〈 短 編 集 〉

武者小路さん家にお呼ばれ 前編

 これは、ナツが入学後間もない頃(6月上旬)のお話です


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「スッゲー! 見てアンズ、こいだよ、鯉がいるよ! アタシ、鯉なんて公園とか学校とかでしか見たことないよ!」


 ここは武者小路さんの庭にある大きな池のほとり。

 アタシは今、鯉の群れを間近に見て、とても興奮しているところだ。


 以前、武者小路さんにお呼ばれした時は、なぜだか裏口から入るように言われたんで、池を見るのは今日が初めてなんだよね。


 あれ? 前回はなんで裏口からコッソリ入らされたんだっけ?

 まあいいや。


 とにかく、そんな興奮状態のアタシの隣を歩くアンズが、ため息混じりに口を開いた。

「もう、ナツったら…… あんまり興奮してると、池に落ちちゃうよ?」


 アンズの言葉を聞いた、アタシたちの少し前を歩いていた武者小路さんが笑顔で振り向いた。

「大丈夫ですよ。お風呂を準備していますし、着替えもちゃんと用意しますから」


 うーむ…… どうやら武者小路さんの中では、アタシが何かやらかすのは確定事項になっているようだ。



 今日は、高校に入学して初めての中間試験を目前に控えた日曜日。

 ウチの高校では、試験が始まる1週間前から、強制的にすべての部活動がお休みになるそうだ。


 そんな訳で、せっかくオーボエが楽しくなってきたアタシは、なんだか水をさされたような気分になっているのだ。


 楽しいことを我慢して、一体どうやって勉強に身を入れよと言うんだ?

 まあ、オーボエが楽しくても楽しくなくても、たぶんは勉強しないと思うんだけど……


 ともかく、そんな勉強に集中できないアタシを気遣きづかって、武者小路さんが『それならウチで勉強会をしますか?』と誘ってくれたのだ。


 なんでも武者小路さんのにはレッスンルームというものがあるそうで、楽器の練習が自宅で出来るんだって。

 それなら勉強の合間に楽器の練習が出来ると大喜びしたアタシは、大喜びで武者小路さんにお邪魔することにした。


 そんでもって、その話を聞きつけたアンズが、『ナツ一人だけだと、心配だから』と言って、付いてきてくれることになったのだ。


 そういう訳で、只今アタシは、武者小路さんの庭にある池の前で絶賛興奮中なのだ。


 興奮状態のアタシの手が、アンズと武者小路さんにより引っ張られた。

 まだまだ鯉と戯れていたかったアタシであったが、二人に両手をひかれて玄関まで連れて行かれた。


「お連れしました」

 と言いながら、武者小路さんが玄関を開けると、そこにはなんと着物を着た女の人が正座して待ち構えているではないか!


 きっとこの人が、武者小路さんのお母さんなんだろう。


 お母さんを見たアンズは、ペコリと頭を下げる。

「本日はテスト期間にも関わらず、大勢でお邪魔してしまい申し訳ありません」

 あっ、なんかアンズがとても立派なことを、おっしゃりなさっているではないか!


 これってアタシも、何か言わないといけないのか?

 よ、よし、ここはアタシもアンズを真似て、礼儀正しく挨拶しなければ!


「チ、チワーッス! アタシ…… いえ、ジブン、武者小路さんの友だちやらせてもらってる、ナツって言うっス。あのー、本日は、お日柄ひがらもカラッカラに晴れてっスけど…… いや、そうじゃなくて、そのー、お足元がお悪くておいでになる中、えっとー、と、とにかく、ヨロシクオナシャッス!!!」

 最後は勢いで押し切った。


 そんなアタシの挨拶を聞いた武者小路さんは、とても優しく、そう、理由はよくわからないがとにかく、この上ない優しい笑顔を私に向けた。

「ナツさん、そんなに緊張しなくてもいいんですよ。今の挨拶で、ナツさんの気持ちはとてもよく伝わりましたから」


 武者小路さんのお母さんは、『え、何が伝わったの?』という顔をしているが、まあ、とりあえずここは合格点をいただいたということにしておこう。


「……………………」

「お母さま? どうかなさったのですか?」

 ん? オカーサマが何故か固まっているみたいだけど……


「え? あ、いえ、何も。そ、そうですわ、お二人とも学校では篤子と仲良くしていただいているそうで、誠にありがとうございます」

 そう言うと、お母さんは床に両手をついて、頭を下げようとするが——


「い、いえ! とんでもありません! こ、こちらこそ、篤子さんにはとても良くしていただいてます!」

 お母さんの行動に待ったをかけるように、慌てた様子でアンズが言葉を放った。


 いつも冷静沈着なアンズがこんなに動揺するなんて、アタシはとてもレアな場面に遭遇しちゃったみたいだ。


「あ、あの——」

 アンズはそう言うと、手に持っていた紙袋を震える手で差し出した。


「——これ、つまらないものですが、よろしければ召し上がって下さい。こちらが相田さんからで、こちらが私からです」


 武者小路さんがスッと一歩前に出て、依然としてフローズン状態のお母さんに代わり、紙袋を受け取り、

「まあ、ありがとうございます。ねえ、お母さま。あまりかしこまった挨拶をされては、かえってお二人にお気を使わせてしまいますよ?」

 と、フローズンオカーサマを溶かしにかかってくれた。


「そうですね、わたくしとしたことが、オホホ」

 オカーサマは少し回復したようだ。

 ちなみに、『オホホ』と笑う人間を見たのは、生まれて初めてかも知れない。


「それにしても——」

 武者小路さんが話を続ける。

「——どうしてアンズさんが、ナツさんのお菓子も持ってらっしゃるの?」


「あの、それは……」

 アンズは言葉に詰まってしまう。すると、武者小路さんが何かを察したようで、


「ああ、なるほど。きっとナツさんがお持ちになっていたら、ここへ来るまでに、自分で食べてしまわれるからですわね」

 と、自己解決してしまった。


「もー、武者小路さんってば、話し方は丁寧なのに、言ってる内容はヒドいよね。でもまあ、その通りなんだけどね、エヘヘ」


「ちょっと! ナツったら、失礼だよ」


「いいんですよ、アンズさん。私はお母様に、自然な姿のナツさんを見ていただきたいのですから」

 という武者小路さんに対し、アンズは、

「段階的に手順を踏んで一歩一歩着実に、日々是精進ひびこれしょうじんみたいな感じで知ってもらった方が刺激が少ないと思うんだけど…… いえ、何でも……」

 とか何とか、よくわからないことを言ったのだが……

 最後の方はもう声が小さすぎて、何を言ってるのか聞き取れなかった。



「あ、申し訳ありません——」

 突然、ハッとした表情を浮かべた武者小路さん。

「——私ったら、ナツさんのお話が楽しいあまり、お二人をずっと立ちっぱなしにさせてしまいましたね。それでは私の部屋へ行きましょうか」

 と、アタシたち3人で、自分の部屋まで行こうとしたのだが——


「お待ちになって! 」

 オカーサマが大きな声を上げた。

 何だろう? ちょっとはしたないザマスよ?


わたくしが篤子の部屋までご案内致します。いえ、誰がなんと言っても、ご案内致しますので」

 と言うや否や、アタシたちに先立って、廊下の奥へと歩いて行った。


「ごめんね、あっちゃん……」

 なぜだかアンズが、小声で謝罪の言葉を口にする。


「いえ、こちらこそ。ウチの母はああ見えて過保護ですの」

 そう言って苦笑いする武者小路さん。


「そんなことないよ。初めてナツを見た一般的な成人が、ナツの言動に危機感を抱くのは、ごく自然な反応だと思うよ」

 アンズは真剣な表情で応えた。


 あれ? ひょっとしてアタシ、監視対象なのか?

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