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1 壱 ~ 飛ばされて”さき島” (無人島?) ~

 前触れなく意識が覚醒し、ふと目を開ける。自分はあお向けに寝ているようで、眼前には雲一つない灰色の空が広がっていた。というよりも、景色に色がないようだった。少しずつ感覚が戻るとともに、尻と背中へ何やら突き上げるような痛みを感じたため、身をよじりつつなんとか上体を起こす。しかし、そこでものすごく気分が悪い事に気がついた。まるで乗り物酔いにかかった時のような悪心があり、カン高い耳鳴りが頭の奥でずっと鳴っているような感じがする。おまけに閉塞感があって、周囲の音も割れたような耳障りなものに聞こえる始末。やけに動悸がして辛いので、もう一度体を横たえようとしたとき、突然スイッチを切り替えたかのように気分がよくなる。同時に五感も全て回復した。それと共に周囲の風景も色づきはじめ、灰色だった空はすっかり青空に変わる。回復した聴覚には、どこからか波の音が聞こえている。釈然としないままでいると、何やら焦げ臭いような匂いが鼻を突き、慌てて体を確認した。しかし勤務スタイルである以外は、特に変わったところはなかった。

 身に着けた作業着は、淡い緑色の着慣れたセパレートの上下で、左肩のポケットには百五十ミリメートルの定規スケールと、赤と黒の両頭サインマーカーがささっている。左胸のポケットには、ゲルインクのボールペンがさしてあり、ズボンのサイドポケットには、ニッパーと二番の+ドライバーが入っていた。頭には、鍔を後頭部へ回した青い作業帽をかぶり、足にはつま先に鋼板が入った裏革製の安全靴という、どこからどう見ても先ほどまでいた作業現場スタイルだ。何となく肩口の匂いを嗅いでみると、若干ではあるがオゾンのようなにおいがする……。

 それにしても状況がまったくわからない。背中がヒリヒリと痛いのは、ごつごつとした岩の上に長らく横たわっていた事によるものらしいが、どういうわけか特に尻が異様に痛い。何事かと思い、腰だけを浮かせて位置をずらす。ちょうど尾骶骨びていこつのあった付近には、小さな石筍せきじゅんのような岩が突き出していて、寝ている間中尻を点で支える状態になっていたようだ。

 そうした現状を目の当たりにし、どうしてか後ろめたい気分になった自分は、立ち上がろうと地面へ両手をつき、顔を上げる。そのとき、ふいに視界の隅に動きを感じた。ぎょっとして視線を向けたその先には、少し離れた岩陰から半身を乗り出し、こちらの様子をうかがう女の子の姿があった。歳は……ぱっと見た感覚では、八歳から十歳くらいのように見える。身長はおよそ百三十センチ後半から百四十センチくらいだろうか。裾から覗く日に焼けた細い脚と、膝から下は上着と同じ色をした、茶色い脚絆きゃくはんに、真新しい草鞋履き姿。これは時代劇中の旅装束で見たようなものだろうか。いい色に日焼けたした、一見非常に健康的で活発そうな女の子は、身を寄せている岩に右手をかけ、残った左手で着物の裾をぎゅっと握り締めている。そして時折、ひょこひょこと頭を動かしては、こちらの様子を窺っているようだ。彼女の着衣は和服のそれで、生地は渋染めのような茶色をしている。袖丈は手首よりやや短く、黒っぽくて細い帯を腰の左側で結び、裾は膝丈程しかない。全体的には小袖のようで簡素な作りの物だが、目立った汚れや傷みなどはなく、清潔感がある。

襟元の具合からすると、重ね着をしている様子はないようだ。また袖口を見る限りでは、柔道着のような厚ぼったい生地のようなので、単衣着ひとえぎが基本スタイルなのかもしれない。肩よりは長いとおぼしき黒髪を、後ろで一本に束ねているようで、サイドは両耳のあたりで若干外側に跳ねていた。特に理由はないけれど、なぜだか自分は、彼女に神社の巫女さんのような印象を受けた。

やけに古風な恰好をしているということは、近くで祭りでもやっているのだろうか。そう思い耳を澄ましてみるも、祭囃子まつりばやしや人々の喧騒けんそうは聞こえない。聞こえるは風と波音ばかりなり、である。

