三日目 1

 三刻ほどの睡眠時間がどこに消えたのかと脇机の上の置時計をぼんやりと眺めながらフランシーユは考えた。

 昨日と同じく、昨夜目を閉じてから今朝目を覚ますまで一瞬だったようにしか思えない。

(ちっとも寝た気がしないわ)

 にこやかに微笑みながら寝室へ入ってきたプルミエ公爵夫人は、フランシーユの顔を見ながら「おはようございます、陛下。今日も外は気持ちの良い晴れですわ。散歩にはうってつけの天気ですわね」と挨拶をしてきた。

 フランシーユがあくびをしながら小さく頷くと、すぐさま女官たちによって掛け布団が剥ぎ取られ、着替えが始まった。

 顔を洗い、寝間着を脱がされ、下着を替えてコルセットを着ける段階になって、フランシーユはあることに気がついた。

(もしかしてわたし、痩せた!?)

 昨日はきつかったコルセットが、今日はすこし苦しくないように感じたのだ。

 女官たちはフランシーユの腰をコルセットで締め上げている間、どんなに苦しいと文句を言っても緩めてくれたりはしない。昨日の今日でコルセットの締め方が変わるものでもないので、コルセットを着けても昨日ほど苦しくないということはほぼ間違いなくフランシーユの体型が変わったということになる。

(昨日の散歩のおかげかしら!? やったわ!)

 普段は自宅でのんびりと過ごしている深窓の令嬢なので、運動といえば散歩がおもだが、特に目的などないのでせっせと歩くことはしない。広い庭をぶらぶらと歩くだけだ。

 その他の運動といえば、たまにアンセルムやジョルジェットから剣術を教わってみたりもするが、木刀を振り回しているだけなので身体を鍛えるというよりは気分転換と遊びのようなものだ。

 一応は食生活も気をつけているが、日頃から勉強の合間に菓子を食べたり、昼食後に昼寝をしたりと自堕落な生活が続くことも多いので、太ってはいないが痩せてもいないというのがフランシーユの体型だ。

(この身代わり生活が終わっても執務室と屯所の間を往復するくらいの散歩を続けたら、この腰の細さを維持できるんじゃないかしら!)

 一日で劇的に痩せた理由は長距離を歩いたからだと勝手に納得したフランシーユは散歩を習慣化することを決意したが、実際は一昨日からの激務がたたった結果だ。

 慣れない環境で、いくら両親や親しい人物と一緒とはいえ女王の身代わりという大役を担っているのだ。精神的負担も大きく、三回の食事と二回の間食をしても痩せるほどに本人が気づかないところで彼女の身体は疲弊していた。

(今日も時間があったらどこかへ視察に行こうかしら。王宮内のどこか、視察をするべき場所があるか食事のあとでアンセルムに聞いてみましょうか)

 宰相である父親からは、昨日のうちには今日の女王の予定は知らされていない。

 一日で痩せたといっても食欲はあるので、フランシーユは母親と一緒にしっかりと朝食を摂った。コルセットが昨日よりもきつくなかったおかげで、昨日よりもたくさん食べられたほどだ。

「おはよう、ランヴァン卿! 今日も絶好の散歩日和よ!」

 フランシーユは食事の途中で部屋に入ってきたアンセルムに機嫌よく声を掛けたが、「おはようございます、陛下」と返事をした彼の方は覇気がない。

 しかも、よく見ると彼の目の下にはうっすらとくまがある。

「ランヴァン卿、もしかして寝ていないの?」

「そういうわけではないのですが……少々眠りが浅く」

「ふうん。わたくし、夢も見ずに熟睡しているみたいで、目を閉じた次の瞬間には朝になったと叩き起こされているのよ」

「よく眠れていらっしゃるようで、羨ましい限りです」

 珍しくアンセルムが嫌味ではなく本心から呟く声で返答した。

「ランヴァン卿はどこで寝ているの?」

「すぐ隣の宿直室です。簡易寝台があるので横になって眠れるようになっています」

「あら、そんな部屋があるのね」

「えぇ」

 歯切れ悪くアンセルムが答える。

「――もう、さっさと家に帰って落ち着いて丸一日ぐっすり寝たい」

 フランシーユにだけ聞こえるくらいの小声でアンセルムはぼやいた。

 その気持ちがわからないでもないフランシーユは、黙って紅茶に口を付ける。

 近衛隊隊長のアンセルムだが、通常は女王の日常の護衛は他の隊士たちが当番制で担当しているので、彼ひとりが女王につきっきりということはほとんどないそうだ。

 いまはフランシーユが女王の身代わりを務めているので、できるだけ事情を知る人間を増やさないためにもアンセルム以外の隊士には隊長の補佐ということですこし離れた場所からの護衛と、夜間の廊下での護衛だけを任せている。

 日頃から女王には好かれていない隊長が女王のそばにいることを隊士たちはいぶかしんでいるが、アンセルムは「国家機密」の一言で隊士たちを言いくるめたと昨日聞いたところだ。なんでも「国家機密」にしてしまえば説明を省けるので便利だと彼は喜んでいたが、その「国家機密」のせいで彼は七日間女王の護衛として拘束されることになっている。

