
私が靴を脱ぐ暇もなく洗面所のほうに引っ込んでタオルを取ってきた。そういうわりに私の頭を雑に拭く。
「色々あったんだよ」
「でも階段から落ちたんでしょう? ホントだったら今すぐにでも入院させてるのに……」
いつもこうだ。ブツブツと何かをつぶやいている母さんは嫌いだ。いつも不気味だった。
「ねぇ、帰りは遅いし階段から落ちるし、まさかいじめられているとかではないわよね……? そんなくだらない部活、いいから関わないですぐに辞めるのよ」
その言葉に、私の中で何かが千切れた音がした。でも、弱い私はこの人に何も言えない。
「違うの? 無理しないで早く言いなさい」
「そんなんじゃないってば」
「そう。まぁ、とにかく遅くに出歩くのは禁止にします。わかったら早くお風呂入っちゃいなさい」
うながされるまま、私は風呂場に移動した。風呂場の薄汚れた鏡に映る顔を確かめると、私をいっそう憂鬱な気持ちにさせた。
――いじめとか、そんなんじゃないんだけどな。
何をやっても否定されるから、何もやる気が起きない。それに何をやっても失敗して足をひっぱる。ずっと前から周囲の、母親の期待に沿えない。それなのに期待は重くのしかかるのだ。
「私だって、出来ることはあるもん……」
自室に戻って私は学習机に座り、部長に直してもらったばかりの眼鏡を取り出した。そういえば赤い飾りのほかに、青い飾りを増やしたと言っていた。どうやら新機能を追加してくれたらしい。あの人のことだからどうせロクでもない機能なのだろうけど、おそるおそる押してみる。一回押すとなんと、自動で眼鏡のレンズが綺麗になった。
布で拭けば済む話なのに、これは部長に苦情を言わなければいけないようだ。二回押すとピ、という音がして録画機能に切り替わった。いらない機能ばっかり。しかもやけに画質が綺麗なのが腹立つし。ああもう、気が滅入るなぁ。
***
腕に抱かれるぬくもりはすっかり昔の思い出と化していたのに気がついたのはいつだろう。
「大丈夫。すぐ帰ってくるから」
嘘つき。帰ってこなかったじゃない。家の中で、黒い服を着た人たちがみんな泣いていた。
「聞いて。ミヤコちゃんね、学校から帰るときに車に轢かれて死んじゃったの。……でもこの子には、そう言ってもわからないんだろうねぇ」
ミヤコちゃんのママがすすり泣いていた。
そんなわけないじゃん。あたしにもわかるよ。遠くに見えるミヤコちゃんの写真の笑った顔を見て、あたしも泣いた。
彼女を轢いたニンゲンに仕返ししようなんて思ってない。だから気がついたら彼女のぶんまで長く、長く生きようと思っていた。死んでもここにとどまるくらいに。
あたしは気がついたら、猫又という妖怪になってしまっていた。最初はよくわからなかったが、自慢の尻尾が二つにわかれていた。あたしがあたしじゃなくなったみたいでショックだったけれど、そう、そんなあのヒトに出会ったんだ。
「さっさと言えよこの屑!」
何かの建物の裏を歩いていると、突然、怒声が降り注いだ。
「おい、どうしたんだよお前! おれは何も知らないって」
「嘘をつくな! イケニエの儀式に関わった人間はみな俺が消してやる」
見上げると、青い瞳の人間の男が、同い年くらいの男をしきりに殴っていた。あたしは、自然と体が動いていた。
『やめるにゃん! 罪のないニンゲンをいじめないで!』
普通の人間にあたしの声は届かない。そのはずだった。
「は? なんだ貴様。猫又か?」
冷たい瞳は確かにこちらをきつく睨んだ。この人、あたしが視えてる?
「格下の妖怪風情め。邪魔するなら一緒に殺るまでだ」
『にゃあああん!』
男が拳を振り上げた瞬間、あたしは必死に男の足にしがみついた。けれど、それは叶わず、あたしの体は地面に叩きつけられた。
「い、痛い!」
衝撃に耐えきれず蜜弥子は体を起こす。真っ先に目に飛び込んできたのは、シミだらけの見慣れた天井だった。
「どうした、猫屋君。大丈夫か? ずいぶんとうなされていたようだが」
カーテンの隙間から鏡夜が様子を見に来た。
「……ねぇ、師匠」
尋ねると、暗闇の中で青い光が瞬いた。今では優しい、愛おしい光。
「天国のほうのミヤコちゃんもさ、河童くんと同じでどこかであたしを探しているのかな」
「ああ、きっとな」
鏡夜の声色はまるで諭すようだったが、なんとなく震えていた。外はまだ暗い。優しく雨が降る音に包まれるように、少女はまた眠った。
***
「あの、このへんで怪しい人を見かけませんでした?」
「お、ミャーコちゃんだ。ごめんね。見てないよ」
「わかりました。ありがとうございまーす」
朝から蜜弥子先輩は乗り気だ。見違えるように肌がつやつやしているし、一体どうしたものか。
「こんな早くに聞き込み調査なんて、どんな風の吹き回しですか」
「べっつにー。いちおうあたし副部長だし、こういうことやった方がいいと思ってぇー」
うーむ、なんか裏がありそうな言い方だ。
なぜか今日の朝に突然、蜜弥子先輩から連絡が来たかと思えば、水泳部の事件についての聞き込み調査を一緒にしようとのお誘いだった。
「でも考えてみてよ。河童くん、師匠は疑ってるみたいだけど盗みなんてする子じゃないもん! 絶対人間が犯人なんだよ!」
