メディウムのステルラ
江留賀 実男
第1話 イース
「はぁ、はぁ。リタったら……ち、ちょっと待ってよぉ」
ブロンドの髪をふたつに結んだおさげ髪の少女は息を切らしながら全力で走っていた。が……目の前を快活に走って行く短い赤髪の少女の背中を拝むばかりで、その差は一向に縮まらなかった。
「ほら! もっと速く走らないと。二人でここに来るのも、もう当分無いんだよー?」
リタと呼ばれた赤髪の少女は走りながら振り向いて言った。幼馴染みのこの子ともう何度〝ここ〟へ来ただろう。小高い丘の頂上へと続く細く曲がりくねった道を駆け登りながら、彼女は胸の奥底から込み上げてくる寂しさを抑え込んでいた。
「はぁ……は、は……も、もうダメぇ。リタ足速すぎるよぉ」
ついに遅れていた少女が音を上げた。その場に弱々しくしゃがみ込み、肩で息をしている。色褪せた薄い桃色のワンピース――所々継ぎ接ぎがしてあり生地に張りも無い。長い間使い続けられてきたものだということは見た感じで容易に想像がつく。
だが、特に目立った産業も無く痩せた田畑と〝死海〟に囲まれたこの貧しい村の住人であるならば、特に珍しくもないありふれた格好と言えた。
「まったくだらしないなぁサーシャは。もうすぐプライマリースクール卒業でお姉さんになるんだよ? しっかりしないと」
リタは両の拳を腰に当て敢えて強めの口調で言った。うずくまるサーシャを見つめる……別れ間際の感傷だからだろうか。彼女の体がいつも以上に痩せ細って弱々しく見えた。
「卒業したって……お金持ちの町の子たちみたいにジュニアに上がれるわけじゃないもん。これからはずっと、畑の手伝いして妹たちの面倒見て……本当に嫌になっちゃう」
サーシャは自分ではどうすることも出来ない現実に悲嘆していた。小さな瞼に涙を浮かべ、やがてしゃがんだまま膝のスカートに顔を埋めた。
リタにはサーシャの憤りが痛いほど良くわかっていた。この村に生まれた子供に人生を選ぶ余地など無く、学費も安くて済む初等教育が終われば村の中にはそれより上に繋がる教育機関も無いし、あったとしても就学出来るほどの高額な費用はどの家庭にも無い。
プライマリースクールを卒業した子供は、暗黙の了解で勉学の道から離れ家業の手伝いをするのが習わしだった。
「……ほら」
リタも例外ではなかった。〝こんな時代〟であったことと彼女自身に〝適性〟が無ければ……今もきっと病気の弟の面倒を見ながら父や母の手伝いをしていただろう。
リタはサーシャの鼻先に手のひらを差し出す。顔を上げたサーシャは少し気恥ずかしそうにしながら袖口で涙を拭いリタの手を取った。
サーシャの手を引き今度はゆっくり歩く。家も近く、彼女より五つ歳上のリタはいつも彼女の〝お姉さん〟だった。泣き虫で少々どんくさい彼女を、時には叱咤激励し時には抱きしめて……まるで姉妹のように二人は育った。だけど、もう守ってあげられない――
「本当に戦争に行っちゃうの?」
ふいについたサーシャの言葉に思考が寸断される。二人の温かい思い出から急に現実に引き戻され、リタは背筋に悪寒が走った。
「……う、うん。徴兵されるよりね? 志願した方が早く階級も上がるしお給金もちょっとだけ多くもらえるんだ」
リタはサーシャの腕を引き、前を向いたまま答えた。髪の毛と同じ色をした瞳が揺れる……わざと明るく振る舞ってはいたのだが、彼女に自分の気持ちを見透かされそうで、目もまともに合わせることが出来なかった。
「でも戦争って〝コロシアイ〟するんでしょ? 大丈夫なの?」
サーシャは本当の意味を知ってるのか知らないのか……言葉の残酷さとは裏腹にきょとんとした顔でリタに聞いた。
「あ――あぁ、私は大丈夫だよ! そういう銃持って戦うのは男の人の話。私は基地で通信のお手伝いとかするだけだから安全なんだ」
リタは訓練中に教えられたマニュアルどうりの言い訳をした。サーシャに嘘をついたのは初めてだった。
「ふーん……じゃあアルスも、セランのお兄ちゃんもコロシアイしてるのかな」
