09. セシリアの婚約者
バドゥルの声に、人々がいっせいにこちらを振り返った。マイクやカメラを手にした見慣れた西洋人の顔。イギリスのマスコミだ。ジャスティンの姿に気づいたらしく、どよめきが起こった。すぐさま数本のマイクが突き出され、質問が飛び交う。
「無事だったんですね、ジャスティン!」
「いやあ、よかった。お怪我は?」
「砂漠をひと晩さまよっていたというのはほんとう?」
ジャスティンが落ち着いて答えた。「ご心配かけてすみません。このとおり、どこにも怪我はありません。砂漠の民と、皇太子に助けられました」
記者たちは、バドゥルにもマイクを向けた。
「殿下、マクレーン選手の事故をどうお考えです?」
「安全管理に問題があったのでは?」
バドゥルが、門の外に出てきた馬丁たちに三頭の馬を任せてから、よどみない口調で言った。「宮殿の門の前に突っ立ってインタビューを受けるのでは格好がつかない。みなさん、会見室へどうぞ」
そのとき、人込みのなかから幼なじみの顔が現れ、セシリアはぎょっとした。
「セシリア、無事かい?」
「スタン? いったいここで何をしてるのよ?」
スタンリー・ダルトンがまっすぐな茶色の髪をばらばらに乱しながら駆け寄った。「何って、君を迎えにきたんだよ」
「迎えに? 自転車競技には興味がないんじゃなかったの? いつ来たの?」
ひとつ年上のスタンリーは、バローズ伯爵の次男で、幼いころからの知り合いだ。スコットランド貴族のダルトン家とマクレーン家は田舎の領地が隣同士ということもあって、昔から家族ぐるみでのつき合いがある。親たちが勝手に、スタンリーとセシリアを結婚させようともくろんでいるが、セシリアは冗談としか受け止めていない。ところがスタンリーのほうは、親が決めた縁談をまじめにとらえているらしかった。なにしろ仕事についても、両親に言われるがまま、伯爵家の屋敷のひとつを改装したホテルの経営者に収まっている。典型的な貴族の次男坊だった。
「ジャスティンが行方不明だって、きのう大きなニュースになったんだよ。心配になって朝一番で飛んできたんだ。〈チーム・バーリー〉が泊まってるホテルに行ったら、君まで行方不明だっていうじゃないか。宮殿から、心配するなっていう連絡があったそうだが、信用できなくてね。来てみたんだよ」
「私はなんともないわ。大げさね」セシリアはため息をついた。
「大げさなもんか。婚約者として当然……」
「チームのみんなには、心配をかけてしまったわ」セシリアは急いでスタンリーの言葉をさえぎった。
「ミス・マクレーン」突然、バドゥルが割って入った。セシリアがはっとして、そちらを振り向くと、皇太子が無表情な顔で続けた。「どうぞなかへ……ご友人もぜひごいっしょに」
「では、遠慮なく……」スタンリーが皇太子のあとについていこうとするので、セシリアは腕をつかんで引き戻した。
「い、いいえ、私たちはけっこうです。いったんホテルに戻って、チームに無事を伝えてきます」セシリアは言ってから、スタンリーに向き直って小声で言った。「あなた、車で来たんでしょう。ホテルまで送ってちょうだい」
「ああ……うん」スタンリーがレンタカーのキーをポケットから出した。
「チームのみなさんも、ジャスティンに会いたいでしょう。のちほどみなさんでいらしてください。では」バドゥルが言った。マスコミの前とはいえ、妙によそよそしい口調だった。
しかし、セシリアにはあまり気にしている余裕がなかった。スタンリーを早く追い払いたかったからだ。悪い人ではないのだが、よかれと思ってしてくれるアドバイスがいつもセシリアの希望とは逆を向いていて、いっしょにいると疲れてしまう。ホテルに向かう車のなかでも、いつもと同じようなやりとりが待っていた。
「ホテルに着いたら、荷物をまとめていっしょに帰ろう」
「何を言ってるの? 私は〈チーム・バーリー〉の一員として来たのよ。ジャスティンは、怪我はなかったけれど、しばらく休む必要があるわ。マネージャーとして私も付き添うつもりよ」
