第5話 若君と雨の夜

「惟光、どうしたら、葵は笑いかけてくれるようになるのだろう……」


みづこ、つまり惟光が女の身なりで、光源氏を説得し、彼がそれに納得して、葵の上との関係性をまともにしようと、第一歩を踏み出してから、もう五年近い歳月が流れていた。

それだけ長い間、この時代の上流貴族の中でも指折りの高貴な身分と言っていい光君が、たった一人葵の上以外の誰とも夜をともにしないようにシていた訳だが、その、現代日本ならば誠実といえる、そしてこの時代ならば変わり者と言われるほどの努力を行っていても、悲しい事に彼の努力は報われていなかった。

どれだけ、どれだけ光君が葵の上との関係を良い物にしようと、心を尽くして歩み寄ろうとしても、肝心の葵の上がきわめて冷たいのだ。

話しかけてもまともな会話などしない。言付けは彼女の周りにいる侍女達が行い、この五年という長い間の中で、光君が葵の上と会話したのは、たった数回、結婚したばかりの頃だけなのだ。

最初の数回以降は、葵の上は自分で会話をしようとせず、侍女達に全て返答させ、自身は御簾の中でつまらなさそうに座っているだけ。

光君がどれだけ、話しかけても、何かを贈っても、彼女の心は動かされず、そんな状態なので、夜の事はできるわけもない。

そんな雰囲気になるはずもなく、そして光君は夜伽の手ほどきの際に受けた、心の傷が癒えていないのだ。

女性という物に対しての強い苦手意識と吐き気に似たものをこらえながら、関係をよりよい物にしよう、と根性で誘いかけても、葵の上はいつでも、


「疲れました」


「気分が優れません」


「休みたいのです」


「今日は都合が良くない日なのです」


などとあらゆるいいわけを使って、それらを侍女の言葉でやりとりし、光君を受け付けないわけである。

やはり、彼女が最初に思っていた事であろう、帝の優遇される后になるはずだった、という未来は強い願いだったのだろう。

そしてそれが叶わない事は、何年すぎても受け入れられない事実であったに違いない。

それ故に、光君はこれ以上努力できず、こうして心から物憂げになっているわけだ。

惟光も、ここまでとは想定していなかった。

ここまで、歩み寄りを拒絶する女性だとは読めなかったわけである。

なぜか。

それは光君と葵の上の結婚が、帝の肝いりで決められた事だった事が理由だ。

帝の肝いり、つまり帝の命令であり、葵の上からすれば夫の父、つまり舅からの命令なのである。

意外かも知れないが、この時代まだ律令のあれこれが残っており、妻は夫の父母に心を尽くしなさいと、言われている時代でもあったのだ。

形骸化していたかも知れないが、法的にはそうであったらしい。

その事もふまえると、ある程度は受け入れてくれるんじゃないか、と惟光も考えていたのだ。

惟光は女だ。だから女の人が、あちこちに恋人を作る男の人に対して、強い憤りを覚える事も、嫉妬する事も、悲しむ事も、苦しむ事も理解できていた。

それ故に、ならば誠実でたった一人を大事にする男の人という、ある種この時代でも理想の男性像の一つに、光君が形から入っていけば、見直してくれて、心も動いてくれるのではないか、と思っていたのだ。

だがしかし。葵の上は最初の立ち位置から、全く動く気配がない。

人づてに様子を聞いてみても


「わたくしは、帝の后になるはずだったのに」


などと言っている様子で、さらに


「四歳も年下の夫なんて、なんて侮辱なのでしょう」


とまで侍女達に言っているらしいのだ。これだけ毛嫌いしていれば、侍女達も我が君と仰ぐお姫様の側に立つだろう。

たった四歳と思うかも知れないが、女性が四歳も年上というのは、結構

大年増扱いを受けるかも知れない案件なのだ。平均寿命が短い事からであろう。

そして結婚がきわめて早い事も、それらを後押ししているかも知れない。

そんなわけで、光君がどんなに誠実な真面目男になっていようとも、葵の上からすれば、帝でも春宮でもないから、相手として不釣り合いという認識でいる様子なのだ。

これをどうにかするなんて、惟光には出来ない物である。惟光は光君の乳兄弟であるが、身分はかなり低いのだ。その低い身分の惟光の言葉など、葵の上やその侍女達が聞いてくれるわけもない。

だから、惟光はこれはどうしよう、と真剣に、光君と一緒に悩む問題なのであった。


「そうですね……この五年間、何をしても葵様の心を解かせなかったわけでして……惟光の知っている方法は皆試しましたし……」


「いつも気にかけている、と手紙を送っても、歌を贈っても、綺麗なところに旅行に連れて行っても、女性達が喜ぶという事は皆試しただろう」


「試しましたね……」


この五年間、何もぼーっと葵の上の心が解けるのを待っていたわけではない。惟光も、光君も、女性が喜ぶあれやこれやそれを、ありったけ試してきたのだ。

高貴な女性が喜ぶ事も、女官達が喜ぶ意外な盲点の事も、徹底的に試して、それらが全滅なのである。

もうこうなってしまったら、惟光も光君も打つ手がないという状況なのだ。


「左大臣には申し訳ないのだが、葵との離縁も最近は頭をよぎってしまうのだ……」


「それまずくないでしょうか」


「よくしてくれる左大臣達には、まことに申し訳ない、最後の選択になる」


「ですよね……」


帝直々に、最愛の息子を頼んだ、と言われている左大臣やその北の方は、葵の上とは対照的に、光君をとてつもなく大事にしているのだ。

気詰まりなほど尽くしてくれる彼等の事を思うと、やはり即断即決という事は出来ないのである。


「一度、左大臣様に、葵の上様の事をご相談しませんか? 夫婦の事で、本来夫婦で解決しなくてはならない、と言われるかもしれませんが、こちらがもう打つ手がない状態なので、誰かに介入してもらうのも、ありかもしれません。それに、お父上の言葉なら、葵の上様も、耳を貸してくださるかも知れません」


「そこまで面倒をかけるのは、申し訳ないと思って今日まで来ていたけれども……そうするしかないかもしれないな」


そういって、光君は深くため息をついた。葵の上ただ一人を大事に扱う、という道を選ぼうとしている光君は、やはり心の中には、麗しい藤壷の事があるのだろう。

惟光はそれを肌で感じ取っている。光君は出来るだけ努力している。女性を手を握るだけで血の気が引き、呼吸がままならなくなるほど苦手なのに、葵の上とは会話をしたり、夫婦として親しくなろうと心を砕いている。

それでも、それらが実を結ばなさすぎて、優しかった藤壷を思いだし、やはりあの人はすてきな人だった、と思うのも、ある意味仕方のない事ではあるのだ。

誰だってそうだろう。仲良くしたいと思っても、向こうにとりつく島がなかったら、前まで親しくしていた、今はもうまともに会えない人を懐かしがり、あの人は良かった、と思うのは経験がある人も多いだろう。

それが、よからぬ恋心にならなければいいのだ。そう、ただ懐かしがるだけなら、おかしな話でもない。

父親の後妻相手に、良からぬ感情を抱き、暴走しなければ、たんなる同情できる話ですむわけだ。


「……しかし、やはり……父上がこれはと思って選んでくれた方だ。離縁は父上にも、左大臣にも申し訳なくて……」


「だから彼等にどうにかしてもらいましょう。こちらがどうやっても無理なんですから、もう、他人を頼っていい頃合いです。五年ですよ、五年」


うつむいた光君に、惟光は言う。


「あなたは、おひとりでがんばりましたよ。とてもすごい努力です。でも、もう一人では無理だと思われるなら、誰かを頼りましょう」


「一人ではないんだ」


「え?」


「惟光も、二条のみづこも、私のために一生懸命に考えてくれて、情報を集めてくれて、心を尽くしてくれた……なのにこんなていたらくで、二人にも申し訳なくなるんだ」


「みづこも、きっと、光君に、惟光と同じ事を言いますよ。五年という長い間、あなた様はがんばったのです、と」


惟光はそういって、光君を安心させようと笑った。

光君は、すこし辛そうに、笑みを見せた。


「惟光、近いうちに、みづこにも会いに行こう。きっとみづこは、よい便りを待っているだろうが、それでも、みづこに感謝しなければならないんだ」


「そうですか」


やはり、光君はみづこが惟光だとはかけらも気づいていない様子だ。断層女装はそれだけ、雰囲気が変わるものだし、男のなりをする女も、女のなりをする男も、いるはずがないという認識の方が強いのだろう。

それ故に、そうでない双子の兄妹の物語が、有名になるわけだが。

しかしながら、惟光は背中に大量の汗をかいていた。それはそうだ。気づかれてしまったら大変だからである。

まあ、一番近くにいる光君が気づかないように、気をつけているのと、鬼の知恵を借りているので、誰かに気づかれる事はないだろう。

衣服の都合で知っている母は置いての話だが。


「さて、惟光。今日は雨が降っているし、二条にも戻らないし、左大臣の邸にも戻らないから」


「方違えですし。まさかどちらも縁起の悪い方角になるとは、仕方のない事ですが、どこかに泊めていただくしかありませんね」


「ふふ、伊予介の所に使いを送ったのは惟光だろう」


「はい。あちらなら、光君に心を尽くしてくださるでしょう?」


「お前の事は頼りにしているよ」


「はい」


伊予介は、光君に仕えている男だ。たしか最近、自分の娘ほどの年の若い女性を後妻に迎えたときいているが、後妻の邸は別立ったはずなので、問題もないと惟光は判断し、使いを送ったわけである。

後妻というわけだが、嫡妻ではないため、同居しない事もあるのだ。

基本的に律令がぎりぎり生きているため、律令のある程度は考慮しながら生活するわけである。

そして同居する妻が嫡妻であり、同居しない妻は一段下がる扱いとも癒えた。

泊まる場所の用意は出来た。だがまだ時間が早い、どう暇をつぶすか、と惟光が考えた時である。


「おーい、光君。お前も暇をつぶす予定か? あっちで皆で集まっているんだ、来ないか?」


そう声をかけてきたのは、左大臣の嫡男である頭中将である。彼は光君とは違い、少し抜けているが非常に人間くさい男である。そこがいいと友人の多い男でもあり、どうにも同じ年の男子と生活していた時間が少なく、友人が少ない光君とは、少し対照的な男でもあった。

その男は、妹の夫、つまり義理の弟と言う事もあって、光君のことを何くれとなく気遣ってくれる、いい男だ。

たまに空回りをする事もあるが、そこがいいと言う女性も男性も、実は多い男である。


「君たちの輪に入ってもいいのかい?」


「光君は色々な事に詳しいだろう? まあ、やたら真面目でつまらないところもあるけれども」


「酷い言いようだな」


「まあ、妹を一番大事にしてくれているからな、俺としては間違いないいい奴だと思ってるぜ。妹の旦那がお前で本当に良かった」


頭中将の言葉に偽りはないだろう。妹を第一に考えて行動してくれる、そんな男はいい男なのだ。ふらふらと遊び歩き、妹を泣かせる男ではないと評価しているわけである。


「では、お言葉に甘えて、僕も」


それを聞き、惟光はほかの家臣達と同じように、程々の距離を置いて彼等の近くに座った。

光君は、男性達の輪に入って色々な話を聞いている。

その中の一人がこう言い出した。


「いい妻の条件って何だと思う? やっぱり家事が出来る事だろう?」


「でも、家事で手一杯の女性っていうのも、なんだかな」


「やっぱり美女だろ、美女!」


「警戒心がなくて、油断して、どこぞの男と浮気するのはいやだな」


「わかるわかる! 実は俺の恋人だった人の話なんだが……」


彼等が始めたのは、いわゆる理想の女性はどんな女性か、という誰でも一度くらいはするだろう会話である。

彼等は自分の別れた恋人達の話を始めるが、彼等の嫡妻はほかにいるので、全員通いどころといわれる、妾の事だろう。光君にはいない存在だが、貴族の男子は一般的に一人か二人くらいは、そういった関係の女性がいるのである。ただ一人を一心に思うと言うのは、きまじめすぎてつきあいにくいとも言われがちである。


「嫉妬深すぎて、ほかの女性のところに行くことになったら、指にかみついてきたんだ、それで別れた」


「俺は美女でとってもかわいかったんだけど、彼女めちゃくちゃ浮気性でさ!! それで結局さめてお別れしたんだよ」


「賢すぎる女性もよくないぜ、愛の語らいに漢文が出てきたらさすがに、うけつけない」


なー、わかるわかる、と彼らは話しているが、光君には未知の世界すぎて、圧倒されているのが惟光にはよくわかった。

葵の上はどれにも該当しないからである。

そんな話題の中で、頭中将がため息をついてこう言った。


「忘れられない女性がいるんだ。……よく笑う、かわいい人で……妻の嫉妬で嫌がらせを受けたためか、どこかにいなくなってしまって。一人、娘がいたのに、彼女は今どうしているのか……常夏の人」