「でも、あんな穴から人間は入れませんって」
「そうだけど……そうだけどさぁ!」
先輩は何か付け足したいようだったが、すぐに不満そうに口をとんがらせてしまった。
部長には告げていないのか、彼の姿はない。あまり単独で行動するのも問題だとは思うが、私は雑用で彼女は副部長。引きずられるように朝の校門に連れて来られた。しかし収穫はないしあからさまに無視される事もある。蜜弥子先輩も顔には出していないものの、そろそろ眠そうだ。
「あれ、君たちは……」
「四季島会長!」
私がこっそりあくびをすると、救世主のように現れたのは、紛れもない会長だった。
「ランランおはよー」
「おはよう君たち。あれ、鏡夜はいないんだね」
「まだ家にゃん。朝起きるのも遅かったし朝ごはんモリモリ食べてたからまだ時間かかると思うよ」
うわあ。朝から前の食堂の時の量くらい食べるんだろうか。会長はというとジャージ姿だった。朝練をしていたらしい。
「相変わらずすごいね。でもこんな早くから何してるの?」
「あの、今聞き込み調査をしていたんです。私は完全に付き添いですけど」
「そうなんだ。悪いね、本当君たちまで……」
「いいってことにゃん。オカ研に任せて!」
蜜弥子先輩は得意げに胸を叩いたが、その反面会長は表情を曇らせた。
「またなくなったんだ。湊のロッカーの中」
「――え?」
放課後。私たちはプールの更衣室に集まった。一日ぶりに会った河童くんもペタペタと音を立ててこちらに歩んできては、どうしたのか、と言いたげな顔をしている。
「というわけで、あの赤みたいな色のリュックが、なくなってたそうです」
朝いなかった鏡夜部長に説明すると、ロッカーの中に頭を突っ込んだ。するとしばらくして扉を閉め、黙った。
「よくあんな大きなものを盗めましたね」
「師匠、もうこれ嫌がらせを越してるよ。これは完全に事件にゃん」
「……あの河童か? いや、でもこれはさすがに。しかしやつは妖怪だしな……ふむ」
部長はなにやら首をかしげながら、四季島会長のほうを見た。
「今日は、戸崎はいないのか?」
「塾だからついさっき帰ったよ。テストがあるみたい。ほら、あそこの塾」
塾といえば、うちの部長や会長のようなタイプは例外だが、大学受験を控えた三年生にはよくあることだ。
「よし、今日はこうしよう。駅前のほうに行くぞ」
――え? プールはいいの?
「今日は久々に晴れたから河童の母親を探す予定だったんだ。ほら、晴れたなら河童の行動も限られてくるから探しやすいだろう」
それはそうですけど。すると部長は誰の意見も受け付けませんよ、と言いたげに踵を返して柵のほうへと去った。
一体どうなるのだろう。やはり、彼の考えていることはさっぱりだ。もう、頭の中が覗けたらいいのに。
「ちょっと、部長……恥ずかしいですよ!」
部長はあろうことか、コンクリートの地面に四つん這いになった。
「みんな見てるじゃないですか、ほら!」
振り返るとスーパーのレジ袋を持った奥様と目が合ったが、すぐ顔を歪ませて走り去っていった。さらに同じ応間学園の生徒がクスクスと笑いながら横を通り過ぎていく。
私たちは三上駅前の「にっこり商店街」にいた。人通りが多いここで、こんなことしないでほしいのだが言葉が出ない。
「こうしないと河童の目線になれないだろう。ほら雨月君もやれ」
「やりませんっ!」
部長はスーパー入り口に立つのぼりの前を四つん這いのまま歩行した。ただでさえ瓶底眼鏡をかけているのに、そんなこと出来るわけない。河童くんはというと、私たちにきちんとついてきている。彼は彼で、水たまりで足をつけて遊んでいた。
『なぁなぁ楽しいなこれ!』
「何を遊んでいる。これ以上疑われたくなかったら一緒に探すんだ」
あなたも遊んでいるようにしか見えないんですが。
部長はブレザーの懐から折りたたんだ地図を取り出した。
「まさか今のは」
「そうだ。河童の目線になって茶色い服を探せばいいだけだろ」
だからといって四つん這いで恥をさらさなくてもいいだろうに。それに言っても茶色い服の人などたくさんいる。無理難題だ。
「見ろ、これは学園から駅周辺の地図だ。お前の住んでいる山の小川はここまで流れている。水を好むお前のことだ。雨の日に川に沿ってここに流れてきたんだろう。川に沿って探していけば母親はきっと見つかると踏んだんだがな」
見ると地図の上に三つ赤い丸がついていた。学園の上の山、学園、そしてこの商店街だ。この通りに捜索していくらしい。
「ほら行くぞ、もたもたするな!」
『おい、そんなんでホントにわかるのかよ!』
部長はまた四つん這いになった。河童くんがその後ろをペタペタついて行くのを見て私と蜜弥子先輩もそれを追う。
「もう、制服そんなに汚して誰が洗濯すると思ってるにゃん!」
変人と一緒に住んでいるなんて先輩も大変そうだ。そういえば、今まであまり考えたことはなかったけれど、あの二人はどうして一緒に住んでいるのだろう。妖怪もお母さんがいなくてさみしい気持ちって一緒になるのかな。
「お母さんねぇ」
うちの母さんは私が急にいなくなったら間違いなく狂いそうだけど、それは本心なんだろうか。
――一体、私は母さんの何なの?