ずっとこうしていてもらちが明かないので、とりあえず女の子に声をかけてみる事にした。軽く挙げた右手を振りつつ、岩陰の少女へ向けて声を張る。


「すみませーん!!」

「ひゃあ!」


 普通に声をかけたつもりだったのだが、彼女は短い悲鳴を上げて岩陰に隠れてしまう。これにはおじさんもちょっと傷ついた。


 女の子のただならぬ様子が気になったので、立ち上がって岩へ近づき、彼女の安否をうかがおうと岩陰を覗き込む。そこには、場に伏せるようにして両手で頭を抱えている女の子の姿があった。挙句少女は肩まで震わせて、何やら小声でぶつぶつと繰り返している。まさかここまで怯えられるとは思っていなかったので、正直辛い。


「か……ぁ……」


 今にも消え入りそうなか細い声のため、なにを言っているのかまでは聞き取れない。けれど、時折聞こえる単語は日本語のようなので、少しだけほっとした。だが、この異様なまでの怯えようはどういう事なのだろう。この子にとって、自分はどんな姿に見えていたというのか。取って食われそうな風にでも見えているのだろうか。自分の顔はそんな強面ではないはずなのだけど。この状況はかなりいたたまれないものだったが、そこでふと、ある懸念が頭を過ぎる。


「もしかして、これってヤバくね?」


 呟くとほぼ同時に、地平線の向こうから巨大なの二文字が姿を現し、自分に向けて倒れ込んでくる。ような気がした。この子をこんな状態で放置していると、通報されてしまうかもしれない。あるいは、今の悲鳴を聞きつけたどこぞの正義マンに拘束され、警察へ引き渡される可能性もある。そして、所轄の不審者情報ページで、事案周知をされてしまうだろう。

 醜聞というのは瞬く間に広がるもので、ことネットにおいての拡散速度と言えば、人伝いによる伝聞などよりも何倍も速い。それこそ光の速度で拡散して行くはずだし、きっと数時間後には身バレに至り、ずっとネットのおもちゃになってしまう。Wikipediaでは、ある事ないことを後世まで詳細に語り継がれ、変態番付の記ことを賑わしてしまうかもしれない。これは間違いなく明日の朝刊載ったぞ状態。


「これは違うんだ……」


 一体何が違うというのか。


 誰に向けるでもなく発した意味不明の言葉に、女の子は更にびくっと体を震わせ、ますますつぶやきは加速する……。世間では、おっさんが公園のベンチに座っていると通報され、うかつに子供に近づけば公権力に発砲される。まして、幼女に恐怖を与えたなどとなれば、極刑は免れないだろう……。ここは地獄か。

 頭を抱えてしまうほどに怯えた女の子を見たことで、自分の脳内には半ば現代病のような被害妄想が、ぐるぐると渦を巻きはじめていた。次いでこの場から今すぐ消え去りたいという謎の衝動に駆られた自分は、天をあおぎ神にも縋りたい気持ちになる。がしかし、そもそも無神論者であった。自分はメンタルが強いほうではないが、かといって豆腐かというとそうでもない。とはいえ、このような状況を放置するのは、何かと世知辛く狭量な現代社会において、間違いなく命に係わるほどの危機的状況なはずだ。それは火を見るよりも明らかだろう。これはいけない。このままでは家族や会社に迷惑が掛かってしまうかもしれない。

 周囲を見渡せば、ここはなかなかの高台で、眼下には青い海と白い砂浜が広がっている。ここにリゾートホテルを建てれば、素晴らしいオーシャンビューが売りになるに違いなかった。こんな時でもなければ、あの砂浜で砂の城を築いたりダムを作って決壊させたり、蟹を追いかけまわしたり、打ち上げられたヒトデを手裏剣のように投擲するなどして、充実した一人遊びを満喫できたかもしれなかった。

 ぢつと足元を見る。いい具合に切り立ったこの岩場から飛んでしまえば、この苦しみから解放されるだろうか。際限なく膨れ上がり、もはやオーバーフロー寸前となった負の感情は、連鎖反応を起こして正常思考を阻害する。気付けば眼前の少女に対して、本能的に無言の土下座をしている自分がいた。が、そこで我に返り、一気に跳ね起きた自分は、回れ右をして少女に背を向ける。気づくのがもう少し遅かったら、腹を切って死んでいたかもしれない。


