第4話 しゃべる牛

 黒龍堂の土壁にぽっかりと生まれた、暗い穴。

 角と尻尾が生えた店主、王仙夏に「入れ」と言われても、まったくそんな気にならない。


 ――こわぁぁっ!


 正直にいうと、李珠はそんな怖くて暗い穴になんて、入りたくなかった。

 けれども姉を助けるため、どんな手伝いもすると言った。飯屋の雑用でさえ一度やるとなったら投げ出してはいけないと教えられている。

 あんな頭に角が生えた人との約束を違えたら、どうなるか分からない。


「は、はい……!」


 李珠は目をつぶって、穴に向けて思い切り踏み出すことにした。


「わっ」


 空気が、変わる。

 よろず屋の景色が後ろへ吹き飛び、屋内の淀んだ空気がかき消えた。頬が涼しい夜風を感じる。


「ここって――」


 李珠はきょろきょろする。

 嘘のように大きな広場に出ていた。月明かりが四方の紅い壁と、瑠璃色の瓦を照らしている。

 見たこともない場所だった。広さは、李珠らが暮らしている街や市場が、丸ごと入ってしまいそうなほど。

 驚くのは、これだけの床が石造りであることだ。飯屋の店主は石壁を直すだけで「高い高い」と文句を言っているのに、ここは広場すべてにまっ平らな石をしいている。

 とんでもないお金持ちの住まいだ。


「ようこそ、明禁城へ」


 徐文も遅れて現れる。振り返ると、もう穴は跡形もない。


「め、明禁城……?」


 李珠の考えは当たっていたようだ。

 ここは、中華一のお金持ちの住まい。


「宮殿の中だよ」


 ぎょっとなった。慌てて片足を上げる。


「ふ、踏んじゃったっ」

「へ。なんだって?」

「き、聞いたことあるんですっ! 天子様しか踏んじゃいけない道があるって」


 徐文は月のでる天を見上げ、からからと笑った。


「ははは! それで、この宮全体がそうだというのかいっ」


 頬が熱くなる。


「ち、違うんですか?」

「確かに天子様――皇帝陛下しか通れない道はある。けれどもそれは、ほれあのように――道に龍が刻まれているのさ」


 だいたい、天子様しか入れないのなら宮で働く官吏がいるはずがないだろう。

 平然と指摘されて李珠はもっと恥ずかしくなる。


「で、でも、わたしなんかが入っていいんですか?」

「ふふふ、もちろんダメだ。ただ、王仙夏殿が君に預けたこのかんざしには、不思議な力があってね。人に気付かれなくなるそうだ」


 李珠は驚いた。

 確かに松明を持った兵士が時たまやってくるが、李珠には目もくれようとしない。徐文を見て慌てたように頭を下げるだけだった。

 李珠は頭にさしてもらったかんざしを確かめてみる。小さな玉がついており、数条の飾り紐が垂れている。手触りだけでよい品と分かった。

 徐文がいうには、よろず屋にはこうしたあやかしの品々が眠っており、それを貸し出すこともよろず屋の仕事らしい。


「……王仙夏さまって、何者なんです?」


 生まれ育った街、大辰国の首府『圭城府』。そこからあやかし達の世界に迷い込んだことも謎だが、王仙夏も大きな謎だった。

 徐文は顎に手をあてる。


「うーん、どこまで話してよいかな……人が多い所には自然とあやかしも集まるのだけど」


 中でも、と徐文は続けた。


「あの人は特に力が強い」

「強い……」

「大辰国を滅ぼしてしまえる……かもね」


 ぶるぶる、ときた。


「……なんて顔をしてるんだ」

「だ、だって!」

「信用はできる人だ。道天様にだって誓うが、悪い人ではない。本人がそう見せようとしているより、ずっとよい方だ」


 李珠はあいまいに頷いておいた。

 得心していないのがわかったのだろう、徐文は困ったように眉を下げる。


「そもそも、『あやかし』は『人間』に、たやすく力を貸さない。いっぱい勉強して、修行して、道士になれば別だけど。王仙夏殿ほどのあやかしが君に力を貸すのは――そうとうな割引だよ」


 李珠は王仙夏の角の生えた顔を思い出した。

 あやかしは、怖い。

 その思いは李珠の心にへばりついたままだ。

 徐文は慰めてくれた。


「王仙夏殿が探すといった以上、きっと、お姉さんは大丈夫だよ」


 かんざしを触ると姉を思い出す。あの翡翠のくしを追いかけたから、姉はどこかへいってしまったのだ。

 怖くなってきた時、ふと辺りの気配が変わった。


「喋る牛が出たというのは、この辺りだ。正丑門……なるほど確かに牛が出るにはうってつけだね」


 李珠は息を潜めて待った。夜の宮殿は恐ろしいほど静まり返っている。

 国を統べる天子様がいるはずなのに、空気は冷たく、陰の気に充ち満ちているような気がした。


「静かです……」

「こちらは皇帝陛下の昼の居場所だ。夜は奥、養心宮か後宮にいらっしゃる。ゆえに日が沈めば、こちら側は兵士が守るだけ……おまけにここは使われていない場所で人気がない。広すぎるのも考え物だね」