「きゃああ! あなた何なんですか!」
前方から聞こえた甲高い悲鳴に、ふと我に返る。気がつくと商店街の出口に近いカフェの前に流れ着いていた。三階建てのビルの一階がカフェになっていて、三階はCMでよく知った名の塾、二階はヨガ教室が入っている。一階のガラス扉の前でベージュのフリフリスカートとこげ茶のエプロンをまとった女性がビクビクと震えていた。
「今、わ、私の、その……この中覗きましたね?」
彼女は赤面しながらスカートの裾をにぎりしめている。
「何を言うか、俺は調査をしていただけだ! お前のスカートの中など興味はない!」
「ああっ、やっぱり覗いたんですね! 覗きじゃなかったらこんな場所でハイハイ歩きなんてしてないですもんねぇ!」
彼女は近くに置いてあったホウキを振り回した。
なんだが大きな誤解をされてしまったようだ。そこまで言われても四つん這いのままでいる部長のことだからなおさら変態じみた行動だと思われてしまったらしい。あまり巻き込まれたくはないが、ここは雑用らしく私が一から説明するしかないのか。
拳を握りしめ決心を固めた私だったが、なぜかその前に蜜弥子先輩が一歩出て来た。
「あれ、鈴木さん?」
「猫屋ちゃん?」
お互いに指をさしあう二人。
――どういうこと?
「カフェ『モルガナ』……」
鏡夜部長がようやく立ち上がると、扉の上に掲げられた木製の看板のほうを見上げていた。
「……というわけで、本っ当に申し訳ありませんでした!」
鈴木さんは私たちが席につくなり、何度も頭を下げてきた。
「まさか猫屋ちゃんがよく言っている師匠さんとは……私ったらとんでもない事を言ってしまって!」
「いやいいんだ。こちらこそ誤解を招くようなことをしてしまってすまない」
「本当なんと謝ったらいいか……せめて、ゆっくりしていってください」
部長は目の前に出されたアイスカフェオレをストローでかき混ぜていた。氷がたっぷり入ったグラスの中で、カランコロンと心地のよい音が鳴る。そこにガムシロップを五個くらい投入しているのにはツッコまないことにした。
「蜜弥子先輩がバイトしてるカフェってこの商店街にあったんですね」
「そうだよ。鈴木さんはよくシフトに一緒になるんだ」
先輩はいちごミルクの上に勝手に生クリームを乗せた飲み物を飲んでいた。鈴木さんは蜜弥子先輩の上司だそうで、髪色は明るいものの真面目そうな人だ。でも大学生だという鈴木さんは、あんなフリフリの制服を週に何回も着ていて恥ずかしくないのだろうか。同じ制服を着ている蜜弥子先輩にも言えることだが、私は似合わなそうだし着たくない。胸は……なるほど、河童くんがホイホイついていくわけだ。
という私は、ちゃっかりレモンスカッシュを注文していた。さわやかな口当たりの炭酸で喉が潤う。
「あ、あとこちらバニラアイスクリームです」
『うひょー! お高いアイスだぜ!』
河童くんは鈴木さんが運んできたアイスクリームを見るや否や、私の膝元で飛び跳ねた。彼はくちばしのところにアイスクリームをつけながら、ごきげんに頬張っている。
『うん、オイラもあの姉ちゃん知ってる!』
「え、そうなの?」
――河童くんが、一度ここに来たことがある?
「なるほど、茶色い服はここで働いている者の服のことを指していたのか」
茶色い服の人。ああ、そういうこと!
「河童くんの背丈だと歩いているときにちょうどあの茶色いスカートが見えますね」
「その通り。俺がああいう歩き方をしていたのは、それを調べるためだ」
あんな歩き方をしていたのは部長の考えがきちんとあってだったのか。結果、店頭にいた鈴木さんに誤解を与えてしまったけれど。
「河童はこの近くに来たということだな。まぁ食べ物を探すにはこの商店街はうってつけの場所だ。しかし母親はいなかったな。おそらく時間もかなり経過しているから場所を移動したんだろう」
『そっか……。母ちゃん、どこ行ったんだろうな』
下を向いた河童くんだったが、来たことがあるという場所が見つかってだいぶ近づいた気がする。茶色い服の人という微々たる証言で本当に見つかるとは思わなかったが、場所が絞られてきた。なんだか、鏡夜部長って本当はすごいんだな、と青い瞳を見つめていたが、その視線はなぜか、窓の外へと移動した。
「ん」
ストローを噛みながら彼は席を立った。いきなりどうしたのかと思えば、彼の目は見たことのある人物を追っていた。
「あれ、戸崎さんだ」
そこにいたのは紛れもない彼だった。一瞬はこちらに入ってくると思われたが、戸崎さんはカフェの外に設置された階段を上っていく。
「あの人ですか? たまにここに来ますよ。この上の塾に通っている方みたいですね。そういえば応間学園の制服着てますね、彼」
隣のボックス席でテーブルを拭いている鈴木さんが言った。
しかしその場にいる誰もが、突然現れた彼よりも気になっているものが一つ、あった。
「あの荷物……!」
戸崎さんは、なくなったというえんじ色のリュックを抱えていた。
「あれってロッカーに入ってたやつのうちの一つですよね」
