2-11.寝ていい人はいない

「…悪いが、こっちも急いでるんでな」


 そう言うと、ガスマスク男は肩越しに令へ、先程の球体を複数投げつけた。

「うぇっ…げぇっ」

 令はカエルが潰れたような声をあげながらも、ひょいひょいと軽快にかわし、忍者のように部屋の隅の天井へと逃れる。

「…お猿さんみたいに身軽なお嬢さんだな」

「あぁん?!」


「…でも、もう足の踏み場がないんじゃないか?」

 男の投げた球体は床や壁で弾け、ネバネバとした液体で部屋中を汚していた。

「んなもん、ネバネバで歩けへんのはお前も一緒やろがいっ!」

 令は男に向かって、靴を蹴り飛ばすも、片手で払われてしまう。

「…だから、対策もなく来るわけないって言ったろ?」

 喰ってかかる令に、ガスマスクは呆れるようにため息をつくと、ふところから瓶を取り出し、数滴を床へ垂らした。すると、その半径数十センチの範囲のネバネバは、すぐに固まってしまった。

 彼は床に貼り付いた靴を躊躇いなく脱ぐと、再び足場を作りながら、真っ直ぐベッドへと向かう。

「案外、すんなり済みそうだな」

 勢いよく布団を剥ぐが、そこには深夜アニメのキャラクターが描かれた抱き枕が二つ仲良く並んでいた。

「あーぁ、それが欲しかったの?

 でも、エビちゃんのだから、勝手に持って行かれると困っちゃうんだよなぁ」

 ニヤニヤと令が意地の悪い微笑みを浮かべる。

「……っ、“光に誘われた羽虫”どもはどこだ?!」

「さぁね?」

 抱き枕を投げ捨て、怒りをあらわにする男だったが、すぐに我に返り、

「…だが、こちらの有利は覆らんぞ」

 と、廊下に通じる扉へと向かう。


「まぁ、他の部屋を探そうとするよね」

 令も黙って通す訳はなく、彼へと飛びかかる。

 ネバネバだった床には、先程よりも足場が出来ていた。男の固めた部分がいくつかと、エビちゃんの抱き枕、そして、四つん這いの…。

「先輩、ゴメンっ!」

「…イッテッ!!」


 その少ない足場を毬のように、跳ね回りながら、令は男に猛撃をしかけるが、

「ハンドボールと、ボクシング。……いや、キックボクシングの経験者か」

 不安定な足場からでは、打撃に体重が乗らず、すべて腕で軽く防がれてしまう。そして、

「っ!げっ!脚を掴むのは、反則やろっっ!!」

 抗議しようとするも、床に勢いよく叩きつけられた。

「……試合終了だな」

 液体にまみれ床に倒れ伏した彼女を横目で見ると、男は再び廊下へ向かった。

 しかし、

「いったぁ…はぁぁっ。ベッタベタなんやけど」

 令は大したダメージも無さそうな声音で、立ち上がる。

「さぁ、延長戦と行こか…」


「…全身が貼り付く前に立ったのか。

 だが、もう足元は固まっているだろう」

 彼女の強靭さに少し驚いた様子を見せたものの、意に介さず背を向け、ドアノブへと手を伸ばす。が、扉に備え付けの鏡を見て、一瞬動きが止まった。


「ゴメン、先輩。修理代はお願いします」

 令は山野に小さい声で謝った。

「え?」

「敷金と先輩のボーナスさよならアターーックっっっ!!!」

 彼女は大声を出して、床板を踏み割った。突然の大技に男は驚き、対応出来ずに割れ目へと足を滑らせる。紫の粘体は、その割れ目目がけて、流れ込んでいく。

「はぁい♡ガスマスクさん?

 もしかして、こういうときの対策もバッチリだった?」

 令は満面の笑みで、穴に足を取られた男へ近づくと、

「…おい、お姉さん。ちょっと待って…この体制で蹴られると、顔面に…っ!!」

 飛びきりのミドルキックをかました。避けられるわけもなく、彼女の美脚を顔の正面で受け止めた男はそのままベタベタの床へと倒れこんだ。


「あいたぁー…。

 足の裏の皮とれたんちゃう?コレ!」

 残心を決めながらも、にっこりピースをする後輩に、山野は頬を緩めて目を細める。まるで晴れた夜空を眺めるように。


 ******************************


「…ったく、相変わらず、口も手段も悪い…。芳生くんには見せられないな」

 口振りとは反対に嬉しそうに笑顔を浮かべながら、山野は立ち上がった。

「『~やろがい』なんて、関西人は言わねえだろ」

「えぇー?!使ってる子いましたよー!

 あれ、あの子はどこ出身やったかな?」

「使うとしても、京阪神から少し離れた…」

「ぶぶーっ!!

 それは、全国の『やろがい』民を遠回しにディスった発言ですぅ!イエローカードォーッ」

「ハハッ、なんだよ、それ。……って、おい!あいつの縄ほどけてるぞ!!」

 どうやったのか、縄を抜けたガスマスク男は、ふらふらも扉の方へと歩いていく。まだ頭がぼんやりしているのか、何だか足どりおぼつかない。

 再び、捕えようと令が手を伸ばした瞬間。

「ぎゃあああああ!!!!!!」

 と悲鳴をあげるや否や、きびすを返し、令に助けを求めた。

「アイツが来た!!!!!!助けてくれええええええ!!!!!!」

 突然の男の豹変に、思わずフリーズしてしまった令。彼女にしがみつきかけた瞬間、男は煙のように。ガスマスクを含む衣類を残して。

 それは、まさに、

「……この前の追手みたいだな…」

 山野は深いため息をついた。


 日はもうかなり傾いている。青空はまだ明るくとも、少し影が長く伸び始めていた。

 遠くから、躊躇うように鳴くカエルの声も聴こえ始めた。少し雨でも降るのだろうか。

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