第25話   『ライモンイチロウ』

 屋上に上がり、夜風に吹かれながら、俺は振り向いた。


 誰もいない。


 おまけに、めちゃくちゃガス臭い! ガスの臭いが、外まで漏れているのか。これは、かなりの量だぞ……。


 この施設はとても巨大で、ヘリポートに軍事用のヘリがとどまっていても、充分すぎる広さがあった。厳つく、迷彩柄で、でかいヘリは、大きなプロペラを回し続けて、その風圧は少し離れている俺の服を、バタバタと鳴らすほどだった。


 ヘリは扉を全開に開けており、中に乗っている人たちも、迷彩柄の軍服を着ているのが見えた。その中で場違いなほど華やかな、バラみたいな外人美女がいて、ヘリからハイヒールを鳴らして降りてきた。


「大冒険だったわね、雷門博士。このまま逃げれば、ラボに帰れるわよ」


「どちら様ですか」


「あら、有沢の母よ。妙なこと聞くのね。それともすっぴんのあたしと、今のあたしとじゃ、別の女に見えるのかしら」


 ああ! あのマネキン美女なのか。化粧したら、ハリウッド女優みたいな、迫力ある美女になったぞ。化粧の力ってすごいんだな。


「ヘリが来るまで時間があったから、お化粧してたの」


「有沢のお母さん、彼女たちがもうすぐ来ますから、待ってやってください」


「いいえ、ゲームはここで終わりよ。こんなガス臭くなった暴漢だらけの施設で、まだ何かするつもりなの?」


 予想外の返事に、俺は「ええ?」と語尾を跳ね上げた。


「詳しくは言えないんだけど、上の方から指示されてるのよ、もしも施設が襲撃に遭ったら、天才たちを最優先に保護して逃し、残りのスタッフたちは捨て置けとね」


 有沢のお母さんが、真っ赤な口紅を塗った分厚い唇を歪めた。


「もしかしたら、あたしが言ってる事は、まだゲームの中でのお話かもしれないわよ? この緊急事態も、あたしが言っていることも、全てが、あなたに用意してあげた、ただのゲーム。何の気兼ねもなくヘリから脱出するまでが、あなたに用意されたゲームかもしれないわよ。だから今あなたが逃げても、マイドーターは死なないし、あなたのお友達も無事よ。今頃、あなたをうまく騙せたことに喜んで、打ち上げの計画でも立ててるんじゃないの?」


「でも、この臭い、本物だ……本当にガス漏れが起きています! だから、ヘリの中にいるその軍人っぽい人たちを、今からでもスタッフ達の避難に使ってください! もしもこれがゲームなら、軍人っぽい人たちもスタッフだろうから、スタッフがスタッフを助けたって、あなたの損にはならない。もしもこれが、本物のガス漏れの事故であったなら、そして本当に施設が襲撃に遭っていて、そこから僕を救うために、あなたがヘリを用意したのならば、その人たちは本当に軍人ということになり、今なら少しでもスタッフ達を救出できると思うんです」


「たとえ襲撃が本当だとしても、あたしの周りにいる男たちが本物の軍人とは限らないわよ?」


「本物の軍人がいないと、そんなでかい軍事用ヘリを動かすことはできないと思います。つまり、必ず一人は運転役の軍人がいるはずでしょ」


「……」


 有沢のお母さんは、否、この誰よりも正体不明で、その本心すら誰にも見透かせない謎の美女は、困ったように腕を組み、大きな瞳を一回転させた。


「……置いてゆくしかないわよ。あなたは大事な預かり人だもの。この世界になくてはならない逸材よ」


「どこまでがゲームなんだ」


「雷門博士、あなたはラボに戻りさえすれば幸せなんでしょ? もそうなのよ。あなたはこの非日常を楽しみ、脳がリラックスできたはずよ。これまで以上に、成果が上がると思うわ。あたしもね、自分のビジネスが上手くいきさえすれば、それで幸せなの。自分の名誉と地位と、この体を維持するだけの莫大な資金が稼げるのならば、それだけで充分に幸せなの」