「そうだな」
「どうしてあれを――」
その時もうすでに部長の姿はカフェの外にあった。
「よう戸崎君!」
「ひいっ!」
三階に上がると学習塾の玄関に戸崎さんと部長の姿があった。
中に入ろうとしていたらしい戸崎さんは、ローファーを持ったまま固まっている。
「こんなところで出会うとは奇遇だなぁ、あっはっはっは!」
すると、戸崎さんは背後の鍵付きロッカーに急いで何かを押し込んだ。
「ど、ど、どうしてお前らがここにいるんだよ!」
「俺はここに良い塾があると学内のポスターで見て入塾の申し込みに来たのだ。ほら、国立大を目指すならこの時期は大切なのはお前もわかっているだろう?」
そう耳にした彼はすぐさま心底嫌そうな顔をした。それにしてもすっごい嘘つくな、部長。
「ところで今、ずいぶんと慌てていたみたいだが」
「な、なんでもねぇよ。冷かしならどっか行けって」
と冷たく突き放されても、部長はロッカーをしきりに覗こうとしている。そのたびに戸崎さんは背中でロッカーを隠す。そしていつの間にかあきらめ、ため息をつく部長は顔面からしゅん、という音がしそうな表情に変えた。
「つれないなぁお前は」
「お、俺はとにかくテストで急いでるんだよ! もう来んなよなこの変態ストーカー!」
戸崎さんはロッカーを急いで施錠し、奥の教室めがけて走り去ってしまった。
「部長」
「おや、雨月君」
私が見ていたことを知っていたのか、彼はさほど表情を変えずにこちらに振り返った。
「あのリュック、どうして戸崎さんが持っているたんでしょう」
すると部長は目の前にある戸崎さんのロッカーを指で軽くはじき、いつものごとく不気味なほどに冷たく微笑んだ。
「さぁ。怪しくなってきたな」
部長はブレザーのポケットからスマートフォンで何かをいじくってから、例の周辺地図をまた取り出した。
「よし、今夜また出会おう。さらに妖怪が出歩いている可能性の高い時間帯に、赤丸の場所で見張りをする」
ほう。なるほど。
「……でも雑用だからって、一晩中とかやりたくないですからね」
「まさか。夜は俺たちの出番だ。そこで雨月君は早朝に学園で見張りをしてくれたまえ。そのほうが好都合だろう?」
言ったら、夜に出歩くなんて、今の母さんは決して許してくれないだろう。もしかしてそのことを知っていての意見だろうか。
「俺たちは少し朝に弱いのでな。お前に頼めるか」
どうせ免れることはできないし、そろそろ河童くんの母親も見つけてあげたい。私は何も言わず承諾する。
「お前にしかできないことだ。しっかりやれよ」
私の両肩を掴むその手は、やけにしっかりとしていた。
足が震えているのは肌寒さのせいか薄暗い校舎のせいか。四季島会長のコネというか何とやらのおかげで朝の学校に侵入できたものの、雨が降るととたんに肌寒くなる。もうゴールデンウィークもとっくに終わったというのに、朝はブレザーが手放せないほどだ。
「なんか寒いなぁ」
私は眼鏡の赤いほうのスイッチを入れてみたが、当然誰も応答しない。鏡夜部長も蜜弥子先輩もきっと今頃夢の中だろう。そういえば夜中は何か有益な情報見つけたのかな。
「あれ、おはよう河童くん」
『おっす!』
丸い体を押し込んで、なんとプールの穴から河童くんが出て来た。あちらから気がついてくれたみたいだ。
「起きてたんだね。今日こそは見つかるといいんだけど」
『よくわかんねぇけど、このへんにまだ母ちゃんがいるって聞いて安心したから……でも本当にいるのかな』
彼はとたんに悲しそうにうつむいてしまった。この町はそこまで大きくはない上に部長は場所もだいぶ絞ったと言っていたし、そろそろ見つかってもいい頃なのに。
「河童くんは、早くお母さんに会いたいんだね」
私は河童くんのつやつやした頭の皿をなでた。
『うん、オマエは違うのか?』
「え、私?」
『オマエは母ちゃんのこと、嫌いなのか?』
つい、手を離してしまう。
いつも私を押しつぶそうとするあの母親。私に枷をはめて飼いならす。でも私はあの人を満足させるために、いつもなんでもない顔をしていた。ひどく恐怖に染められた笑みを仮面として貼りつけて、彼女の手の中で踊ってみせる。私はそのくらいしか出来ない。
――やだ、雨月さんって暗いから話したくなーい。
――お前のせいで失敗したんだ!
「わたし、は」
ギイ……。
不可解な音に、私の意識がふと戻ってきた。
『悠、こっちだ!』
「え、ちょっと!」
突然、河童くんの小さな腕に引っ張られる。逃げ込んだ先は、植え込みの陰だった。
「いきなりどうしたの?」
『シッ、静かにしろって! プールに誰かいる!』
河童くんは私が持っている傘を深く下げて、すっぽりと顔を隠せるようにした。
「あれは……!」
霧のように降りかかる雨のカーテンの向こうによく見知った姿があった。
大きなボストンバッグを背負った戸崎さんが、プールの階段を下っていたのだ。朝練だろうか。でもこんなに雨が降っているのに練習なんて出来るのだろうか。今日はこれから一日中雨予報のはずなのに。
――どういうこと?