自分のした言い訳のせいでサーシャにいらぬ不安を煽ってしまったことをリタは悔やんだ。そうだ……自分が初めてではない。この村にいた数少ない若い男達も、もっと前に戦地に旅立っていったのだ。
「戦争に行ったからって、必ずしも殺し合いしてるわけじゃないよ……多分」
リタはどう答えて良いのかわからず、説得力の無い言葉で言い繕った。
「――あ」
天の助けかようやく丘の頂上へと辿り着いた。眼前に広がる大海原……陽の光が反射し青々と輝いている。リタとサーシャにはお馴染みの、二人だけの秘密の場所――
知らない者が見れば、ここが死海だなどと誰が思うだろうか。それだけ雄大で美しい景色が二人の眼前に広がっていた。
「…………」
二人は手を繋いだまま、黙って海を見つめている。もう何度同じ景色をここで見ただろう……それもとりあえず今日で終わりなのだ。いや、もしかしたらもう二度と……
潮風が二人の頬を優しく撫でる――リタの赤い巻き毛がふわふわと揺れていた。永遠と思われる沈黙……先に破ったのはサーシャだった。
「また、来ようね。ここに……」
いつもと同じように振る舞っているつもりのリタだったが、僅かな態度の変化にサーシャは気づいているようだった。
二人は互いに心を通わせるかのように、握る手のひらに力を込める……前だけを見据えて。静かだった――あの海のように。
「うん。約束」
木造で建てられた古く、小さく……だけどしっかりと作られた我が家の食卓に、久しぶりに温かい笑い声が響き渡る。
粗末なライ麦のパン、合成肉と屑野菜で作られたシチュー。そして今日だけは特別に兎肉のローストがテーブルの中央に置かれている。明日旅立つ愛娘への、父と母からの精一杯の気持ちだった。
「今までは教育訓練だったから月に一度は帰ってこれたのに、今度はもういつになるかわらないんだろ?」
マーサが兎の肉をナイフで切り分けながら不安げに話を切り出す。ナイフを持つあかぎれた手が痛々しかったが、それよりも娘を戦争に送り出す母の苦悩が笑顔の下から透けて見え、リタは胸中を抉られる想いだった。
「すまないなリタ……私がもっと稼げていたら、お前に頼らずともなんとかやれていただろうに」
セスがマーサに続いて言った。先ほどまで他愛のない話で笑い合っていたのに、やはりこの話題になると一気に重苦しい雰囲気に包まれる。
険しく悲しい視線がリタに向けられている。長く蓄えられた口髭で口元は見えなかったが、父親として情けない想いでいっぱいなのだろうということは、その目を見れば明らかだった。
「や、やだなぁやめてよ父さんも母さんも……そりゃ今度はいつ帰れるかわからないよ? けどこんな時なんだもん仕方ないよ……あ! でもね? 後方の基地の中でのお仕事だから安全だし結構楽なんだよ。それであんなにお給金もらえるんだから、軍ってお金持ってるんだねぇ」
リタは気丈に振る舞って言った。二人は黙っていたがランプの灯りで顔が揺れて泣いているように見えた。
確かにコルタの町に出たところで、軍需製品関連の工場くらいしか今は勤め口も無いだろう。しかしそこでは、この家のもう一人の住人――弟のリオを病院へ預けることもままならない程度の収入しか期待出来ない。
「リオのためにお前が身を犠牲にすることになるなんて――」
セスは俯き黙り込んでしまった。リタより三つ歳下のリオは生まれつき体が弱く、治る見込みの無い病に犯されていた。本来ならもっと早く設備の整った病院で治療を受けさせるべきだったのだが、フリクセル家にはそれをするだけの余力が無かったのである。
しかしこの度リタが入隊することが決まり、リオは首都であるセントクスクにある大病院へ晴れて入院することが叶ったのだ。細かいことはリタにもわからなかったが――治療費はリタが軍に在籍している限りは、免除してもらえるという破格の待遇であった。
「わ、私はリオのために犠牲になったなんてこれっぽちも思ってないよ? 寧ろタイミングが良かったなって……私自身外の世界を一度は見てみたかったし、軍でお仕事するだけでリオを入院させることが出来たんだもん。一石二鳥だったって思ってるんだから!」