「……違う。そうじゃない。これはあれだ、夢だ。いやでもしかしいつ寝たんだろう? さっきまで普通に仕事をしていたじゃあないか」


 やはり事案を恐れるあまり、冷静な判断ができなくなっていたようだ。ネガキャンに勤しみ無駄に自分を追い込むのは本当に良くない。しかしだ。時として人には、理解不能な現状に置かれた自分自身の身の安全よりも、世間体を重視する方がはるかに重要な場合があるのもまた事実。あゝ理不尽。


「きっとこれは夢だ。絶対に夢だ。何度でも言う、こんなものは夢だろう。どう考えても。弥次喜多珍道中」


 でたらめすぎて流石に現実感は薄いのだけれど、自分が着ている作業着を見るとやけにリアリティがあり、何とも言えない不安な気持ちになる。「その程度は些事であり、夢だから」で、全て片付ければすむ話ではあるのだけれど。それにしてもやはり納得がいかない。そんな妄執に取り付かれていると、冷たい腋汗が横腹を伝い、パンツのゴムに染み込んでゆくのを感じる。そこで再び現実へ引き戻された気にもなるが、やはりここは開き直って夢という設定へ逃げ込むことにした。


「うむ、これは確実に夢だ。というか夢の中で夢だと気づけたんだし、やりたい放題じゃないか? こういうの明晰夢って言うんだっけ?」


 夢であることは間違いないだろうと、自分に都合のいい言い訳をいろいろと考える。むしろ言い訳などよりも、夢という免罪符を前にしたことで、汚らしい欲望がムクムクと沸き上がってくるじゃないか。夢の中なら何でも許されるのだ。何してやろうかなデュフフ。


「よし、切り替えていこう」


 岩陰の少女には聞こえないよう、小声で「これは現実ではなく夢である」と暗示のように繰り返し、どうにか平静を取り戻すことに成功する。立ち直りや切り替えが早い所は長所だと思うし、大事にしていきたい。履歴書にも書けるしね。てへぺろ。

 当然普通に考えれば、こんな荒唐無稽な状況が現実であるわけはないのだ。とは言え、少し前の記憶では確実に客先の現場にいたはず……。確か休憩を終えて、作業に戻ろうとしていたと思うのだが、やはり現実では居眠りでもしているのだろうか。それともとっくに帰宅して、床についたらこのありさまなのかもしれない。いずれにしても夢であれば楽しんだもの勝ちだろう。なにせこれは夢なのだから。こうしていよいよ気を取り直した自分は、女の子の方へ再び向き直る。ここまで二十秒弱(概算)。


「あの~、お嬢……ちゃん?」


 自分とは対照的に、いまだ立ち直る兆しもなく、ただ頭を抱え土下座スタイルでうずくまる女の子に対し、できるだけ穏やかに声をかける。大丈夫これは夢。声かけ事案などは存在しないやさしい世界。これは夢。……のはず。


「ひぃっ!」


 しゃくり上げるような音で、二度目の悲鳴を上げた女の子は、飛び起きるように上半身を起こしてようやく自分の顔を見た。


 気の毒になるほど怯きった彼女の不安いっぱいな瞳に見据えられた自分は、猛烈な居心地の悪さを感じた。それと同時に強く湧いた庇護欲のような感情に胸を締め付けられる。これは相当堪えるため動揺してしまう。今の状況が夢だとわかっていても、たとえ自分の脳が生み出した妄想であっても、幼い子供が自分に対してこんなにも怯えて縮こまっているのだから、そりゃあ堪ったもんじゃない。ホント、おじさんもう泣きそうだよ。

 それでも何とか平静を装い、親しい相手にでも近づくような素振りで彼女の前に歩み出る。それから片膝をつき、目線を合わせた。小さな女の子が、見知らぬ大人から覗きこまれるようなことになれば、そりゃあ怖いに決まってるし。

 ちょっと太眉で切れ長の目と、すっきりと通った鼻筋に短めの人中じんちゅう。その下には、少しだけ隙間を開けた小さな唇が震えている。彼女の愛らしい顔には、将来美人になるであろう要素がてんこ盛だ。やや大きめで、きれいな茶色の虹彩に囲まれた瞳孔は、緊張のためか若干開き気味だ。それでいてこちらの目をしっかりと見返しているため、不安ながらも懸命に事態を観察して、理解に努めようとしているように見える。今は弱弱しい彼女だが、実は芯の強い子なのかもしれない。そんな様子に自分は苦笑を返し、後ずさるような素振りさえ見せている女の子へ、再度優しく話しかけた。