『あいつ、なんかオマエらとモメてたやつだろ?』
河童くんがささやいた。
「うん、モメてたのは部長とだけど」
『おい。こっちに歩いて……!』
激しく私の足元を叩く河童くんの言葉を聞きさらに目をこらすと、私たちの真ん前を通りずぎていく。彼が向かった場所は、柵に開けられた穴だった。彼はその前で微動だにせず、呪うようにつぶやく。
「もう、終わりだ」
戸崎さんはボストンバッグを地面におろし、その中からペンチを取り出した。
あろうことか、戸崎さんは穴をペンチで広げはじめたのだ。あれは河童くんが入ってきたという穴だ。あの子と猫又姿の蜜弥子先輩しか入れない、あの小さな穴。もしかして私たちが見落としていたもう一つの可能性があったとでもいうのか。
彼は盗難事件の被害者という位置づけだ。言葉は荒かったものの、それなりにショックを受けていたはずの彼が一体どうしてこんな事をしているのか。謎が謎を呼ぶとはこういうことか。
「そうだ、この眼鏡」
同時に思い出した。部長が修理したときに勝手に追加した青いボタン。これを使う日がこうして来るなんて……。
私は録画機能で戸崎さんの行動を録画した。スマートフォンと違い、音もしないし見るだけで動画が撮れる。しかも妖怪の姿も撮れるなんて実は便利なのかもしれない。
動画を撮影し終わると、私は見つからなかった安堵からか体勢を崩した。
この様子を皆に見せれば、事は大きく動き出す。河童くんのお母さんは見つからなかったが、河童くんが教えてくれたおかげでこの手がかりを得ることができた。
「ありがとうね」
『え、お、おう?』
でも、早く探してあげないと。
戸崎さんは再び荷物を背負うと、プールの裏側に位置する裏門から出て行った。彼の姿が完全に消え去ったのを確認し、ため息をつきながら立ち上がる。すると突如眼鏡が激しく振動した。
「わっ!」
止め方がわからずその場で自分までジタバタしていると、耳に何もつけていないはずなのにどこからか声が聞こえた。
「ご機嫌いかがかね、雨月君」
少々眠気は抜けていないものの、鏡夜部長の声だ。
「おはようございます、あの」
「言わんとしている事は分かっている。動画はしっかり確認したとも」
え、まだ送っていないのに早すぎませんか。
「いいや。これは撮ったらすぐに俺のもとに転送されるようなカラクリを仕込んであるのだ」
「はえ? そ、それ完全にまずい機能ですよ!」
今こそ役に立ったものの、もし部屋とかで起動させてしまったらプライバシーの侵害とかそういうレベルじゃない気がする。
「ふん、役に立ったんだから良いではないか。それにしてもでかしたぞ雨月君。そういう事だったのだな。だからお前にしか出来ない事だと俺は言ったんだ」
珍しいこともあるものだ。あの部長から褒められた。しかし何よりも嬉しかったのは、私にしかできないことを成し遂げたという事実だった。
「……はい。ありがとうございます」
「うむ、充分な証拠になった。さて、後で人を集めるとしようか」
姿は見えないけれど、彼が愉快そうに笑っている顔が目に浮かぶ。
「あとそこの河童。疑って悪かったな」
『まったくだぜ! オイラはそんな人間が困る事なんてしないよ!』
「そうかそうか。確かに、そうだな」
そして、その三時間もしないうちに私たちは集められた。場所はオカルト研究部の部室だ。例のソファを囲むように私たちは立っている。私と、その隣には寝癖で少しツインテールを乱した蜜弥子先輩、さらにその隣には四季島会長、そして……戸崎さん。鏡夜部長はもちろん定位置のソファの上だ。こういうのは推理ドラマで見たことがある。部長はまさに探偵のように深く腰掛けている。
「聞け。皆に伝えねばならない事がある」
みんなが、一斉に唾を飲み込んだ。
「調査の結果、最初から盗難事件など起きていなかったんだ」
何を言い出すのかと思えば、なんということだ。その場にいた全員が騒然とした。
「鏡夜、それどういうこと?」
いつもは穏やかな四季島会長が見たことがないくらいに慌てて部長の腕を揺さぶる。だが部長はその手を払いのけるだけだ。
「嵐君、本当にすまない。だがそれは盗難事件の話だ」
「……?」
「俺はまず、人ならざる者の仕業であると見た。だが、その実態は異なっていたんだ」
そう言って、部長はおもむろにソファから立ち上がった。
「一番知っているのはお前だろう」
白い指先が示したのは、たった一人。
「今朝プールで何をしていた。なぁ戸崎 湊君」
それは――水泳部部長の彼であった。
「はぁ、何言ってやがる! 俺は被害者だぞ!」
「そうだよ、湊は……」
「師匠、どういうことにゃん?」
あたりは一層騒がしくなった。しかし、めちゃくちゃに降りかかる喧騒に彼は冷静でいた。そして、私も一緒に。なぜなら私は、彼と共にある鍵を握っているからだ。
「無駄だ。証拠はすでに掴んである。手始めにまずはこれを見たまえ」
スマートフォンの画面が戸崎さんの顔の前に突き出される。部長が画面をタップすると、一分未満ほどの動画が再生された。今朝私が撮影した、戸崎さんが大きなボストンバッグを背負ってプールに出てきたのと穴をペンチで広げている様子をとらえたものだ。
「これは、うちの部員が今朝……午前五時四分ごろに撮影したものだ」
「ひ、人違いじゃねーの?」
「馬鹿か。お前のようなわかりやすい奴を人違いするわけがない。それに考えてみれば、日頃からプールに入れるのはお前しかいないんだ。そう、しかも雨限定でな」
窓もないのに、部長は部室の外を向いた。室内からでも聞こえるしとしと、という音。部長は目を閉じ、その音を聞いているようだった。そして碧眼が大きく見開かれる。
