第3話 大っ嫌い!!(後編)

 千佳の部屋のカレンダーは、次から次へとめくれていった。


 午前中は主に図書館、月曜日は千佳の家。家族が出払っている時は木原の家ということもあったけれど、伊織の家に行ったことは、千佳は一度もない。みっちり勉強。昼食後にまた待ち合わせて、ちょっと勉強。三時も回ると、後は日が暮れるまでチェスをやった。


「テンちゃん、最近、どうだ?」


 最近、木原が優しいと千佳は感じる。


「勉強のこと? うん、だいぶ良くなったと思うよ」


 伊織と同じ高校に行く。そう決めた日から、千佳はものすごく努力をした。成績はぐんぐん伸び、テストがあるたびに順位を上げ、偏差値も高くなった。


「まだ伊織くんと同じ学校は難しそうだけど」


 千佳はニコッと笑って木原を見つめる。木原も兄みたいな笑みを浮かべて、


「でも、がんばっているんだろ?」

「うん」


 千佳は長い階段を二段飛ばしに駆け上がるように、伊織の元へと行こうとしている。でもその先に伊織はいない。夏休みも折り返しを過ぎた。木原は思う。千佳の様子を見るに、伊織はまだ転校の話をしていないらしい。


 日常はずるずる続いた。千佳が笑い、木原も笑い、伊織だけが硬い笑みを浮かべている。補習、遊び、夏祭り。水族館に行くついでに、海にも行った。晩夏の海にはクラゲが浮いていて、水遊びもできなかった。砂の上を這うヤドカリが波に打たれて溺れていく姿を、三人は日が暮れるまで見つめていた。



 そんな夏休みの間も、千佳は勉強を頑張り続けていた。


 登校日の夕方、晴れていた空が、急に翳ってきた。開け放たれた窓から、冷たい空気と土の匂いが流れ込んで来る。司書さんが慌てて窓を閉めて回る。

 伊織は参考書を閉じた。


「降るね」

「どうせ、通り雨だろ?」


 土砂降りのゲリラ豪雨。すぐ止むだろうが、誰も傘を持っていない。

 急激に暗くなっていく外。図書館の煌々とした蛍光灯の光が、教科書に落ちていく。白い光の中に、教科書の文字が浮かび上がって流れていくのを見て、千佳は顔を上げる。五時、少し前。どのみち、今日はもう終わりだ。


「今日はもう、帰ろっか?」

「そうだな」

「悪い、僕、トイレ行ってくるよ」


 伊織が立ち上がる。千佳は荷物をまとめはじめる。乱雑にノート類をカバンに放り込んだ木原が、白い歯をニカッとのぞかせて、


「ウンコか?」

「違うって」


 伊織がトイレへと立ち去ると、千佳と木原だけが残された。


「テンちゃん、最近、ウンコの話、しなくなったよな」

「伊織くんに止められているの。女子はそういう言葉、使うな、って」

「ふーん」


 ゴロゴロと雷がなりはじめる。窓ガラスに雨が叩きつける音が聞こえる。エアコンが機械臭い排気を出す。司書さんが、閉館の準備をしているのが見える。


「夏休み、もうすぐ終わりだな」

「うん」


 人生の中で、いちばんたいへんで、いちばん楽しい夏休みだった。


「ずっと続けばいいのにな」

「そうだね」

「……俺たち、ずっと一緒だったらいいのにな」


 木原の言葉に、千佳は顔を上げる。


「何言っているの? 高校生になっても、こうやってまた会えるよ」


 もし三人、バラバラの高校に進んだとしても。夏休みというものは、きっとかならず、ぜったいあるはずで。


「何言ってんだよ」


 木原の目が尖る。木原のそんな目つきを、千佳ははじめて見た。


「伊織とはもう、会えなくなるだろ?」

「え?」


 千佳が首をかしげる。『え』の形のまま開かれた口。そこにあった戸惑いを見て、木原はしまったと感じる。


 でももうすべては、遅かった。


「木原くん……。伊織くんと会えないって、どういうこと?」

「……」


 あのバカヤロウ、と木原は思う。

 この後に及んで、お別れまであと十日足らずなのに、伊織はまだ、千佳に転校のことを打ち明けていなかった。


 千佳の困惑した目がグッと迫ってきて、


「どういうこと? 伊織くん、どこか行っちゃうの?」


 千佳の目の中で、二年間の思い出が崩落していく音を聞いて、


「ごめん、お待たせ」


 バカヤロウが帰ってきた。




「……転校って、どこに?」

「……広島」

「いつ行くの?」

「夏休み明け……。二学期からは、向こうの学校」


 伊織は目を逸らし、木原は苦悶のため息を漏らし、千佳は身体中の血がどこかに逃げていくのを感じていた。


「なんで」


 なんで言ってくれなかったのだろう。

 なんで、隠し事なんてしていたのだろう。


「……伊織くん、ウソついていたんだね」


 一緒の学校に行こうって言ったのに。そのために、毎日毎日、必死に勉強していたのに。でも伊織には分かっていた。その努力が無駄になること。同じ学校にはもう行けないのだと、伊織には、もう分かっていたはずなのに。


「千佳、その」

「うるさい!」

「待ってくれって! 話を聞いて!」

「話なんかない!! ウソつき!! 伊織くんなんか、大っ嫌い!!」


 叫んだ。


 時間が止まる。伊織の目が見開く。いつも意地悪い微笑みを浮かべていた顔が、小さな子どもみたいに傷ついて、泣きそうになっている。


 もう、それ以上、彼を見ていられなかった。


「……ごめん」


 時間が動く。千佳はバッグを手に取り、走り出した。


 そこから先のことを、よく覚えていない。ただ外は猛烈なゲリラ豪雨の最中で、自分は傘を持っていなかったこと。ふたりが追いかけてくる気配を感じて、無我夢中で雨の中に飛び込んだことだけは、覚えている。湿って重くなったアスファルトの感触。サンダルと足の間に雨水が入ってきてすべる。側溝を流れていく濁流の音がうるさい。灰色の世界の中に、車のヘッドライトの光が白く眩しい。


 立ち止まらなかった。

 不思議と、息は上がらなかった。


 どこをどう走ったのかなんて、覚えていない。でもずいぶんな距離を走ったのはたしかだ。雨にけぶる景色は公園のもので、雨粒が入り込んで滲んだ視界の中、ベンチとすぐそばの自動販売機だけが、青白い光を放っている。


 あのベンチに座って、伊織とチェスをした。

 賭けに負けて、自分の初恋の話をした。


 伊織との日々が、雨の景色の中に蘇っては消えていく。図書館での勉強、生まれてはじめて作った、バレンタインのチョコレート、成功を収めた文化祭、夏祭り、梅雨の雨宿り、桜の木の下を一緒に帰った日。クラゲが浮いた晩夏の海に、ヤドカリを見続けた夏の夕暮れ。


 白と黒の駒が、青春を踊る。記憶の中でステップを踏む。


 「賭けをしよう」と彼は言った。

 千佳は最初から最後まで、彼に負けっぱなしだった。

 

 いつか、彼に勝てる日を夢見た。胸を張って、彼のキングを追い詰める日を待ち望んだ。ステイルメイトは何度かあった。チェックだって、何百回もした。でもチェックメイトまでは、いつも最後で後一歩、たどり着けないままだった。


「……伊織くん」


 チェス部で楽しい青春を。それが彼の夢だった。

 優しい千佳はチェスに向いていない。自分の弱くて情けない一面を、伊織は笑って肯定してくれた。


「うっ……、うっ……」


 雨は止む気配を見せず、濁流となって千佳の背中を濡らす。ブラウスが水を吸って重い。下着が透けるのが、見ていなくても手に取るように分かる。スカートに泥がつくのも構わなかった。初恋の話をした思い出のベンチの前で、自動販売機の青い光に照らされて、千佳はしゃがみ込んだ。


 しゃがみ込んで、しばらく泣いた。


 いつの間にか当たり前になっていた楽しい日常が、これからも続くと怠惰に信じていた日々への思いが、砂の城みたいにボロボロ崩れていく。

「……」


 広島という地名が憎い。

 東京と広島、両者の間に広がる広大な都市たちの、すべてが憎い。


 駆けつけてくれたのは木原で、上着をかけてくれたのも、雨の止んだ世界の中で、家へと送り届けてくれたのもたぶん、木原だった。


「伊織くん……。伊織くん……」


 伊織がいなくなってしまう。

 その日、どうやって一日を終えたのか、千佳は覚えていない。



 翌日、熱を出して、千佳は図書館通いをサボった。木原はLINEをくれたけれど、伊織は連絡をくれなかった。


 熱が引いてくるにつれて、千佳の情熱もまた、潮のように引いていった。あの二年間がウソか幻だったみたいに、千佳は元の千佳に、人の顔色を窺い、無視されるのが怖くて、他人にどう見られているのかを過剰に気にする、元の湯島千佳に、戻ってしまっていた。


「賭けをしよう」


 二年前のあの日、ローテーブルの向こう側でそう言った伊織が、あと十日たらずでいなくなってしまう。


 携帯用のチェス盤を広げる手。駒を並べる指。強かさを滲ませた、あの意地悪い笑み。すべては彼がはじめた。青春のチェスゲームは、伊織がはじめたのもなのに。


 千佳は布団に包まる。包まって泣いた。思い出すのは、カーテンの隙間から漏れていた曇り空の光と、外面のいい母の猫なで声。そして汗をかいた、いつもより濃いカルピスのグラスの表面とか、そんなことばかり。まためくるのをやめてしまったカレンダー。日付が止まったままのカレンダーから、励ましてくれる声が聞こえる気がする。


「……伊織くん」


 伊織は連絡をくれない。でも自分から連絡する勇気は、もっとなかった。


「伊織くんなんか、大っ嫌い!!」


 生涯ではじめて、あんな風に他人を傷つけた。 

 あんな風に人を傷つける自分は最低だと、千佳は思った。

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