★48★ 死神に、愛を囀る青い鳥。

 夜の闇が窓の外を塗り潰す深夜二時。私達は夜着ではなく町人に見える簡素な服に身を包み、そのときがくるのを待っていた。


 部屋は真っ暗なので今は見えないが、ルネは私が十三、四歳くらいの頃に庭仕事で使用していた服を着ているせいか、庭師見習いの少年のようだ。きつく結んだ髪を服の中に隠しているので尚更そう見えた。


 そんな彼女は隠し通路のある暖炉前に、私は表の様子がわかるよう窓のすぐ側にいた。もう十年以上使われていない客室は全体的にかなり埃っぽく、カーテンの隙間から外を窺う鼻先からは古い布の重苦しい香りがする。


 懐には持てるだけの金子とすぐに売れる軟膏と粉薬に、作り置きの原液の瓶を幾つか入れた小さな鞄を腰に帯びており、着の身着のままでも少しの間なら移動可能な装備だ。


「トリス、ほんとうに、だれかくるかしら」


「心配しなくとも必ず来る。聖女の言葉で目を覚ました者達は、私を殺したくて仕方がないだろうからな」


 私と違って夜目のあまりきかないルネが口の両側に手を当て、緊張気味に小声で話しかけてくる。そんな彼女にそう答えると、ルネから伝わってくる気配がそれと分かるほど不機嫌になった。というよりも――。


「……怒っているのか?」


「あたりまえじゃない。トリスがいままで、どれだけいたかったか、みんな、すこしもしらないくせに。ひどいわ」


 その声が僅かに震えている。それが怒りのせいなのか、悲しみのせいなのかは分からないが、こんな状況であっても思わず近付いて抱きめたくなった。けれど何とか持ち場を離れずにその衝動に堪える。


「他者から仕事の理解を得ようと思ったことはない。それに理解ができる類いの仕事ではないことも分かっている」


 するとルネの方から「それでも、いや」とさらにむくれる気配がした。その言葉に幸せを感じる一方で、怒っている度合いなら彼女に勝っている自信がある。無論その怒りの矛先が向かうのは彼女ではない。


 帰宅直後と夕食時にルネの口から聞いた出来事の内容に、あの男はいったいどれだけルネを虚仮にするのだろうかという驚きと、生かしておけないという思いが同時に胸中に沸き上がった。


 私が義務を果たしていない疑いがあるからとて、国からの多額の報酬のために間男を雇って彼女に子供を作らせようなど、それは本来であれば父親が娘にかける言葉ではない。強く閉ざした目蓋の裏が怒りで真っ赤に染まる気がした。


 誰がそんなふざけた真似をさせるものか。これ以上まだルネから搾取しようというのならもう赦しはしない。


 しかしこんな状況に置かれて初めて、私は彼女にずっと恐ろしくて訊ねられずにいた言葉を告げた。その上でルネが私との子供を望んでくれていたと知ったときのあの形容しがたい感情を……私は生涯忘れないだろう。


 本当は今回の一件が片付いたところで義父が馬鹿なことを言い出さなかったら、のらりくらりと義父と王の目を欺いて、子供を作らないまま家を断絶させるつもりだった。


 ルネという存在が生涯共にあるのなら、せめて私の代だけでも飼い殺されるつもりでいたのに……愚かな欲をかいたものだ。しかしその点で考えれば、今日という日はこんな日陰者の生活に踏ん切りをつけるにも、逃走の計画を立てるのに都合が良かった。


 夕食後、ルネに留守番を頼んで再び町人のような格好で人目を避けて屋敷を出て、路地で仕事の時に着ている上着と手袋と帽子を身につけて広場に戻り、聖女の首を奪還されないように見張りに立っている役人と少しだけ言葉を交わした。


 短い滞在時間にもかかわらず、背後からの無数の殺気を土産に屋敷へと戻って、出迎えようと玄関から飛び出してきたルネと抱き合い、物陰に潜む者達に幸せを見せつける。


 餌への食い付きはまずまず。あとはその情報が上手く広がったかというところであったが――……その心配もようやく解決だ。窓の外に見えるランタンの灯りは数が少ないものの、恐らく聖女の演説を聞いた暴徒達がここに来る前に物取りをしようとやってきた者達だろう。


「明かりが見えた。行ってくる」


「トリス……」


「大丈夫だ、すぐに戻る。それまで物音を立てないように待っていてくれ」


 そのまますぐに部屋を出ようとしたものの、暗闇が嫌いな彼女をここに一人で残していくことに後ろ髪を引かれた……というのは、言い訳で。ただそうしたかったから、暖炉の前に座り込むルネに近付いて抱きしめた。