「もしかしてお前は、盗難事件を装って水泳部から消えようとしていた。違うか?」
盗難事件でもない、いたずらでもない。もっともっと水底に沈んだ事件の真相が、やっと紐解かれる。
戸崎さんは、ただ舌打ちをしただけだった。だがそんなことには目もくれず、探偵は始める。
「確かお前は言ったよな。 誰が持っていきやがった、と」
部長は室内をゆっくりと歩きまわった。
「盗難事件だと分かっていたなら盗むと言うのが普通だろう? わざわざ持っていったなんて言葉を用いるのは不自然だ」
私は脳内でロッカーを確かめていた戸崎さんの姿を呼び起こした。確かに部長はそんな事を言っていたような気もするが、そこまで人の言動を見ていたのでもいうのか。
「……そんなの、たまたまかもしれねぇだろ。それに俺は盗難事件のことは知らないって言ったじゃねぇか」
「確かにそうだな。真面目で優しい生徒会長の嵐君なら、お前に真っ先に教えているはず。奴が無視するわけがなかろう。お前は最近学校を休みがちなのを利用し、とぼけたんだろうな」
すっかり肩を落としてしまった戸崎さんを見て部長はニヤリと笑い、人さし指を立てる。
「まず、俺にあたって来た時点で何かあるんだと思っていた。俺たちをかたくなにプールに入れなかったのはそのせいだ。……だが、そんなお前に予想もしなかった出来事が起こった。荷物が減っているのが嵐に見つかり、盗難事件と勘違いした嵐が俺たちに依頼してきたのだ」
四季島会長がかすかに拳を握りしめたのを見た。
「まずいと思ったお前は、もともと綻んでいた柵の小さな穴を少しずつ広げ、そこから侵入した人物がいると擬装した。だが誤算だった。穴は人が通るには小さすぎたんだ。かえって別の存在を呼んでしまった……おっとそれはこちらの話だがな」
そう、それが河童くんだ。
最初こそ河童くんがロッカーから盗みを働いているのかと思っていたし、部長もその可能性を疑っていたが、先ほどの動画から、あの穴は戸崎さんの手によって開けられたものだったことが判明した。そもそも今日の朝、河童くんは私のもとにいたわけだし、不可能だ。
続けて彼の中指が動き、二という数字が作られた。
「次に、それを雨の日にだけに実行していたのも知っている。プールは屋外にあるので雨の日は他の部員が使わない。しかも鍵を自由に使えるのは教員をのぞいてお前だけなのだし好都合だな。だが俺たちが来たことによって焦り、荷物を持ち出す回数を増やし、一気に持っていこうとした……そう。その先は商店街のカフェ『モルガナ』の上にあるお前が通う塾。あそこなら学園から離れているので疑われることはないし俺たちも来られないと思ったんだろうが、こうして見つかってしまったわけだ」
そうか。部長がちょくちょくスマートフォンを気にしていたが、天気予報を調べていたんだ。
「まったく、残念だったな」
耳元で恐ろしいほどに甘く囁いた声に、戸崎の顔がみるみる青白くなっていった。
「あああ、もう、もう、うんざりなんだよ……!」
「湊、説明してよ。 どうしてそんな事をしたの?」
四季島会長が柄にもなく声を荒げたが、彼には聞き入れる意志がないらしい。
「あーはいはい、そうですよ俺がやりましたよ! いいよな嵐、お前は! 人望もあって簡単に生徒会長になれて!」
四季島会長はその時、何も言わなかった。しばらく置いて、疲れたような声色で会長は続ける。
「そんなこと……そんなことないよ! 僕たち中等部のころから一緒に頑張ってたじゃないか!」
「本当にそうかよ? 高等部になってからはどうだ? お前は何もしてないのに学年二位だし生徒会長にもなれて生徒にも慕われて……仲良くなるのは一組の頭のいいやつらばかりで、それを近くで見ながら落ちていく俺の気持ちなんてわかるか!」
小さな部室に響いたのは、とてつもなく大きな感情を抱いた叫びだった。
「戸崎君、せめてどうしてこんな事をしたのか――」
「うるせぇんだよ!」
「!」
部長が戸崎さんの手首をつかもうとしたが、彼の拳は勢いよく部長の顔面にヒットしたのだ。そして誰にも追いつけないような速さで部室を飛びだしていってしまった。
「部長!」
頬を押さえてその場にうずくまってしまった彼のもとに、私と蜜弥子先輩、四季島会長はあわてて駆け寄る。
「師匠、大丈夫にゃん?」
「……つつ、俺は平気だ。いいからあいつを追いかけるぞ」
「でも師匠、痛そうだよ……」
「こんなものすぐ治る、いいから早く行くぞ」
彼は足元をよろめかせながら立ち上がる。そのどこか怒りを秘めた姿は、どことなく見たことがあるような気がした。
――はやく追いかけなくちゃ。
私がついハッとして部室棟から出ると、戸崎さんがプールのほうへ走っていくのが目に入った。
「湊……」
教室棟の裏側で会長が彼を呼び止めると、背を向けたまま静止した。
「なんで僕に正直に言ってくれなかったの! 鏡夜にあんなことまでして……」
遠くから、冷たい雨の中で叫ぶ声だけに耳を傾けている。
「お前は来るんじゃねぇよ」
どんな表情をしているかなんてわからない。すると、私よりも後に来た部長が、ゆっくりと二人のもとへとフラつきながも歩み寄った。
「だからといってお前は他人に迷惑をかけるんだな」
片頬を赤くした部長が、二人の後ろに立ちはだかる。
「おい、なんで首突っ込んでくるんだよこの変人!」
「理由。……同じ部長として、見捨てることができない。ただそれだけだが。それに嵐君に依頼された身なのでな、最後までやり遂げねばならぬからだ。さあ俺からも尋ねよう、どうしてこんな事をした?」
彼は後ろを向いたまま、か細い声で吐き出した。