 やがてむわっとした草の匂いが広がった。

 何かが土を踏みしめる音が近づいてくる。


「牛、だ……!」


 目の前に牛がいた。

 夜が濃縮したかのように黒々として、そのくせ目だけは妙にはっきりとした意思を垂れている。人間の目だ。

 牛にしては口が小さく、何かの間違いでそこに置かれたような、ささやかな唇が魚のように開閉している。

 目が離せなくなった李珠だが、強い違和感は牛の相の中心にあった。鼻だ。牛の頭に沿って縦に引き延ばされているが、明らかに人間の形をした鼻だった。


「こ、これは変わった牛もいたものだなぁ」


 徐文の声も震えてきた。


「じょ、徐文さん……?」

「ち、ちなみに僕は、あやかしへの対処はからっきしだ」

「えぇぇ」


 李珠だって逃げ出したくなった。後ずさりして、転び、尻餅をつく。

 蹄がゆっくりと近寄ってきた。

 牛の頭骨に人間の顔の品を散りばめたような、異様な相だった。心臓が何かに掴まれたようにきゅうぅ、となる。怖くて怖くて、お祭りで水を飲んでいたら、厠に行かなかったことを後悔していただろう。


「や、だ……!」


 牛が目を細め、唇を左右に引き延ばした。笑ったのだ。

 顔を李珠の目の高さにまで下げ、よく見えるようにして、しずしずと巨体が近寄ってくる。

 恐怖が李珠の意識を闇に引きずり込みそうになった時、目の先でばちんと火花が散った。


 ――恐れるな。


 頭に響く声は、あの店主のものだった。

 牛はおそれたように後ずさる。


「で、でも!」


 ――今は、ありのままを見ろ。目をそらすな。


 声は容赦がなかった。


 ――私はその場にいけぬ。行けば、私を恐れて牛は出ぬ。代わりにおぬしが聞け、それが対価だ!


 声はそれきりだった。

 息はまだ荒い。


 ――見ている。守ってやる。


 李珠は、なんとか気を持ち直して、尻餅をついたたままでも、牛に目を戻した。牛は笑ったままの顔で停まっていた。


「な、なな」


 ぶるぶる震える胸の奥。

 声も震えるけれど、なんとか声を絞り出せた。


「なにか用ですかー!」


 牛は口を開いた。

 徐文もぽかんと口を開ける。


「……意外と気軽だな」

「だ、だっ、だって……!」


 他に言えることなんてない。

 人面牛はにいっと笑って、口を開いた。


「そうだそうだ用があるぞ」


 牛は続け、尾を振り、天を見上げた。


「みんなみんな恐れるばかりで用件をきかない。こちらが教えてやろうというのに些事を取り上げて斬りかかるばかり」


 牛は李珠へと歩み寄ってくる。怖いけどぐっと口を押さえて、頑張って耐えた。

 姉を探してもらうために。

 李珠は牛の人間じみた、けれども黒々とした目の中に、不思議な心の動きを見た。喜びと、恐れ。


 ――恐い?


 この牛が、何を恐がるというのだろう。李珠の方こそ恐いのに。

 牛は天に向かって言った。


「この空の中央にある北辰に六星の弓が狙いを定めている。悪である毒である不徳である。夏の片隅に現れた毒虫を使い北辰に毒矢を射んとしている」


 朗々とした声はほとんど一塊の音として、李珠の耳を駆け抜けていった。


「なかでも陰気を司る北斗の七星はその巨大な柄杓の柄を南天に向け夜天に陰気をまき散らしている」


 それだけをほとんど一息に語り、牛は背中を向けた。黒々とした体は夜に溶けるように消えていく。

 胸はまだ早鐘を打っているけれど、李珠はゆっくりと呼吸が楽になっているのを感じた。心の臓を掴んでいた手が緩んでいくかのようだ。


「今のって」


 徐文が李珠を助け起こしてくれる。


「予言、というものであろうかなぁ」

「予言?」


 うん、徐文は頷く。


「僕にはさっぱりだ。王仙夏殿に聞かなければな」


 そう言った時、また壁に穴がぽっかりと開かれた。髪にさした櫛が揺れて、仙夏の声が聞こえてくる。


 ――よくやった。戻ってまいれ。


 二回目になっても、この穴にはぜんぜん慣れない。


「これが、道術というものだよ。いずれ慣れるよ」


 はぁ、と李珠はため息とも返事ともつかぬ声を返してしまった。

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