「こんな危険な国に、長くとどまらないほうがいい」
「危険? ナビールはとても平和で安全な国よ」
「ジャスティンは崖から転がり落ちたんだろう」
セシリアはふうっと息を吐いてから、辛抱強く言った。「自転車競技に危険はつきものなの。わかってるでしょう。どんな国で開催されるレースでも、落車や怪我はめずらしくないわ」
スタンリーが、子どものころと変わらないしぐさで、眉間にしわを寄せながら眼鏡のブリッジを押し上げた。「まったく。いつまでこんなことに関わってるつもりなんだい? 君も今年で二十五歳だろう。そろそろ落ち着いて考えるべきじゃないか?」
「何を考えるの?」セシリアはまっすぐスタンリーを見て言った。
「その……将来のことを」スタンリーが急に口ごもった。
いつもこうだ。婚約者だと名乗るくせに、結婚してほしいときちんと言ったことはこれまでに一度もない。いまだに親が何でもお膳立てしてくれると思っている。
「いつも言ってるでしょう。チームでツールに出場するという夢を果たすまでは続けるわ。絶対に」
「何年かかるかわかったものじゃない」
「かまわないわ」きっぱりと言う。
スタンリーのむくれた横顔を眺め、ふと、この人の夢はなんなのだろうと考えた。ホテルの経営者としての仕事があり、敷地内に自分の屋敷も持っている。一生食べていくには困らないだろう。それだけで、なんの不満がある? もちろん、そう考える人はたくさんいるはずだ。あとは家庭を持って、子どもをつくり……。
なぜ私は、それだけでは満足できないのだろう? セシリアは考えた。
だって私は知ってしまったんだもの。
風になってゴールを駆け抜ける選手たちの興奮を。チームがひとつになって目標へと向かう喜びを。
「今回の反省を踏まえ、来年からはより安全に気を配って〈ナビール・カップ〉を続けていくつもりです」バドゥルは会見を締めくくった。
ちょうどそのとき、セシリアと〈チーム・バーリー〉の面々が、従者に案内されて会見室に入ってきた。セシリアの〝婚約者〟と名乗っていたあの眼鏡の男は来ていないようだ。チームの監督や選手たちがジャスティンと抱き合い、マスコミがすぐさま彼らを取り囲んだ。
扉の外に、弟のターリクが立っているのが見えた。ターリクがさっと手を振り、話があるという合図をした。バドゥルが戸口へ向かうと、こちらを待たずに中庭のほうへ歩き出す。
廊下を奥へ進み、円柱が立ち並ぶ回廊に出た。回廊に四角く囲まれた中庭にひとけはなく、整然とした花壇にはアデニウムやブーゲンビリアが色鮮やかな花を咲かせていた。ターリクが、バドゥルのほうに向き直った。幼いころ病弱だった弟は、バドゥルよりやや小柄で色が白く、優しい顔立ちをしている。まじめで政治をよく学び、昨年からは内務大臣の職を立派に務めていた。こう見えて、剣の腕も兄に負けないくらいだ。
「あのイギリス人選手が無事でよかったな、兄さん」ターリクが言った。
「ああ」
「しかし、もし何かあったらどうするつもりだったんだ? 国際問題になってもおかしくないぞ」
「死人が出ても中止されない競技、それがロードレースだ」
「そうかもしれない。でもあの選手が崖から落ちたのは、コースの不備のせいじゃないか? あそこが砂嵐で危険なことはわかっていたはずだ」ターリクがきびしい口調で言った。
「部族間の話し合いで、あのコースしか選択肢がないと決まった。今さらそんなことを言っても始まらない」バドゥルは堂々と答えた。
「山の部族に別のコースを反対されたんだろう。もっと時間をかけて話し合うべきだったんだ。〈ナビール・カップ〉の開催は少し早すぎた」
「そんなことはない。ぐずぐずしていたら、国際社会から取り残されてしまう。リゾート施設が完成する前に、少しでもこの国のことを知ってもらう必要がある」
「そのリゾート施設だって、砂漠の部族とまだきちんと話がついていないだろう。兄さんはことを急ぎすぎる」
「おまえは慎重すぎるんだ」バドゥルは弟をにらみつけた。
ところが、ターリクは視線を外し、はっとした表情をした。バドゥルが振り返ると、柱の陰からセシリアがこちらをのぞいていた。
「ここで何をしている?」バドゥルは鋭い声で問いただした。
「ご、ごめんなさい」セシリアが言った。オリーヴ色のワンピースに着替え、淡い橙色の花模様で彩られたスカーフをかぶっている。「ちょっと息苦しくて、外の空気を吸いたくなって、いつの間にか……」
ターリクがすれ違いざまに「またあとで話そう」と言って、廊下の奥へ去った。
「お話の邪魔をしてしまったみたいね」セシリアがターリクの背中を目で追って、申し訳なさそうに言った。
バドゥルはひとつ小さくため息をついてから言った。「かまわないさ」
セシリアが花壇に歩み寄り、紫や濃いピンクに色づいたブーゲンビリアを見つめながら言った。「ターリク王子は私たちのことが嫌いみたいね」
「そんなことはない。ジャスティンの無事を喜んでいたよ」
「そう、でも、なんだか怒っていたみたい」
「あいつはまじめで、用心深い性格なんだ。今回の事故が起こったのは、〈ナビール・カップ〉の開催が早すぎたせいだと考えている」
セシリアが緑色の目を向けて言った。「あなたは、どう考えているの?」
「私は、この時期に開催に踏み切ったのは間違いではなかったと考えている」バドゥルは答えた。「もちろん、事故が起こったのは事実だ。コース設定に問題があったのかもしれないということも認めよう。しかし、何ごともやってみなければ、先へは進めない」
「ええ……確かにそうね」セシリアが静かに言った。「でも、もしジャスティンの身に何かあったとしたら……同意できたかどうかはわからないわ」
「ジャスティンには、ほんとうに申し訳なかったと思っている。来年は、もっと安全性を高めると約束するよ」バドゥルは言って、セシリアをじっと見つめた。
セシリアが頬を赤らめ、また視線を花壇のほうに向けた。「やっぱり、あしたイギリスへ戻ろうと思うの」
バドゥルははっとした。「なぜだ? ジャスティンには休養が必要だろう。急いで帰国することはない。まだゆっくり話してさえいないんだ」
「それなら、ジャスティンだけしばらく残って、私はチームと……」
「どうして? 婚約者が迎えに来たからか?」からかうように言ったつもりが、なぜか鋭い口調になった。
「ち……違います。スタンリーはただの幼なじみよ」
「聞き間違いでなければ、彼は君の婚約者だと名乗っていた。君も否定しなかった」
「それは……」セシリアが口ごもった。「子どものころに親同士が勝手に決めたことを、彼が当たり前のように思っているだけよ」
「だったらなぜ、きっぱりはねつけない? 君らしくないな。ただの幼なじみに迎えにきてもらって、皇太子である私の申し出を退けて、さっさと帰るというのか?」
セシリアが、かっと頬を上気させてこちらをにらんだ。「スタンリーとのことは、あなたには関係ないでしょう! 失礼します。いろいろお世話になりました」つかつかと回廊のほうへ戻ろうとする。
「待ってくれ」バドゥルはすばやくセシリアの手首をつかんでから、ぐいと引いて両手で肩を抱き寄せた。
「な……何をするの」
「立ち入ったことを言ってしまったようだ。気を悪くしたならすまない」バドゥルはセシリアの顔を見下ろした。緑色の目を不安そうに見開き、長いまつげをしばたたいている。「ジャスティンとともに、もうしばらくナビールに滞在してほしい。皇太子ではなく、友人としての頼みだ」
セシリアが少し表情を和らげた。午後の柔らかな陽射しが、スカーフからのぞく髪を金色に輝かせている。
バドゥルはいつの間にか、セシリアの体を強く引き寄せ、唇を重ねていた。
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