私達が出会って別離を味わうまで ~冒険の予感。マジカルサーキット前日譚~

凍龍(とうりゅう)

智子

第1話 ビギナー

 初めてオフロードバイクに触れたのは、大学そばのバイクショップが主催する、初心者向け体験レースだった。舗装されていない林道を、ごつごつのタイヤを履いたバイクで走るのだという。


『えー。簡単だよ~、自転車と変わんないから。それに、バイクはもちろん、ヘルメットもブーツも全部ただでレンタルできるから。服装? どうせ汚れるし、高校の時のジャージでいいって。着替えと軍手だけ持っといで~』


 念願だった第一志望の工科大学に奇跡的に滑り込んで初めての連休。

 入学したばかりで帰省するにはまだ早いし、本格的にバイトも始めていないので九州まで帰るほどのお金も貯まっていない。そんなわけで暇を持て余した私は、バイク好きの友人から誘われ、なんとなく面白そうだと思ってイベントに参加した。

 結論から言うと、とんでもない大間違いだった。


「一周四キロの簡単なコースです。昨日の雨でほんのちょっとぬかるんでますけど、まあ、大丈夫でしょう」


 軽く言うスタッフに見送られて走り出したまでは良かったけど、スタートから十秒で後悔した。

 ほんのちょっとどころの話ではない。ただ走るだけでも自分のバイクが跳ね上げた泥で全身べっとり泥だらけになる。その上、私は最初の崖登りセクションでさっそく先行車両のつけたわだちにはまり、完全に身動きが取れなくなってしまった。


「そんなに肩に力を入れるなって!」


 不意に声をかけられ見上げてみると、同い年くらいの男の子が背の高いバイクにまたがって崖の上から私を見下ろしていた。

 それが彼と初めて交わした会話だったと思う。

 第一印象は最悪だった。

 アドバイスと言うより、まるでバカにしているような口ぶりに聞こえたからだ。


「余計なおせわです!」


 文字通りの上から目線にムッとした私は、乱暴に言い放つとアクセルを全開にする。だが、後輪は泥の中で空回りし、ますます深く地面を耕す。

 その間にも、私以上に初心者感丸出しのライダーが、次々と私の横を抜いていく。

 悔しい。


「くっ!」

「そんなに焦らない!」


 彼はバイクごとするりと崖を下ってくると、意地になってアクセルをあおる私の右手を両手で包んでハンドルから引き剥がした。


「何するんですかっ!」

「落ち着いて。これ以上えぐっちゃうと本当に抜け出せなくなる」

「あなたには関係ないでしょ!」

「君、何でそんなにケンカ腰なのさ? ほら」


 そう言って彼は上体をひねり、私にブルゾンの背中を見せる。そこにはバイクショップの名前が大きく染め抜かれていた


「コースマーシャルっていって、君みたいに困っている人を助けるのが俺の仕事バイトなんだ」

「大丈夫、困ってない。人の助けなんていらない!」

「ぷっ!」

「な、何がおかしいんですか?」

「いや、そういうのは嫌いじゃないから」


 彼は噛みつく私を軽くいなすと表情を和らげた。


「じゃあ助けないよ。でも、独り言を聞く暇くらいあるよね。どっちにしても身動き取れないんだから」


 そう言ってクスクスと笑う。


「か、勝手にすれば!」


 恥ずかしさと悔しさで真っ赤になりながら私はそっぽを向く。


「じゃあ、まず、轍にハマった時は両足をつかないほうがいい。君の体力じゃ、いくら頑張ってもバイクは持ち上がらない」

「!」


 図星だった。必死に踏ん張って車体を浮かそうとしていたのに。

 彼は唖然とした私の顔をゴーグル越しに覗き込んでニコリと笑う。


「地面につける足はどちらか片方だけね。バイクが傾くから、アクセルをじわじわと開く。すると、ほら……」


 不思議だった。半分近く泥にハマっていた後輪がグリップを取り戻し、車体がぬるりと向きを変えてくる。


「そうそう、次はシートのなるべく後ろに座りながらアクセルを開けていこう。バイクは起こして、ハンドルもまっすぐ。上体を使って少し引っ張るつもりで――」


 次の瞬間、バイクはいきなりポンと飛び出すように轍を抜け出した。あれだけ苦労していたのがまるで嘘のようだった。


「はい! ステップに両足乗せて。ゆっくりでいいから身体を起こして崖を見る! 目線は上! 前のめりにならない! ほらっ!」


 ふと我に帰ると、バイクの前輪はいつのまにか崖の上に届いていた。

 目の前がぱっとひらけ、五月の抜けるような青空と、遠くの山々の緑がやけに鮮やかに見えた。


「おめでとう! 自力で抜けたね。じゃあレースを楽しんで!」


 彼のバイクは、まるでカモシカのように軽々と崖を駆け上ると、そのままの勢いで大きくジャンプし、あっという間に視界から消えてしまった。

 スタッフブルゾンの蛍光イエローだけが私の目に残像のように残った。




 結局、たった四キロを走破するのに三十分近くかかった。

 息も絶え絶えでスタート地点の駐車場に戻ってきた時には、他の参加者はとっくに着替えまで終えており、全身泥だらけなのは私だけだった。


「はーい、お疲れさま〜!」


 まるで堀りたてのニンジンのようにホースで水をかけられ、泥が流れたところでタオルを持った女性スタッフが駆けてくる。


「着替え、用意してますか?」


 私は無言で頷いた。

 全身の筋肉が悲鳴を上げていて、口を聞くのも億劫だった。

 熱いシャワーを浴びながら、ただ悔しくてしょうがなかった。

 でも。

 彼のように、崖を軽やかに駆け上がってあんな風にジャンプ出来ると、きっと楽しいだろうな。と、少しだけ思った。


「お疲れ様。それと、おめでとうです〜!」


 シャワー室から出ると、さっきの女性スタッフがニコニコしながら待っていた。


「はい?」

「参加者プレゼントの抽選をしました。あなたにはこれが当たりましたよ! ジャン!」


 言いながら、背中に隠しきれてない大きな箱を差し出してきた。


「ヘルメット?」

「そう、アライの新作。もし誰も当たらなかったら私がもらおうって思ってたんですけど。これはとってもいい物ですよ」


 ただで参加したレースで、しかも最下位なのに。


「大丈夫! サイズ的に合いそうな人はあなただけだし。良かったら今度はこれで参加して下さい。女の子は少ないからいつでも大歓迎です!」


 そう言われて押し切られてしまった。



 翌日。

 いつも弁当派の私だが、さすがに今朝は作る気力が湧かなかった。

 筋肉痛でのたうつ姿を友人にからかわれながら、引きずられるように入った大学の食堂で、私はカモシカのようにコースを跳ねていった彼に思いがけず再会することになった。

 数人前に並んでいた彼がトレイを手に振り返った瞬間、私は強烈な既視感デジャヴュに襲われる。


(あれ、どこかで……)


 ヘルメットもゴーグルもしていない素顔の彼は、目を丸くして硬直している私と目が合うと一瞬訝しげな表情を浮かべ、すぐにニコリと微笑んだ。


「ああ、昨日の! 同じ大学だったのか」


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