「……俺はこの学園で中等部のころから水泳をやってた。そう、同じクラスだった嵐と一緒にな。優しい嵐は二人で一緒に頑張ろうと言ってくれた。でも」
黙って聞く部長は真剣だ。
「高等部に上がるころにあいつは余裕で上級生のタイムを上回るようになって、それに元から成績もよかったから中等部じゃ一緒の二組だったのに一組に上がって、お前も含めて一組のやつらとばかりつるんでいくようになった。俺は何をしたって納得がいくタイムなんて出ない、成績も下がって……それで、お前なんかと一緒にいたくないって思いはじめたんだよ!」
そう言って振り向いた彼の瞳は、涙に濡れていた。共に困難を乗り越えてきたと思った友人に軽々と追い抜かれて気がつけば学園の生徒会長になっていた。優しい彼のことだ、一緒にまた頑張ろうと彼は言ったはずだろう。でもその時にはもう、距離が離れすぎていた。
「それは、普通に部活をやめればよかったんじゃないか?」
部長の言う通りだ。ただ部活から抜けたいのなら、盗難を装う必要などない。
「だって、普通にやめるなんて言ったら嵐は絶対に止めるだろうが!」
「は?」
「嵐に見つからないように、少しずつやってたのに……なんで邪魔したんだよ!」
同じだ。
戸崎さんはきっと背負うものが大きすぎたんだ。私もそうだった。押しつぶされ、結果として周囲に迷惑をかけてしまった。こういうのは後から考えても遅いのだ。
「……なるほどな」
頭上では重々しい色をした雲が早く流れていく。さすがの部長もただ、それしか言わなかった。
「ごめんね、湊。僕が気づいてあげられなかったから……」
「いいか嵐君。少し待っていろ」
「え?」
部長はその場から一歩前へ出る。
――と思えばバシン、という大きな音がした。
「な――」
「甘えるな。貴様にとって部長という肩書きは飾りなのか」
戸崎さんは打たれた頬をかばう暇もなく、バシャと音をたてて崩れた。
「部員を守るのが部長の役割だと、俺は言っただろう。どうであれお前がいなくなったら水泳部はどうなる?」
手を高くかかげた彼は、地面に這いつくばる戸崎さんをただ、見下すようにしていた。
「少なくとも俺は周囲にどんなに嫌われていても構わない。何があっても最後まで部を守り抜くことは義務だ」
「くそ、頭のいいお前らにはわからねぇよ!」
「俺は、決して努力を欠かしたことはないのだが?」
部長はいつもめちゃくちゃだ。でも私は少しずつ感じていた。彼は私たちを必死に守っているという事、そして何事にも、誰にも止められない情熱を抱いている事。だからこそ成績もいいし、こういった推理力や直感力が磨かれているのだろう。
「お前のエゴのせいでどれだけ周囲に迷惑をかけたかわかるか? 嵐君の気持ちも考えずに何を言うか。そんな暇があるのなら、逃げずに少しでもあがいてみせろ。それに……」
そう言って、戸崎さんに差し伸べた手は、雲間から差す光に照らされた。
「嵐君が俺に依頼してきたということは、嵐君はお前が困っているのを助けたいと思っていた。そういうことだろう?」
ほんのかすかに、彼は微笑む。
「ねぇ湊、どうして僕が生徒会に入ったか知ってる?」
会長は胸のあたりを押さえながら言った。
「僕ね、部活を楽しいものにしたかったんだ。一組の人も二組の人も部活なら、みんな忘れて一つのことに取り組める。そんな学園にしたかったんだよ。オカルト研究部もその一つ。まぁ、結果としていろんな部活が増えすぎちゃったんだけどさ、それはそれで楽しい応間学園になりつつあると思ってるから」
また、会長は困ったように笑った。
「僕は、湊がいたからここまで来られたんだ。でも、君が直面している大きな問題に一緒に向き合えなかった。それに僕と一緒にいたくなかったなんてさ、そんなの苦しいよ……こんなことしてまで辞めなくてよかったのに。正直、生徒会が忙しいのと、連絡が取れないのを言い訳にして湊を避けてたんだ。ごめん」
会長は、いつも戸崎さんのことを想っていた。でも当の本人は嫉妬と悲しみで目の前のことしか見えずにいたんだ。ほんの少し、周りをきちんと見ていればよかったものを。
「僕だって、いつも何もしないで成績がいいわけじゃないんだ。誰かがいるから負けたくない気持ちが生まれる。湊がいるから、いつも頑張れたんだ。でも湊は、そうじゃなかったんだね……」
二人はお互いに気がつかなかったんだ。お互い、どれだけかけがえのない存在なのかということを。
「どうして、俺はこんな事……」
「部活のみんなに正直に言って謝ろう。僕も一緒に行くから、ね?」
「ああ。すまなかった嵐。お前はこんなに優しいのに……!」
「いいんだよ。本当は部活、続けたいんでしょ? 困ったら僕が助けてあげるから!」
すると、戸崎さんは嗚咽まじりに泣きだした。まるですべてを悔いるような表情だった。冷たい雨を乾かすように暖かい光が二人に降り注ぐ。
「雨月君」
「え、あ、はい!」
部長が急に振り返ったので驚いた。でも彼の顔にはいつもの不適な笑みが浮かんでいる。
「ひとまず解決だ、な?」
彼らはきっとこれから、時間をかけてまた一緒になれるはずだ。でも、なんだか安心した。部長はいつもの部長に戻っていた。
「お前の頑張りのおかげだ。いや、よかったな」
「……!」
やった。部のためになれたんだ。私は部長の言葉を何度も噛みしめた。
とあたたかい気持ちに浸っていたのもつかの間。
「た、たいへんにゃ!」
息を切らしながら走ってきたのは蜜弥子先輩だった。彼女は私たちの目の前で止まると息を切らしながらプールの雑草の生えた場所を指さした。
「どうした猫屋君、そんなに慌てて」
「ぜぇ、い、今、河童くんのお母さんがいたにゃん!」
「なんだと?」
河童くんのお母さんが、つい見つかった?