セスもマーサも黙ってリタの話を聞いていた。誰よりも家族を大切に思ってきた我が子である……少なからず無理をしているのは親なら気がついて当然だった。
「さ、食べよ? 父さん今日のためにわざわざ兎獲ってきてくれたんでしょ? へへ……すっごい久しぶり。いただきまーす」
娘の強さと優しさに感謝する……ここまで事が運んだのだ。今更騒いだところでどうにかなるものでもない。リタが大事な娘なら、リオもまた大事な息子なのだ。
今夜くらいは静かに、穏やかに……娘との晩餐を楽しもう。二人は無言で頷き合い両手を合わせた。
「そうね……いただきましょうか」
「あぁ、父よ……あなたの慈しみに感謝してこの食事を――」
セスは食事前の祈りを捧げ始めた。マーサもリタもそれに続く。リタは最後にこうして両親と共に食卓を共に出来たことを神に感謝した――
深夜――明日になるのが怖くてなかなか寝ようとしなかった父と母がようやく眠りに着いたのを確認すると、リタはこっそり自室である屋根裏部屋から天窓を明け、椅子を使い屋根の上に登った。
本当は屋根が痛むからしてはならないと幼少の頃よりセスに言い聞かせられていたのだが、元来のお転婆な性格が災いして両親の目を盗んでは良く屋根に登ったものだった。
リタはここからの景色と夜空を見上げるのが大好きだった。フリクセル家の立地は便利は悪かったものの村の一番高い場所に建てられており、屋根からの眺めは村を一望出来るほど見晴らしが良い。今も、たくさんの思い出がつまる近所の家々を全て望むことが出来た。
気難しいけど、いつも畑を手伝ってくれるコシュおじさん。ふくよかな体でいつも笑ってるモーラおばさん。ミートパイを作らせたら村一番の腕前のマリッサさん。昔話が本当に面白いイライザお婆さん。レイモンドおじさん、マリーおばさん、エリック、スージー、そしてサーシャ……
みんなが住んでいる家を見渡せることが出来た。この村は貧しく電気も通っていない。コルタの町はあんなに夜でも賑やかなのに、ここではランプのアルコールが勿体ないからって誰もが早く床に着く。
リタは溜め息混じりに昔のことを思い出す……そう言えば自分も今日のサーシャのように、この閉塞感漂う暗い村が大嫌いな時期があったなぁと。大きくなったら絶対こんな村飛び出して、いろんなことをするんだ! そう本気で考えていたこともあった。
だけど……現実は残酷だった。チャンスとは誰にでも平等に訪れるものだと思っていたのだがそれは大きな間違いで、この村に生まれた者は……貧しさ故にそのチャンスすら与えられないのだということを成長するに連れて知った。村の大人達……あれが未来のいつかなる自分の姿なのだと、受け入れざるを得なかった。
もしもコルタで、セントクスクで……違う人の子として生まれてきていたならどんな人生になっていただろう。と、この村の子供なら誰でも一度は考えたことがあるばずだ。
そしてその後すぐ、たった一瞬でもそう考えてしまった自分を恥じる――自らがぼろぼろになってでも懸命に育ててくれている父や母に、心の中で懺悔しながら……
転機は突然訪れた。隣国との戦争……正直良くわからなかった。生まれ育ったこのイースの村と、コルタの町だけが自分の知ってる世界の全てだった。行ったこともないような隣の国が、急激に版図を広げようと攻めてきている……だから戦わなくてはならない。理屈ではわかっていてもピンとはこなかった。
戦況は芳しくないようだった。開戦からしばらくして、コルタの町――そしてこんな辺境の村にまで兵員を募る勧誘が来た。
負け戦になど誰も行かないだろうと年嵩の大人達は口を揃えて言ってたものだが、現実は違った。まともに働いていたのでは到底稼ぐことが出来ないような給金が対価として支払われるという噂は一気に広まり、コルタの町ではおよそ半数、イースに限って言えばほぼ全ての若い男達が戦地に赴いたのだ。
今実際に自分がその立場になってみて、改めて彼らの気持ちがリタには良くわかった。この村はどの家も漏れなく貧しいのだ。軍に行くことで少しでも家族の暮らしが豊かになるのなら……そう考えるのは自然なことだろう。