 彼には隊長としての仕事もあるが、事務作業のほとんどは副隊長がしてくれるので業務がとどこおることはほぼないらしい。彼の署名が必要な書類は副隊長が届けてくれるので、隊舎にある隊長室まで足を運ぶ必要はないらしい。

 副隊長は自分の上司が女王のそばにとどめ置かれていることを一番不審に思っている様子だが、アンセルムが「宰相の嫌がらせだ」と告げるとなぜか納得したらしい。

「そういえば、あとで陛下に詳細は報告しますが」

 フランシーユが黙々と朝食をしているそばで、アンセルムは口調を正して喋り出した。

「前国王陛下の親衛隊が動き出したようです」

「親衛隊?」

 ハムと目玉焼きをパンに載せて頬張っていたフランシーユがもごもごと尋ねるのと同時に、向かいの席に座っていたマリアンヌの表情がこわばった。

「なに、それ? 近衛隊とは違うの?」

「違います。近衛隊は王宮や王族の警護を担当している公務武官ですが、親衛隊は前国王陛下がご自身で雇った、いわば私兵です。かなりの手練れの傭兵が集められていたのですが、近衛隊とは水と油の仲で、俺は陛下が即位されると同時に近衛隊隊長になったので詳しくは知りませんが、前隊長の話ではかなり厄介な連中だったとか」

 近衛隊はヴィオレーユ女王の即位と同時に隊士を一新した。

 陸軍の中から選抜された隊士で構成されている近衛隊は、若い女王に合わせて半分以上の隊士を入れ替えた。女王に年齢が近い隊士の方が、女王もそばに置きやすいに違いないと陸軍は考えたためだ。

 陸軍の中でも若くて家柄、能力ともに秀でていたアンセルムが隊長に抜擢され、他の隊士も十代、二十代を中心に構成されている。

 残念なことにヴィオレーユ女王は武人嫌いで、アンセルムのように優秀な軍人は特に嫌われたが、近衛隊はそれなりに円滑に運営されていた。

「前国王陛下の崩御と同時に親衛隊は解体され、王宮からも追い出されました。女王陛下が最初に命じたのが前国王陛下の親衛隊の解体でしたから、親衛隊の連中は反女王派の貴族のところにそれぞれ散っていったようだと噂では聞いていましたが――」

 アンセルムの説明に、武人嫌いのヴィオレーユらしい、とフランシーユは納得した。

 ほとんど仕事をしないと評判の女王でも、毛嫌いしている存在の排除には素早く動いたようだ。

 国王が私的に傭兵を雇って親衛隊を持つことは珍しくない。

 デュソール王国の国王だけではなく、他国の王侯貴族など財力がある者は傭兵を雇い、自分の護衛などをさせる。

 プルミエ公爵家にも傭兵出身の使用人は数名おり、公爵とその家族の従者として働いている。従僕や御者、馬丁をしながら護衛をしているが、フランシーユの侍女ニーナもそのひとりだ。

 日頃は侍女として自分が仕える公爵令嬢を美しく着飾らせることに腐心しているニーナだが、狼藉者に対しては容赦ない。かつて彼女は公園を散歩していたフランシーユに近づいたを公園内の池の中に投げ飛ばし、そのまま沈めようとしたことがあった。

 以来、ニーナを連れて歩くフランシーユに近づく掏摸はいなくなった。

「近頃、その元親衛隊隊士たちがドゥジエーム大公の屋敷に集まってきているとか」

「まぁ……叔父様のところに」

 ふうん、とフランシーユはどうを口の中に放り込みながら考えた。

 ヴィオレーユ女王とて国の防衛のためには軍隊が必要であり、王や王宮を護る者が必要であることも理解はしているはずだ。だからこそ、前国王の崩御後も近衛師団の規模は縮小していないのだろう。

 しかし、前国王の親衛隊は別だったのだろう。

 親衛隊を雇っていたのは前国王なので彼の死去と同時に親衛隊が解体されるのは当然だが、その中でも優秀な隊士のひとりやふたりは王宮に残しても良いものを、ヴィオレーユ女王は前国王の死を理由に全員を解雇したのだ。

 前国王の信頼厚い親衛隊を自負していた隊士たちは、国王が代わった途端に自分たちの価値を理解しない女王によって解雇されたのだから、親衛隊の隊士たちがヴィオレーユ女王に反感を持つのは仕方ないことではある。

 陰では反女王派の筆頭とされるドゥジエーム大公のもとに元親衛隊隊士が集まるのも自然の流れではあると考えるべきだろう。

「婚約披露宴でなんらかの騒動を起こすのではないかという噂も耳にします」

「内乱罪で全員逮捕すれば良いのではなくて?」

「さすがに噂だけで逮捕状は発行できません」

「命令書にわたくしの署名があれば逮捕できるでしょう?」

「できますが、権力乱用です」

「ときには権力を乱用せざるをえないことがあると思わない?」

「それは、暴君のくつです」

「えぇ!? そうかしら? 火のない所に煙は立たぬと言うじゃない。わたくしは、ほんの一筋の煙でも見えたなら即座に火元を探し出して完全鎮火すべきだと思うのよね」

 至極真面目な顔でフランシーユが持論を展開すると、アンセルムは「女王様って命令するだけだからほんと楽だよな。うらやましいよ」と不敬罪で逮捕されそうなことをぼやいたが、フランシーユは聞かなかったことにした。

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