「でも……」
安心したのは一瞬。表情を曇らせる先輩を見て、何か良くないことが起こっているのは明確だ。
「とにかく行きましょう、先輩、案内してください」
と、案内されたのは穴のあった場所の、草が生い茂るプール裏だった。
『お願いです、離してください!』
草むらに入った瞬間、誰かの話し声が聞こえる。
『うーん、使えなさそうだしいいわ。いいよ、離してあげる』
『きゃっ!』
草むらに足を踏み入れた途端、どこかで感じたことのある寒気がした。そう、花子さんが纏っていた、あの黒い影と同じだ。でも、今感じているのはそれとは比べものにならないほどの、気味が悪いほどにトリとした空気だった。
『悠ねぇちゃんたち、た、たすけて……』
そこには震えている河童くんがいた。河童くんは足元に横たわるもう一匹の河童を見つめている。このひとまわり大きな彼女が、私たちがずっと探していた「お母さん」だろう。しかし母河童はかたく目を閉じ、呼吸を乱している。
「河童くん、どうしてこんなことに?」
『あいつが! 母ちゃんを捕まえてたのはあいつだったんだ!』
その言葉に頭を上げると、黒い影のようなものが浮かんでいた。
『誰……って、あなたは』
その瞬間、呪いにかけられたみたいに部長の表情が固まった。
唖然、という言葉よりも絶句。白髪の少女を見て、彼は言葉を失っていた。
学園の制服を着て、白髪赤目の彼女。この学園の生徒なのだろうか。だがこんな人一度も見たことがない。白いまつ毛に縁取られた目は可憐なのに、ギョロリ、と不気味に動いた。
『あら、久しぶり。会いたかったのよ』
蜘蛛の糸のように繊細な、でも不快に響く声。それを耳にするも部長はただそこに立ち、動くことはなかった。
「あの、部長、お知り合いの方ですか?」
私が腕を揺さぶっても、返事をしてくれない。
すると少女が笑い声をあげた。
『ずいぶんと驚いているみたいだけど、私ずっとここの学園にいたわよ。あなたが見つけられなかっただけ。ねぇ、XX』
彼女は聞いたこともない名前で鏡夜部長を呼んだ。言葉というより、単なる音の響き。少なくとも人につけるような名前ではない。
「お、まえは……」
その音は、部長の喉から言葉を奪った。
『あー、そうそう。そこの捕まえてた河童いらないから返すわ。ウチノコを返せっていちいちうるさいんだもの』
『オマエ! 母ちゃんをよくもこんな姿に!』
この人が、河童くんのお母さんを攫ったの?
何のために、誰のために?
「……どうしてそんな姿までしてこんな事をした!」
振り絞るような彼の叫びを、高らかに笑う少女。
『そんな怖い顔しないでほしいわ。あなただって人間に恨みがあるんでしょう。それなのに今じゃ探偵ごっこに夢中だし、頭でもおかしくなったの? それに、私、いま会いたいのはそっちの子だから』
彼女と目があったのは、私だった。
「え、なんで?」
私はこの人を知らないのに、どうして私のことを知っているんだろう。
『ずっとここにいたって言ったでしょ、アヤちゃん。んじゃあねー』
――アヤちゃんって誰?
私の名前は悠だ。それにこの場にアヤという名前の人はいない。では一体誰のことを読んだの? 知らない名前で呼ばれた私は、煙のように消えていった彼女をただ見つめているだけだ。それは部長も同じだった。
『うう……』
『母ちゃん、大丈夫か?』
すると足元で横たわっていた母河童が起きあがった。
『カンタ、カンタかい?』
『そうだよ! 痛いとこないか?』
『私は大丈夫だよ。それにしてもよくここがわかったねぇ』
『この人たちが教えてくれたんだ!』
河童くんが胸をはると、母河童は深々と頭を下げてきた。なんだか申し訳なくなってくる。
『うちの子をありがとうございました』
「いえいえ、とんでもありません。こちらこそ遅くなってしまってごめんなさい」
母河童は衰弱してはいるものの、きちんと会話はできるしとりわけ問題はなさそうだった。やっと見つかってよかった。
「それにしても、あの方は?」
『私が聞きたいよ。なんなのさ、あの妖怪は。私が歩いてたら急に攫ってきたんだ!』
名も知らぬ、白髪の少女。なぜか部長と私のことまで知っていた。罪のない妖怪を連れ去った彼女の目的は何なのか。胸の奥に、得体の知れない不安が突き刺さるようだった。妖怪や神への畏怖だろうか。それとも――
その時、母河童が河童くんを抱きしめているのが目に飛び込んできた。
『まったく、私の目を盗んでどこに行ってたんだい!』
『ごめん、ごめん、母ちゃん。もう離れないから』
『でも、よく怖がらずにここまで来られたねぇ』
『うわぁ、わぁ……!』
泣きだした河童くんを見た私はどうしてか、居ても立っても居られなくなった。よく考えればわかることなのに、どうして気がつかなかったんだろう。母親が子を心配するのはごく当たり前のことなのに。
「あの、さ」
帰宅して突然話しかけてきた娘に、珍しいのか母さんは非常に驚いているようだった。
「どうしたの悠、いきなりそんな顔して」
私は河童くん親子の抱き合う姿を思い出した。今まで言えなかったこと、今なら言える。私はなぜかそう思うのだ。
「今までごめん。母さん、私のことが心配で色々言ってくれてたんだよね」
「何言ってるの、当然でしょ!」
予想していた通りの反応だった。母さんは私の肩をつかんで必死に揺らす。でも、私はそこにそっと手を添えた。
「そういうの、はっきり言って鬱陶しいって思ってたんだ。でももうそこまで心配しなくてもいいよ」
母さんは、ただ私をじっと見ていた。何も口にせず、ただ黙って私を離した。
「本当に学校でいじめられてとか、本当にそういうわけじゃないよ。むしろ、人の役に立てるってわかったから!」
「悠……あなた」
私はそう残してから踵を返し、二階の自室へと向かった。
「いつ以来かしら。あの子、あんな明るい顔するのね」
立ち去ろうとしたその時、小さな声だったが、確かに私にはそう聞こえていた。
***
オカルト研究部 活動記録ノート
記録者・猫屋 蜜弥子(二年二組)
水泳部の事件、解決してよかったにゃん! でも、まさか戸崎さんだったなんて思わなかったなぁ。師匠とあと悠ちゃんの力あってこそだったね! あ、あとあたしも!
あの後、戸崎さんは水泳部の人たちにきちんと謝って、部長を続けることにしたみたい。それと部室にもね、ランランと一緒に来てくれたよ。二人とも「感謝の気持ちと依頼料だよ」って美味しいラスクをくれたんだ。ランランに「そういえば水質調査はどうなったの?」って言われて困っちゃったけど、適当に返事しておいたから大丈夫……たぶん。
ねぇ師匠、ラスク食べないの? あれから元気ないけど、一体どうしちゃったにゃん?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます