5話 勉強を教えてもらった

 どこか懐かしいような黒鉛の匂いがする。

 目につくのは歴代の先輩方の消えない落書き。マジックが滲んだものや切り傷で器用に字を刻まれたテーブル。そんな過去の遺物が残っているのはここが机が床に固定されている化学室である故だろう。

 

 それらから視線を外すと誰もいない部室で俺は鉛筆を走らせる。


 今日は木曜日だ。つまり週二回の貴重な部活がある日なのだが、他の二人は所用があるとかで帰ってしまった。

 元々規則が緩い部活だ。誰もいないことだし俺も帰ろうかと思った。しかしその安易な考えをギリギリで踏み止まらせるものが存在したのだ。

 

 全学生が一度は嫌ったであろう教師からのプレゼント、課題だ。

 家に帰ってしまうと俺はどうしてもだらけてしまう。

 だが学校で片付けてしまえれば帰宅後はパラダイス。誘惑するものは一切存在しないし制服を着て学校でやっている時点で身が入る。


 この流れも毎度のことだ。

 俺は一人で化学室を開放すると部活動を始めた。

 ああ、この部に所属していてよかった。

 

 自習室は人の出入りも激しいし他人の視線が気になって集中できない。

 だがここは放課後特有の哀愁すら漂っている。

 

 後、自習室では相談するにしても廊下に出なければならない。だがここではそんなかたっくるしい規則はない。

 だから俺も話しながら課題をやったりするし、答えが発表されていない問題とかを一緒に解きあったり、聞いてみたりする。うちの部員は無駄に出来る奴が多い。その頻度は必然的に多くなる。

 

 だが今日は聞ける人がいない。

 そして恐れていた事態が起きた。


「……これ本当に解けるのか?」


 さっきからプリントの問題をゴリゴリと計算しているのだが小数点以下になっても割り切れない。このままだと無理やり四捨五入でもしない限り終わらないだろう。

 やり直した計算の答えも割り切れない数で、さらにたちが悪いのがその答えが全部違うことだ。


 完全に煮詰まってしまった俺は鉛筆を置いて天井を眺める。


 だけどこの調子だとメンタルが保たない。


「家に帰るか……?」


 時間をおけば解けるようになることはある。

 ただ、ここで帰ってしまうとどうにも負けたような気がしてならない。嫌いな野菜があったら先に食べるように俺は嫌なことは早めに終わらせるタイプでありたいのだ。

 仕方ない。もう一回やってみるか。

 しかし手を動かしたがその動きはすぐに中断させられることになった。


「どうかされたんですか?」


 顔だけ動かして声のした方を見るとそこには如月がいた。

 こんなところを通るのは物好きくらいしかいないと思っていたのだがその考えは間違っていたらしい。


「日直か」


 如月の手に抱えられた日誌がそれを物語っていた。 


「はい。丁寧にやっていたら思ったより時間がかかってしまって」

 

 それはご苦労様。だけど今、俺はこの問題を解かなければならない。

 だから淡白に返させてもらう。


「そうだったのか」


 再び俺はプリントに目を落とすと手を動かす。

 しかし如月は立ち去ろうとせず、逆に近づいてきた。


「あ、その問題間違ってますよ」

「知ってる。そこに書いてあるのは四捨五入して無理やり出した値だ」


 これは解けなかった時の応急処置。最悪やった痕跡だけは残さなくてはならない。その人がどれだけ取り組んだかはその人がアピールしないとわからないのだから。白紙で出して先生からの心象を悪くされても困る。


「いえ、そういうことではなくてですね。その問題自体が間違っているんです」


 ——俺はペンを持つ手を止めた。


「……それ本当か?」


 顔を上げるといつの間に接近したのか如月のその整った容姿がすぐ近くにある。


「本当です。ここの1の文字ですが本当は7です。そのプリントは随分前のものでして印字が薄れているんですよ。私が渡された時は最初から書き足した後があったのですがそれはまだみたいですね」


 俺は一気に脱力する。


 如月が来てくれてよかった。彼女がたまたま日直でなければ俺は解けもしない問題をひたすら解き続けて抱える必要のないストレスを溜めていたに違いない。この数奇な巡り合わせに感謝。


「ところで他の皆さんはどうしたんですか?

「ああ、全員帰ったよ。それにうちの部活はいつもこんな感じだ。みんな好き勝手やって自由に帰ってる」

「そうなんですか。でも集中できそうでいい環境ですね」


 それから救いの天使は俺のノートに目を落とすと口籠る。


「ところでその、言いにくいのですが」


 非常に申し訳なさそうに如月が言うが俺の心に変化はなかった。

 何せ今の俺は気分がいい。長距離走の件で都合でも悪くなったのかは知らないが何を言われてもおおらかな心で検討しよう。

 曜日変更か? それとも時間変更か? 


「その問題の解き方、違いますよ?」


 泣きそうになった。


「そ、そうか……ははっ、頑張ったんだけどな……」

「お、落ち込まないでください。これだけ頑張ったんですからきっといいことがありますよ」

「落ち込んでなんかない……少し疲れただけだ……」


 如月が励ましてくれるが正直辛い。

 しばらくわたわたしていた如月だったが何か思いついたのかポンと手を叩いた。

 

「良ければヒントを出しましょうか?」


 願ってもないお願いだ。問題が直っても解ける気がしない。俺は力なく頷く。


「それでは僭越ながら。ペンとノートお借りしてもいいですか」


 当然構いはしない。さっきまで使っていた筆記具を差し出す。

 すると受け取った如月が少し驚いたような声を出した。


「鉛筆をお使いなんですか?」


 高校生にもなって鉛筆を使う人はほとんどいない。

 俺とてそれは同じだ。 


「さっきシャーペンの芯を切らしたんだ。その鉛筆は俺のじゃない。ここの備品だ」


 俺は教卓を見る。上下に移動する黒板の近くのそこは引き出しがあり、ハサミや軸の太い油性ペン、蛍光マーカーに鉛筆削りなどの備品——あるいは誰のものかもわからない忘れ物が雑に散らばっている。鍵もかかっていないので俺が勝手に使ったところで誰もわからないのだ。ちなみにその中にはシャープペンシルもあったが綺麗に芯は抜かれていた。


「私のでよければ少し分けましょうか」

「いや、いいよ。家にまだストックがあるから。それにたまには昔のものを使うのも悪くない」

「そうですか」


 俺は手渡した鉛筆の感触を思い出す。

 握るのは小学生以来だろうか。どれくらいかはわからないがこの書き心地に違和感を感じるくらいには期間が空いてしまった。

 小学生の頃は全てが新鮮だった。記憶補正もあるかもしれないが毎日が輝いていたような気がする。

 俺が小学生時代を思い起こしているように、いつかこの高校生活もこうやって省みる日がくるのだろう。

 ……その時俺はこの生活が輝いていたと思えるだろうか。


「はい、完成です」


 如月の声で俺は現実に引き戻される。

 見ると汚い字が並んでいるノートに明らかに筆跡の違う丁寧な図と式が書き加えられていた。


「解き方はこれと同じです。後は頑張ってください。それでは」


 そのまま部屋を出て行こうとする背中に俺は声をかけた。


「ありがとな」


 こちらを見た如月は軽く会釈すると化学室を後にした。

 

 さて、どんなものかな。

 ノートに書かれたヒントを見てみる。どうやら俺は条件を間違えていたらしい。もっと注意深くやらないとな。


 その後俺が書いた字は心なしか丁寧になっていた。

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