午前2時の雨

 悪夢で目が覚めた。

 時計を見ると午前1時50分。変な時間に起きてしまった。


 手元のスマホからはループ再生にしていたyoutubeの音楽リストが、控えめな音量でなり続けていた。ほとんどが失恋バラードばかりのリストだ。寝覚めが悪い今の気分に、嫌にマッチしていて余計に心が痛む。大きな切り傷を湯船に漬けたときのような、鈍く染み込むような痛みだった。


 夢の中で僕には思い人がいた。紺色の、サテンのようなワンピースを纏ったその女の子の後ろ姿を見つけて声をかけようとする。その瞬間に、その子のお腹がほんの少し膨らんでいるのが目に入った。


 妊娠したんだ。


 そう思った僕は、同時に自分の失恋を悟っていた。考えれば変な話だ、好きな人が結婚しているかくらいは知ってて当然なのに、夢はどうにも辻褄が合わないものらしい。他に思いを寄せる男がいた事、そして結ばれたこと、新しい命を宿したことの3つの衝撃的事実を一度に食らっていた。


 それから場面は飛んで、その子がお腹を押さえて突如倒れる。早剥だ、と何故か僕は確信している。そしてその場で生まれ始めてしまった子どもを、何とか助けるために自分が奔走しようとするところで目が覚めた。


 まったく、産婦人科医とはいえ、夢の中まで仕事をする必要はないのだが。ましてやそんな心を抉るような夢、まったくお呼びではない。明日は朝から丸々24時間の当直だと言うのに、変に目が冴えてしまってしばらく眠れそうにない。もぞもぞと布団の中で寝返りを打った。


 そういえば、さっきの夢に出てきた女の人は、どことなくアイツに似ていたかも知れない。4回生から付き合い始めて、研修医が終わる少し前に別れた元カノの顔に。別に嫌いになったわけではなかったし、結婚もお互い本気で考えていたけれど、進路の関係でどうしても一緒にいられなくなった。二人で一緒にいる選択肢も十分あったけれど、結局僕たちは別々に生きることを選んだ。今でも納得して選んだことだと思ってる。


 あれ以来連絡もとっていない。結婚したのか、子どもが出来たのか、それすら知らないままだ。ただ一度だけ、赴任先の病院でも優秀な医師として頑張っているという話を人づてに聞いたことがあった。


 風の便りという言葉もあるし、もしかしたらあの夢は、人生を共にする誰かと出会って家族が増えていく、そんな幸せを手にしたことを僕に教えてくれたのかも知れない。そう思うことにしたら、少しだけ息苦しさがましになった気がした。頼むから早剥なんてことにはならず、満期産で無事に生まれてくれたまえ。産婦人科としてはそれだけを願うよ。


 もともと子どもは好きな性分だ。結婚とか父親になるとか、当たり前のように自分もそういう人生を過ごすんだと思っていた。自分にはそんな『普通』の幸せとか来ないんだろうと早々に諦めたのは、さて、高校生だったか中学生だったか。


 だからだったんだろうな。僕が産婦人科医になろうとしたのは、多分学問的な興味とかすごい先生に憧れて、とかよりも、せめて医師として子を産み育てる輪廻に関わりたかっただけなのだ。


 英語圏では生まれた赤ん坊に"welcome"と声をかける風習がある、というのを昔聞いたことがある。親に望まれて、家族として受け入れられる。子どもにとって当たり前の幸せを社会の一員として、医師として関わっていたい。つまるところ、それくらいの自分本位な動機なのだ。


 外は止まない雨の音がずっと続いている。秋の訪れのせいだろうか、今夜は少し冷えるみたいだ。


 医師になろうと志した頃は、僕が治療をして患者さんの命を助けるんだ、と意気込んでいたものだった。もちろんその気持の強さは今もまったく変わらない。でもここ最近は、医療というのは祈りに似ていると思うようになった。もちろん出来うる限り最高の医療を提供するけれど、それでも亡くなる人はいるし、どんなに手を尽くしても難しいと思われた人が奇跡的に回復することもある。それは医師の力の及ばぬ世界なのだと痛感することが多くなった。


 だからどんな手術も、どんな薬も、突き詰めたらそれは祈りと同じなのではないか。そんなことを少しだけ感じるようになった。そして祈りだからこそ、僕は一層まっすぐに向き合いたかった。


 こんな時間に目が覚めたせいで、余計なことを考えてしまった。昔は毎日のように悩んでいたこんなあれこれだったけれど、今ではあまり迷わずに日々を過ごせるようになってきた。それでも時折振り返ると、これで正しかったのかと足元がぐらつく。


 明日も当直だ、さすがにそろそろ寝たほうがいい。開きっぱなしのyoutubeを閉じようとして、ふと手を止める。


 寝る前に、あの歌だけを一度だけ聞こうか。


 懐かしくて優しい音色が無性に恋しくなった。

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