 腕の中でルネが息をのむ。けれどすぐに伸びてきた腕が首に回され、見えない彼女が闇雲に啄むような口付けを頬にくれる。その耳許に今度こそ「行ってくる」と囁きかけ、階下の窓が割られる音と共に部屋を出た。


 足音を殺して自室に戻り、室内にランプ用のオイルをまく。一族だけに伝わる薬を書き記した書物は持ち出せる量ではないので処分するしか道がない。部屋の片隅に積み上げたそれらの上には、ルネが今日中に仕上がると笑い、果たされることのなかったベッドカバーが被せられている。

 

 本当なら持ち出したいところだが、荷物を最小限にしなければならない以上置いていくしかない。ルネがまた作れば良いと笑っていたそれを一度広げて、無惨に引き千切られた糸をなぞった。暗闇の中では色彩を確かめることはできない。


 それでも彼女が一針ずつ思いを込めて刺した刺繍に一度だけ口付け、ダンピエール家の歴史である書物に再び被せてオイルをかけた。階下の部屋で目ぼしい金目の物を探す音が聞こえてくる。


 どうせ大した物などないというのにご苦労なことだと呆れながら、隣室のルネの部屋にもオイルをまく。室内に充満した臭いで嗅覚が鈍るが構わず部屋の外に出て、階段の側に身を潜めた。


 しばらくして階段を上がってきた賊を一人仕留め、少し間を置いて上がってきた二人目も手早く片付ける。


 だが三人目と四人目は必要ではなかったのでその場で仕留めて転がし、背丈の高い一人と、低い一人を選んであとの二人は手近な部屋に放り込み、ランタンは一つだけ明かりを残して他は全て吹き消した。


 それが済めば廊下の壁に設置してあるランプの底を割り、廊下にオイルを流す。階下の状況に耳を澄ませてみるが、幸いまだ下の連中は漁ることに夢中で気が付いていないようだ。


 急ぎ自室のベッドに二人分の遺体を寝かせ適当に手を繋がせた状態にし、両方の胸に賊達が持っていたナイフを一度ずつ突き立て毛布を被せる。あとは階段までランタンを取りに戻り、しっかりとオイルを吸い込んだルネのベッドカバーに火を移した。


 そろりそろりとランタンから溶け出した火は新しい棲み家が気に入ったのか、一定のところから広がる速度を上げ、部屋の中を這っていく。ベッドに上がるのを毛布を垂らして手伝ってやると、あっさり上がり込んで二人分の膨らみに食らい付いた。それを合図にしたように室内は赤と黄の揺らめきに覆われる。


 火は静かに勢いを増して燃え広がり、ついに廊下にまで範囲を広げた。その様子を確認してから部屋を出て、放り込んであった遺体のうち一人を肩に抱え、表からは死角になっている窓からナイフと共に投げ捨てる。


 後方から追いかけて来るように廊下を舐める炎が窓に映り、艶かしく踊る様を振り切るようにルネの待つ部屋へと身を翻す。流石に上の異変に気付いたらしく、階下が俄に騒がしくなった。


 ようやくこの身体に芽生えた感情。愛した彼女との子供が欲しい。当たり前の願いに焦がれた私が放った炎はまるで裏切者を探してのたうつ蛇の如く、死神の館を鮮血のように赤く彩った。


「すまない、思ったよりも待たせた」


「へいきよ。きてくれるって、しってるもの」


 廊下で暴れる炎の蛇をドアの向こうに閉め出し、一直線に向かった暖炉の傍らで蹲っていたルネの前に跪いて赦しを乞うと、彼女は気丈にもそう答えた。その声の明るさに安堵していたいところだが、ここからは一刻一秒を争う。


 暖炉の中を探って隠し扉を開けた瞬間奥から風が吹いてきた。この隠し通路は裏庭の庭道具を片付けてある納屋の下へと続いている。火事に気付いた暴徒達が屋敷を取り囲む前に出なければ脱出の難易度はグッと上がってしまう。


「ルネ、今から先は手を離さないでついてきてくれ」


「うん。ぜったいに、はなさない」


 夜目が利くこちらとは違って顔も分からないだろうに、ルネはそう力強く答えて私の手を握った。目眩まし用に煤で汚された暖炉を潜り、カビ臭く大人が一人通れるくらいの幅しかない通路を歩く。


 天井の高さはギリギリ私の頭を掠めない程度で、少し真っ直ぐ歩いては折れて下るという作り上、何度か背中にルネがぶつかった。


 彼女の息遣いと掌の体温を感じながら何とか下りきり、通路の行き止まりに辿り着いたところで天井に手を伸ばして思い切り力を込めると、天井が浮き上がる。横にずらしたところで、この通路の中よりは微かに明るい闇が見えた。


 けれど安心する前に煙が流れ込んできたので、慌てて手を離さない約束を破棄して先に外界へと上がり、ルネの身体を引き上げる。木造の納屋の僅かな隙間からはチラチラと赤い炎の色が覗き、外から『火事だ!』『水を!』『死神はどうした!』といった声が聞こえてきた。


 二人で薄明かるい闇の中をドアまでにじりよって外の様子を窺うと、やはりすでに幾人かの暴徒と野次馬の気配がしている。


「ルネ……怖いか?」


「ううん。トリスがいるもの。トリスは?」


「私もルネがいるから怖くない。行こう」


 再び手を握りあって姿勢を低く保ち、外の人の気配が遠退いた隙をついてドアから滑り出た。


 ――と。


 それまでの暗闇から一転、轟々と音を立てて燃え盛る屋敷のせいで、周囲は昼のような明るさだった。熱気に肌が炙られ、大気が歪んで風を起こし、窓が熱で弾けてまろび出た炎の蛇が夜の闇を相手に天を突く。


 一瞬自身の手で火を放った生家を前に足を止めかけたが、ルネがギュッと手を握ってくれたことで正気に戻り、その場の誰もが火事に気を取られている隙に裏門から敷地内を脱出した。


 ルネを抱き上げて駆け出したくなる衝動を殺し、火事の火消しか見物をしようと集まってきた人込みに紛れ込む。逆流するような目立つ真似はせず、ルネとしっかり手を握ったまま流れに乗って、少しでも近くで見ようと人を押し退けるする輩の手を借り、人込みからジリジリと後方に弾き出されるのを待った。


 そのままルネと二人無言で通りの方へと歩き出すが、誰かが私達を追ってくるような気配は――……ない。後ろを振り返れば真夜中だというのに空が夕焼けのように赤く染まり、遅れて駆けつけた暴徒達が『聖女の怒りが天に通じた!』『死神に滅びを!』『正義は我等と共に!』などと口々に騒いでいる。


 要するに彼等にしてみれば、聖女の力で死神が滅ぼされたという筋書きが出来上がっているのだろう。いっそ清々しい嫌われように渇いた笑いが浮かんだが、隣を盗み見ると、そこには怒りに顔を歪める妻がいた。


「みんな、かってなことばっかり……だいきらいよ。あんなに、みんな、うれしそうにしてたくせに。トリスは、ずっといたがってたのよ」


 そう悔しそうに呟いて、とても綺麗な涙を我等死神の一族のために零してくれる。そんなルネの姿を見ている私の頬を何かが伝い落ちていく。


 すると握っていた手に思わず力が入っていたのだろうか? 急にルネが弾かれたようにこちらを見上げ、眉間に皺を刻んだ。けれど不思議なことに、すぐに涙で潤んだその瑠璃色の双眸が甘やかに細められた。


「ねぇ、なかないで、トリス。みんながいらないなら、わたしがずっと、あなたを、ひとりじめにできるもの。そのほうが、いいわ」


 思いも寄らないルネの言葉に今度こそ足が止まりかけたが、それは許さないというように彼女に強く手を引かれた。


「だいすき、だいすきよ、だいすきなの。はじめてあってから、せかいで、いちばん。わたしのあなた。わたしだけの、トリス」


 そう……人より足りない私の妻は蕩けるように微笑み、囀る。まるで童話に出てくる幸せの青い小鳥のように。おまけに彼女がどこを目指して歩いているのか知らないものの、その足取りには一切の迷いがない。


 だから始発の乗り合い馬車の時間を頭に思い浮かべて、口角が持ち上がるのを止められなかった。


「ひとまずこれからの行き先を教えてくれないか、奥さん」


「ふふ、ええとね……アドリニア、コンバート、きんこうの、きょうかいまで」


 思った通りの答えについに笑いを堪えきれずに「了解だ」と返せば、傍らで瑠璃色の双眸を煌めかせてルネが笑う。


 死神の妻は、少し足りない青い鳥。

 世界中を探してみれば、そういう童話もあるのかもしれない。

 少なくとも、私達の間には、そういう未来がきっとあるから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る