八年もの間凍っていたもの


 ゆっくりと歩いたせいか、

 浪川家に到着したのは

 店を出てから十五分後のことだった。


 玄関先でインターホンを押そうとした

 縁さんが突然振り返り、僕に同意を求めた。



「押すぞ」



 同意というより、確認の合図のようだった。


 僕が頷くと、彼女は安堵したように目元を和らげ、

 ワンピースの裾を翻し、それに指を伸ばした。


 すると、ピンポーンと軽快な音が流れ、

「はーい」と鏡子おばさんの声が聞こえる。

 ガチャリと内側から扉が開かれ、

 久しぶりに彼女の姿を目にした。


 鏡子おばさんはとうにいと

 顔立ちや雰囲気がよく似ている。

 だから、彼を思い出してしまって、

 今にも涙しそうになった。


 だが、ここで泣くわけにはいかない。

 まだ、彼女に知られるわけにはいかないんだ。

 僕の口から正体を明かすまでは。


 泣き出しそうなのをぐっと堪えて、

 ふわりと、作り笑いを浮かべてみた。



 すると、鏡子おばさんはにんまりと

 柔い表情で笑いかけてくれる。


 僕の来訪に驚いた様子もなく。



「あら、いらっしゃい。

 こうして会うのは十年ぶりくらいかしらね、

 縁ちゃん。

 二人とも、どうぞ上がっていって。

 見せたいものがあるの」



 促されるままに僕らは

 浪川家に上がらせてもらった。


 そうして、鏡子おばさんは

 僕らを家に上げるとすぐにリビングではなく、

 二階にあるとうにいの部屋に案内してくれた。



「あの子の部屋だったんだけど、

 整理しなくちゃいけないと思ってね、片付けたの」



 鏡子おばさんの言う通り、

 部屋はすっかり様変わりしていて、

 綺麗に片付けられていた。


 ただ家具だけがそこに

 浮かんでるかのように存在している。


 彼の匂いのなくなった部屋は無機質で、

 彼にもらった温もりが、

 もうどこにもないのだと実感させられた。



 僕が静かに感傷に浸っていると不意に、

 鏡子おばさんがくるりと振り返る。

 そして、彼女はまるで

 僕の心を見透かすかのように語りかけてきた。



「それと、昇汰ちゃんはお盆以来ね」



 ふと、気がついた頃にはもう手遅れで。



「でも、家に来てくれたのは八年ぶりだわ」



 やめて。それ以上は、言わないで……。



「あの子が昇汰ちゃんを

 すごく可愛がっていたし、

 昇汰ちゃんもあの子のことを

 慕っていたようだから、

 余計に来づらくなっちゃったのよね」



 きっと、気づかれてしまっただろう。

 いや、気づかれたに違いない。


 僕がとうにいこと、

 浪川透夜と知り合いであることを。

 僕はどうにも気まずくて、顔を俯かせて、

 彼女と目を合わせないようにする。


 それでもやっぱり気になってしまって、

 横目でこっそりと一瞥すると、

 彼女は驚くでもなく、

 感慨深い表情で頷くだけだった。


 どうしてだろうという不安に駆られるよりも、

 ほっとした安堵の気持ちの方が大きい。



 しかし、胸を撫で下ろしたのも束の間、

 鏡子おばさんはさらに質問を投げかけてくる。

 僕の急所を狙うが如くだ。



「それにしても、珍しい組み合わせね。

 二人とも知り合いだったの?」



 何て説明すればいいか分からず、

 このタイミングで縁さんに

 あの話をするのも気が引け、

 何も言えずにただ頷く。


 そんな情けない僕の代わりに、

 縁さんが口を開いてくれた。



「いえ、知り合ったのは一年前ですよ。

 それよりも、今まで一度も

 ここに足を運ぶこともできなくて、

 申し訳ありませんでした」



 そう言うと、

 縁さんは腰からしっかりと曲げ、

 深々と頭を下げた。



「頭を上げてちょうだい。

 私は、あなたの目を見て、

 ちゃんとお話しがしたいわ」



 その一言で、

 縁さんは渋々といった様子ながらも頭を上げ、

 鏡子おばさんの目を見据える。


 それに応えるように、彼女は語り始めた。



「縁ちゃんがね、

 ここに来られなかったのも仕方ないと思うわ。

 あなたはきっと誤解したままだから。

 だけど、あなたが来てくれて良かった。

 あのときは証拠もない噂が

 色々流れたから……そのせいで、

 下手に事情を知っている私と家族は、

 あなたに憎しみさえ感じていたわ。

 でもね、真実を知った今は違うの。

 これでやっと、本当のことを伝えられる。

 あの子が遺してくれたものを渡せるわ」



 縁さんはきょとんとした表情で、

 何か疑問を抱いているようだ。


 僕もそうだから。


 種が教えてくれたように、

 僕の知らない、

 僕らの知らない真実があるというのだろうか。


 もし、本当に新たな解が存在するとするなら、

 それは僕にとって苦い答えでもいいから、

 甘い答えをください。



 鏡子おばさんはそう言って、

 とうにいの机の引き出しからいくつか取り出し、

 その一つを縁さんに手渡した。



「これは……日記、ですか?」



 縁さんに手渡されたそれは、

 A5サイズの少し分厚めなノートだった。



「ええ。透夜が死ぬ前日まで書いていた日記よ。

 勝手に読むのは忍びないと思ったけど、

 もしかしたら何か大事なことが

 書かれているかもしれないって読んでみたら、

 あなたのことが書かれていたから。

 読んでみてほしいの」



 僕も読んでいいか確認しようと、

 鏡子おばさんの方へ目を遣ると、

「勿論よ、昇汰ちゃん読んで」と了承を得られた。


 そして、僕らは小さな日記帳を

 読むために身を寄せ合った。


 朗読する手もあったが、

 自分の速度で読みたいのと、

 心の中で彼の声を再生したかったからだ。



 綺麗な空色をした表紙を彼女の手で繰り、

 日記を読み始めた。



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