「それなら、どうして娘を妻の養女にしなかったんだ?」


「そうだぞ、そういう事をすれば、頭中将の北の方も、割り切っただろ? なんだ、もしかして北の方と同じくらいの立場の女性に言い寄って……?」


「その逆だ。彼女は中流の女性で……両親を亡くして心細く過ごしていたんだ、方違えで出会って、一緒にいたんだ」


「ああ、お前やっちまったな。よくいうだろ、妻の立場に見合った寵愛をするのが基本だって。北の方のところよりも頻繁に通いすぎたんだろう」


「今にして思えばそうだったんだ……浮かれてのぼせて、大事な人を失った……」


「まあ、中流の女性達が個性があって魅力的なのは、よくわかる」


憂う頭中将と、同意したりあきれたりする友人達。それらの会話についていけない光君は、中流の女性という存在に、少し興味がわいた様子だった。

しかし、葵の上を大事に扱うという事をするべきだと自制しているのか、口を開こうとしない。

そんな恋の話題の途中で、一人が芸術論を展開し始め、彼等もそれに夢中になり、時間が過ぎていったのだった。







「これはこれは、お待ちしておりました、源氏君」


「ありがとう、君は?」


会話に熱中していた貴族男子達も、時間が時間だと、各行くべきところに向かっていった。そのため光君もまた、今晩の宿である、伊予介の邸にむかったのだが、彼を迎え入れたのは、伊予介よりも年若い青年だった。


「私は伊予介の息子の、紀伊守です」


「ああ。顔がどことなく似ているのはそのためか」


「ありがとうございます。源氏君をお招きするなんてとても光栄です」


紀伊守はうれしそうな顔をした後に、困った顔になった。


「大変申し訳ないのですが、少しばかり失礼をお許しください」


「何かあったのか?」


穏やかに問いかける光君に、紀伊守はこう言った。


「本日は、父の後妻が邸にやってきているのです。そのため、少々騒がしいかもしれません」


「ああ、大丈夫だよ。気にしないでくれ」


にこり、と穏やかに不愉快な感情など何一つない、という顔で言った光君に、紀伊守はほっとした様子だった。




「惟光……」


「はい、なんでしょうか」


「伊予介の後妻の方は、……美しいのだろうか」


「美しかろうと美しくなかろうと、おすすめはいたしません」


「どうして? ……もう何年も女性に触れていないんだ。女性という物を忘れそうなんだ……」


「それでもです。だってお考えくださいな。あなたは貴種のなかでも最高峰の貴種であらせられます。そして光り輝く美貌の持ち主で、何から何までよくできた方と、世間一般では言われているお方です」


「惟光は容赦のない言い方をする」


「一人くらい、それくらいの人間がいたほうがちょうどいいでしょう」


「いつもお前の意見は参考になるから、助かっているよ」


「それはうれしい。さて、お話の続きですが……そんなすばらしいと思われているお方と、一晩の夢を見た後の、奥方様がおかわいそうでしょう」


「かわいそうだろうか? よく、すばらしい人と一夜を過ごしたい、と男性も女性も言うだろう? 宮中の女房達はそういってはばからない」


「だって、その後、夫と比べてしまうでしょう? その後妻のお方が結婚前にどれだけの男性と経験があったかはわかりませんが、夢のような一夜の後に待っているのが、比べものにならないくらい……こう言うと失礼かもしれませんが、劣っている男性との夜ばかりとなってしまったら、きっと苦しいですよ。だってその方が、理性のある、貞淑な方だったら余計にです。色々な物の板挟みになって、でもきっと、おそらく……二度めはお互いのために起きてはならないと拒むでしょう」


「僕でも?」


「光君だからこそです」


「……」


「勢いだけで一夜をともにして、その後女性を苦しませる事にしかならないのならば、そういった行為はお控えください。それにあなたにお仕えする伊予介も、妻と寝られたら、侮辱と思うかもしれませんよ。いらぬ反感はかってはいけません」


「そうか。……僕と一夜をともにするという事で、その先苦しむ人がいるのか……思いつかなかった……」


光君は、惟光の言葉を受け止めて、それをよくよく考えた後に、こう言った。


「誰かと触れ合うのは、葵との事が解決したらにする。それまでは協力してくれるだろう、惟光」


「はい。光君が誰かを愛してもいいようになりましたら、いくらでも良い女性の噂を拾ってきますからね」


にこ、と笑った光君に、惟光もにぱっと笑い返したのだった。


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