「こんにちは。えっと、初めまして。お話は……できるかな?」

「はぃ」


 そう声をかけると、蚊の鳴くような小さな声が返ってくる。彼女は、涙目の視線を泳がせながら口をへの字にしている。それでも、見知らぬおっさんの問いかけに答えようと、やっとの思いで声を絞り出している様子だ。健気である。家宝にしたい。末永くたてまりたい。

 とりあえず話はできるようなので、安心した自分は、なんとか落ち着かせられるよう慎重に話を続ける。


「とりあえず、ここがどこなのか教えてくれないかな? 情けない話なんだけど、おじさん迷子になっちゃったみたいでさ。自分がどこにいるのかさっぱりわからないんだよね。ははは……は」


 普段はほぼ他人に向けないような、恐らく相当にぎこちないであろう笑顔を彼女へ向けて、必死にコミュニケーションを試みるおじさん。知らない土地で、初対面の人間と話せる話題などそう多くはないが、ここはとにかく警戒を解いてもらわなければならない場面だろう。


「え……と……このへんは、うらっていう村でして、このしまは、さきしまっていう島……で」


 たどたどしい口調で伏し目がちに言った女の子は、それきり押し黙ってしまった。


「そっか。ここはうらっていう村なんだね。それで、今いる所はさき島っていう島なんだね。ありがとう」


 そう返すと、彼女は伏せていた眼を上げ、少しだけ口元を緩めた。


「お? やっと笑ってくれた。笑ってなくてもかわいいけど、笑うともっとかわいいじゃないか」


 しかし、少しでも間が開くと顔を伏せてしまうので、できるだけ会話を途切れさせないようにする必要がある。ならば一気に畳みかけて信頼度を稼いでいきたい。


「あ~。そういえばまだ名前を言ってなかったね。おじさんの名前は――」


 会話をつなぐため、まずは自己紹介でもと思ったとき。女の子が割り込むように口を開く。


「か……ま……」


 それはとても小さな声だった。一瞬聞き間違いかとも思ったが、もごもごと小さな口が動いていたので、彼女が言葉を発したことに間違いはない。


「ん? なんて言ったのかな?」

「かみ……さま」


 ダメもとで聞き返してみると、さっきよりははっきりと言葉を返してくれた。彼女はかみさまと言った。自分はかみさまという言葉を反芻してみる。普通に考えれば、その言葉の意味するところは“神様”なので、今の彼女は神に助けを求める程に困窮した状況にあるのだろう。そんなに?


「神様?」

「かみさま」


 うーむ。博士これは一体。


 この場にいるのは二人だけ。あなたとわたし。きみとぼく。彼女が自分に視線を投げかけ、神様と言うのであれば、その呼称の対象者は一人しかいないわけで。同じやりとりを何度繰り返してみても話は進みやしないが、確信を得るために彼女へもう一度たずねてみる。


「それは……おじさんが神様なの?」

「はい、あなた様は神様です」


 とんでもねぇあたしゃ神様だよ。


 超有名大御所芸人が、耳の遠い神様に扮して似たようなやりとりをするコントが大昔にあったよ。本気でとんでもねぇな。たとえ夢でご都合だとしても、天下の幼女ように、薄汚いおっさんを神様呼ばわりさせるなんざ不届きな輩もいたもんだ。自分だった。自分だけれども。いうてこの子は幼女というほど幼い年齢ではないけど。

 ペタンとその場に胡坐あぐらをかいて腕を組み、うなだれてうんうん唸りはじめる神様らしいおじさんである。そんな自分の様子に、女の子はまたぞろあたふたしはじめ、不安いっぱいといった眼差しを向けている。ようやくここまで会話のキャッチボールを続けてきたのだ。話をこじらせるのは得策ではない。今やるべき事は、とりあえずこの子との信頼関係を築くことである。疑問や矛盾などは、後々解消して行けばいいのだ。ならば、当然このまま彼女の話に乗ったほうがいいわけで。面倒なことは抜きにして、楽しい夢にしてゆくのがベストな選択という物だろう。考えるな感じろ。習うより慣れろ。あんずるよりやすしきよし。こういう場面では勢いも大事だからな。


「ええと……初めまして、カミサマデス」


 勢いに任せた結果、取ってつけたように間抜けな返事を暴発させる。次いですぐ、これはいけないと思いうっかり顔をらしてしまった。こんなものは傍から見れば明らかに嘘をついている構図でしかない。別に傍から見なくとも、明らかに不自然な行動だ。不安定な神様もいたものである。