 やっぱり整形してたのか。そのポケットの代わりになりそうなぐらい巨大な胸だって、形が良すぎてボールにしか見えないし……おいおい、谷間から拳銃を取り出すなよ。俺は首元を撃たれたんだから、銃なんて見たくもないんだよ。


「あなたとあたしはそっくりね? さあ、これは全部ゲームか、悪い夢だと思って、ヘリで避難してちょうだい。あなたは何も見なかった、私に脅されて逃げるしかなかった、何もかもあたしのせいにすれば、あなたは一生、自責の念から逃れられるわ。いいのよ、甘えても。だってあなたは、世界中の誰よりも大事にされるべき存在なんだから」


 と、言いつつ、銃口は俺に向いている。俺は両手を挙げるべきか迷ったが、なんとか自分を奮い立たせて、普通の姿勢を保った。


「戻らないと、あいつが」


「長くは停められないわ。乗ってちょうだい」


「いやだ!」


「子供じゃないんだから」


「いやだ! あんたの娘だろ、心配じゃないのか!」


「血のつながった娘じゃないわ。あなたほど価値のある人間じゃないし」


「ちがう。価値とか、そんなたいそうなもんで俺を守るな」


「じゃあ、一生研究ができない体になってしまってもいいの? あなたの死体に価値を見いだす人なんて、誰もいないのよ!」


 ヒステリックな声を上げる、謎の美女。


 そうだな……こんな、風呂もしょっちゅう入り忘れるような、メタボアラフォーおじさんに、才能以外で価値を見出すヤツなんて、いないかもしれない。


 だがな! この見ず知らずのババアに知った風な口を効かれるのは、癪に触るな!


「あんたは俺の身辺調査を完璧に遂行したつもりなんだろうが、一つだけ、大失態を犯しているぞ」


「失態?」


「俺はなぁ、確かに有沢姫乃というキャラクターが出てくるゲームに、ドはまりしていたよ。あんたがどこからそんな情報を得たのか知らないが、俺は現実世界で有沢姫乃に会えたことが、とても嬉しかったよ!」


 軍事用ヘリのプロペラに、負けないようにしゃべっているから、喉がガラガラだ。


「どうして嬉しかったか、わかるか」


 謎の美女は、銃口を突き付けたまま、黙っている。


「あのゲームにはなぁ、クソみたいな性格した主人公が出てくるんだよ。それでも、プレイヤーの俺の選択次第で、多少はマシな言動を取るようになるんだ。たった一つの、エンディングを除いてな」


「……」


「六つあるうちの一つだけな、主人公が敵陣のど真ん中に、有沢を置いたまま船で逃げるってエンディングがあるんだよ。あいつは、有沢を置いていったんだ……さんざん世話になった相棒の有沢を、俺の分身の主人公は、置いていったんだよ!」


「それがどうしたのよ。子供の時の思い出話で、時間を稼がないでちょうだい」


「エンディングを全部見たいからって、当時の俺は最後にそのエンディングを見てしまって、後悔したよ。明日は絶対にゲームをリセットして、すぐにまた有沢と一緒に脱出するエンディングを迎えなきゃって、思ったさ。夜も遅かったし、学校もあったからな、明日じゃなきゃゲームがやり直せなかったんだ」


 俺は鼻の頭がツーンと痛み、涙目になっていた。


「そして学校から帰ってきたあの日、親がテレビとゲーム機を売ってしまっていた!」


「ゲームのエンディングなら、ネットで検索すれば動画が出てくるでしょ」


「有沢は戻らない。が見捨てた有沢は、もう戻ってこないんだ!」


 俺は、今の俺を形作ってきた根底を、全て吐き出した心地だった。全然すっきりしない、良い思い出でも何でもない、あれからずっと俺の心は、置き去りにした有沢に捕らわれたままだった。


「これが、あんたが犯した最大の失態だ。俺はあのゲームが好きだったわけじゃない、トラウマなんだよ! 初恋の女の子を、全部のエンディングが見たいからって、身勝手な理由で、敵陣の中に置き去りにして船で逃げたんだよ! 俺の分身は! ライトニングボルト・ジュニアは、いいや、俺と同じ名前で、有沢に呼ばれていた『ライモンイチロウ』は! 女の子を置き去りにして逃げるクソ野郎だったんだよ!!」