そして、もうひとつ……仮に戦争とは言え、あれほど憧れていた外の世界に出ることが出来るのだ。給金云々以前に、この村の若者なら心密かに胸踊ったことだと思う。
一人、また一人と若い男が消えていく……それでも勧誘は終わることはなかった。軍の勧誘員も手ぶらで帰っていく日が増え、いよいよ徴兵が始まるのかと噂され始めた時だった。ある日……なんと女性兵員の募集も軍は始めたのである。
女まで戦争に狩り出す気か! と村人は怒ったが非常時の上に相手は軍である。次第にその声も萎んでいった。そして――
気がついたらリタは勧誘員がいるテントの前に立っていたのである。
それが半年も前のことだった。セスもマーサも……その時はまだ家にいたリオからも猛反対された。それでも、それでも三日三晩説得してようやく許しを得た。
絶対に前線へ出るような仕事はしないこと。もしも話と違うことを強要されそうになったらすぐに帰ってくること……という条件付きで。
軍で検査をした後、リタにはある〝適性〟があることがわかった。決してこれから始まる任務のことを口外しないことと、自分の身柄を軍に預け忠誠を誓うことが約束出来るなら――弟のことは任せてくれて良いと、通常の志願者では受けられないような待遇を受けることが出来た。
勿論、その旨が記載された正式な文書に署名もさせられた上での話だ。そしてもしこの契約を破ってしまった場合……残された家族は厳しい取調べを受けた後、相応の罰を科せられる。
だから、この半年間の血反吐を吐くような訓練のことは決して口にすることが出来ない。同時に、明日から参加することになっている作戦についてもだ。
潜水艦、特殊潜航艇、怖い艦長……そして人形のような金髪の女の子――
様々な想いが去来する……孤独と恐怖が折り重なって押し潰されそうだった。そんなリタの気持ちなど知らないかのように、星明かりだけは優しく、いつものように照らしてくれている……
「ポラリス」
北の空――ひときわ輝く北極星を見上げ、リタは自分と家族の行く末を案じた。
「いいかい……約束、忘れるんじゃないよ?」
コルタの駅のホーム。列車に乗り込んだリタは車窓から身を乗り出し、マーサと固く手を繋いでいた。
カサカサで疲れきった手のひら……だけど誰よりも温かく優しいその感触に、リタは今にも泣き出しそうだったが、必死で……必死で嗚咽を堪えていた。
「休暇がもらえたら真っ先に帰ってくるんだぞ? ほら――」
セスは小さな巾着袋をリタに差し出した。受け取った時の感触で何が入っているかすぐにわかった。チコの実だ――美味しくないけど、栄養価が高くて日保ちもする。イースの人間なら、子供の時誰もがおやつ代わりに食べて育った故郷の食べ物だ。
「……父さん」
胸が苦しくて言葉が出ない……自分はこれから明日をも知れぬ戦いの場へ赴くのだ。最後なんだぞ? 何か気の利いたことでも言わないか! ……そう何度も何度も自分に言い聞かせたが無理だった――やがて、機関車の発車を知らせる警笛が鳴った。
少しずつ、少しずつ列車は動きだす。マーサはまだ腕を離さない。歩いていたのが次第に早歩きになる……それでもほんの僅かな時間でもとマーサは追いすがった。セスも駆け足でそれに続く――
「身体にだけは気をつけるんだよ?」
「リオのことは心配するな。頑張れ!」
――マーサとリタの腕が、ほどけた――
「父さん! 母さん! 私頑張るからっ――待っててね」
リタは全力で手を振り続けた。あれほど我慢していたのに止め処なく涙が溢れる。小さくなっていく両親の姿が見えなくなるまで、赤い髪の少女は張り裂けそうな胸を必死で抑えて手を振っていた。
そして……視界から二人の姿が消える。不安、孤独、寂しさ……ごちゃまぜの感情がリタを襲い、咄嗟に座席にうずくまった。
少しでも悲しみが、震えが治まるように両腕で自分を抱きしめ必死で堪える。
セントクスク行きの軍専用列車は、まだ動き出したばかりだった――
「絶対、帰って来るんだっ……絶対に!」
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