「やっぱり……。よかったぁ」


 彼女は独り言のようにそう言うと、目を輝かせて安堵したような笑みを浮かべる。


「ええぇ……」


 つい今の今まで、豆腐の角にぶつかっても死にそうなほど怯えていたのに。何がこの子をここまで吹っ切れさせたのだろう。彼女の豹変ぶりには違和感を覚える。また疑念もあるが、とりあえず今はと思い直し、事態の進展に注力することにする。

 突如てきぱきと居住まいを正しはじめ、近くの平たくなった岩の上にちょこんと正座をして、深々と頭を下げる女の子。つられて自分もと思い、正座になろうとした。けれど、視線を落とせば今いる場所は、凶悪な凹凸を晒す鬼おろしのような岩肌の上であった。


「……拷問かな」

「あ、ななな何卒そのままで!」


 女の子は、また泣きそうな顔で両手のひらをこちらへ突き出している。すみません気を使わせてしまって。


 特にこの子に向けて言ったわけではないのだが、彼女はこちらの一挙手一投足に対して、いちいち恐縮してしまうらしい。こうなると一層気を使わないといけないかも。

 慌てふためく彼女に促されるまま、胡坐あぐらを戻し元のように座りなおす。ホントは胡坐あぐらでも若干ケツは痛いのだが、そこは一応大人の男だし我慢できるもん。一方女の子は、少し間を置いてから、まっすぐにこちらを見て、改めて丁寧なご挨拶をはじめた。やはり挨拶は大事だ。

 彼女の名はヨリと言った。年齢は十二歳だそうだが、明らかに実年齢よりも幼く見える。姓はなく、彼女が育った村“うら”でも、皆姓は持っていないということだ。どうやら、姓の概念自体存在していないようだ。深く突っ込んで聞いてみれば、名づけにはしきたりがあるのだという。基本的には父親が付けるそうなのだが、文字数は二文字に統一されていて、それ以外は禁忌となるらしく、絶対にあってはならない事なのだという。しきたりによれば、文字の数は神格を表しているそうで、この地の|信仰しんこう《しんこう》の概念は、日本の八百万の神|信仰しんこう《しんこう》に似ているものだった。ただしここでの信仰しんこうでは、人にも神が宿っているものとして考えているのだという。というよりは、むしろ神を分けてもらっている、という方が正しいかもしれない。しかし、人に宿る神の地位は最も低いもので、自分たちの生活を豊かにしてくれる、人以外のものすべてが、高位な神であるという考え方のようだ。生物非生物を問わず、それらすべてを自分たちより長い名前で呼びならわし、信仰しんこうを示し敬うというのが、基本的な理念になっているらしい。敬うべき対象には、食べ物や道具、知識や言葉など様々なものが含まれており、ヨリの名もこのあたりで良くとれる“イトヨリダイ”という鯛の仲間に因んでつけられた名だそうだ。

 おかしな夢を見て本当にすみません……。生涯にわたって呼ばれ続ける大事なお名前なのに、極めて雑なものを背負わせてしまい、お詫びのしようもございませんです。まぁでもイトヨリダイ美味しいし、仕方ないよね。

 そんな信仰しんこうの中でも、自分という神が最も高位の存在だとヨリは言い、自分を崇め奉ることによって、村は豊かな生活をおくれているのだそうだ。流石だな夢世界。無茶苦茶すぎてわけが分からないぜ。

 ヨリは、生来明るく快活な子のようで、地域のことをたずねると嬉々として話してくれた。この周囲は、温暖な気候で四季はなく、農作物や魚介などの資源はいつでも豊富に得ることができるという。おかげで村の生活は非常に安定しているため、かなり充実している様子だった。そこで、役所や公共の施設、警察や消防などの組織についても尋ねてみるが、その何れも存在しないという。むしろ、概念や単語すら理解できていない様子であった。まあ、夢の内容などは覚醒時に覚えていたとしても、理解に苦しむ程酷い物である事はままあるので、自分の知識や概念と大幅な齟齬そごがあったとしても何ら不思議ではない。

 すこし前とは打って変わり、ころころと表情を変えて、ヨリは嬉しそうに自分の生い立ちを語ってくれるようになった。その様子を見る限り、彼女は幸せな境遇に恵まれて、まっすぐに育ったいい子だということがありありと伝わってくる。彼女の楽しそうな仕草を眺めていると、いつの間にか自分も幸せな気分になっていた。

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