 謎の美女は、ものすごい形相で舌打ちした。俺の足元に実弾が、甲高い音を立ててかすった。


 本音を言えば、びびったし、一回後ろに転びかけたが、俺は勢い任せに、謎の美女に背を向け、もと来た道を猛ダッシュした。


「俺は有沢を迎えにゆくぞー! ゲームの中の女の子も救えなかったのに、現実世界の女の子まで見捨ててたまるか! 全部あんたのせいになんて、できるもんか! 俺は俺を一生許せなくなるに決まってる!」


 そんな捨て台詞を吐きながら、決死の思いで階段を下っていった。


 うおお、ガス臭え!!




「有沢! みんな!」


 扉を開けたら、吐き気を催すガス臭いスタジオが。


 調理場の隅では、片頬に青あざを作って座りこんでいる有沢と、おろおろしている佐々木さんが、ロープで柱に縛られていた。


「エルジェイ……どうして……」


「顔、殴られたのか。待ってろよ、今ロープを切ってやるからな」


「エプロンのポケットに、カッターが入ってるよ」


「用意がいいな……」


 俺はフリルで手がつっこみにくい有沢のエプロンのポケットから、デコり過ぎて刃がなかなか出てこないカッターを取り出して、有沢のロープを切った。


 そのとたん、腕を引っ張られた。


「逃げてって言ったじゃないか。きみは捕まっちゃダメなんだよ! もう二度と雷の研究ができなくなってもいいの!?」


「それは、本音を言えば、嫌なんだけど……」


 俺は、なんと言い返せばいいやら、考えながら、佐々木さんのロープも切った。


「あのなぁ、俺の大事なものは、一個だけじゃないんだよ」


 後輩の元登山部肩脱臼野郎の武田と、ラーメン屋のおやっさん夫婦も助けた。スタジオでカメラをまわしていたスタッフさん達も縛られていたから、どんどんと助けていった。


 あの二人組のピエロどもはいなかったが、まぁいいか。


「ヘリが来てるから、屋上にのぼるんだ」


「エルジェイ、下の階には降りないほうがいいよ。お母さんは敵側の人間を撹乱させるために、きみを船で逃すっていう偽の情報を流してたんだ。今頃はダミーで呼ばれた船の方へ、敵側の人間も流れてるよ。つまり、下の階に奴らが多くいるかもしれないんだ」


「だが、施設のスタッフは、この階の人たちだけじゃないんだろう? 助けに行かなくて良いんだろうか」


「僕らは、ちょっと油断しちゃったけど、ここで働いてるスタッフたちは、息を殺してこそこそと行動するのが大得意なんだ。今頃は、敵側の目をかいくぐって、みんな船のほうを目指してると思うよ。彼らを信じて、僕たちはヘリポートへ行こう」


 そしてタイミング悪く、扉の一枚が拳で叩かれた。


「ヘーイ! なにしゃべってるんだボーイ! 静かにしろーイ!」


 黒服を着た、ガタイの良すぎるムッキムキの外人おじさんが、扉を蹴破って入ってきた。


 しかも、俺が有沢達を救出するために入ってきた扉から。俺達は今、その扉からヘリポートへ向かおうと思ってたのに……。


「えっと……」


 胸ぐらを掴まれて、持ち上げられた俺は、どうにもできなくて、固まっていた。


 視界の端で、有沢が何か手に持っているのが見える。ソフトボールを投げるような姿勢で、俺に向かって、


「えい!」


 小さなボールを投げてきた。


 途端に、ボールからブシュウウウッと愉快な音が。あっという間に、周りが煙幕で見えなくなった。


 って、ちょ、待て! 俺も前が見えない! 有沢、これじゃ俺達まで逃げられないぞ!?


「なにやってるの! 逃げるよ」


 俺の腕を掴んで、走りだす。前が見えなくても、わかる……この小さくて、力強く引っ張っていってくれる手は――


「有沢」


「助けに来てくれてありがと!」


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