第15話・聖女と騎士と竜にまつわるてんまつ・1


 春の息吹がすぐそこまで近づいた、ある日のこと。


「あの、ギルバート」

 そっと話しかけてきたダウフトに気づき、黒髪の騎士は静かに本から面を上げた。

 久方ぶりの平穏な休日、<狼>たちがめいめいに町へ繰り出したために、ふだんは騒々しい詰所も今はすっかり静まりかえっている。

 とはいえ、いつ何が起きるかも分からぬこの時勢だ。当然ながら、全員そろって休みというわけにはいかず、副団長の裁量により日替わりで詰所に居残る者が割り当てられることになった。

 たまたま、今日の当番にはギルバートがあたることとなり――兵士たちや首脳陣との連絡や調整を行う合間をぬって、読みそこねていたアスタナの旅行記を広げたところだった。

 そこへやってきたのが、のんびり屋の村娘だったものだから。

「何をやった」

 淡々と問う男に、ええとそのうとダウフトは口ごもる。彼女がこういう顔をするときは、たいてい何かの前触れであると、ギルバートはここ一、二年のつき合いでいやというほど分かっていた。

 だいたいこの娘には、<母なる御方>から聖なる剣を預る身だという自覚がない。砦やふもとの町を気ままに歩き回っては、そのつどいらぬ騒ぎを引き起こしてくれる。おおかた、今日もそんなところだろう。

「また連れてきちゃいました」

「ダウフト」

 嘆息とともに本を閉じると、ギルバートは向かいの椅子でうららかな日差しを浴びてまどろむ、きじ虎の仔猫を指さした。

「この間、こやつを連れてきたばかりだろう」

 雨に濡れてかわいそうだと、泥だらけのちびすけを肩掛けにくるんで砦に帰ってきたのが半月前のことだ。砦を動物で埋めつくす気かと睨んだ騎士に、だってと村娘はしょげ返る。

「まいごだったし、ひとりぼっちじゃさみしいと思って」

 そう言っては、ダウフトのほかにも誰かしらが行く先々で犬や猫、鳥、ときには猿や馬、牛まで連れ帰ってくるためか。東の砦は、実はちょっとした動物たちの天国でもある。なかでも最たるものは、リキテンスタインのウルリックが報われぬ愛を捧げつづける雌猫ヘンルーダ、デュフレーヌのレオが連れてきた月牙狼のセレス、<森>の女王じきじきに守護を命ぜられたやんちゃ姫だろう。

「わたしがちゃんと面倒をみますから。いいでしょう」

 こう懇願されては、さしものやかまし屋も折れぬわけにはいかなかったが、

「で、その迷子とやらはどこにいる」

 何とはなしに、首筋にざわつきを覚えながら問うた騎士に、じゃあいいんですねとたちまち顔を輝かせたダウフトが入り口へと駆けてゆく。勢いよく扉を開け、ほらいらっしゃいと明るくよばわったそれは――



「どうしてですか、ギルバート」

 さっきはいいって言ってくれたのにと抗議の声を上げる娘に、そんなことは一言も言っておらんだろうがと騎士はやり返す。いやな予感ほどよく当たる、己の星回りが心底うらめしい。

「今すぐ元の場所へ帰してこい」

「いやです」

「聞きわけのないことを」

「だって、まだ赤ちゃんなのに」

 瞳を潤ませる娘の後ろで、それがみぎゃあと鳴いた。確かに、まだ頑是がんぜないものの声だと知れたのだが――

「竜の仔なんぞどうしろというんだッ」

 ダウフトに頭をなでられて、ぐるぐると甘えた声を出している雄牛ほどの巨躯。かたく鮮やかな翡翠の鱗と棘とを全身に纏い、ましろき角を王冠のごとく額に戴いた<古きもの>、ひとが足を踏み入れることあたわざるアスタナの峻峰に生きるはずの竜だ。

 けれども、大きな背中にこじんまりと乗っている、蝙蝠に似た翼がぱたぱたと動くさまときたら何ともたよりなく、万象を見抜くと言い伝えられるはずの双眸には無邪気さばかりがあふれている。

「森のそばを散歩していたら、この子がいたんです。城門まで連れて行ったら、兵隊さんたちはちゃんと通してくれました」

「通すなたわけが」

 うなったものの、その時の光景を容易に思い浮かべることができるからまた始末が悪い。

 ただいま戻りましたと、明るく笑いかけたダウフトの後ろから、のしのしとついてくる仔竜の巨体をしばし目の当たりにして。

「またいたずらですか。エクセター卿に怒られますよ」

「もしかしてこいつは、奥方さまの誕生日に出す余興ですかい」

「しかし、よくできてるなあこれ。お、睨みやがったぞこいつ」

 まさか本物とは夢にも思わず、ダウフトさまもよくやるなあと笑いあったであろう門番たちの能天気な顔がちらついて。砦の防備体制はどうなっていると胃の腑を締め上げられかけたギルバートへ、さらにダウフトの声が追い打ちをかける。

「回廊でボース卿にお会いしたので、どうすればいいのか相談したんです。でもこの子を見るなり、大笑いされたと思ったら失神なさってしまって」

 さもありなん。

 常識のかがみともいうべき、年長の騎士が受けた衝撃の大きさを思いやって、ギルバートは<母>への加護を請うしるしを切った。

 いっそのこと己も、ボース卿のごとくこのありえない現実から逃避できたならばどんなによいことか。だが悲しいかな、のんきな村娘やわがまま侯子が繰り広げる非常識に慣れてしまった身は、簡単に卒倒することもできはしない。

「育ったらどのくらいになると思っている。砦を全壊させる気か」

「セレスだって聖獣さまでしょう、もう一匹くらいいいじゃありませんか」

「ここは聖獣の寄り合い処じゃないッ」

 どこまでも続く村娘と騎士のやりとりに、遊んでもらえないと察した巨大な幼子はじつに退屈そうな欠伸をはじめる。そこへやはり<母なるもの>の初子、月の眷属たる白銀の仔狼がひょっこりと顔を見せた。

 ひとの世では<竜眼>と称され、王たるものしか手にすることが許されぬ双の宝玉と、まん丸い金の双月とをたがいに見合わせて。

 幼き次代の<古きもの>たちは、騒ぎに驚いて物陰に身を潜め、おそるおそる様子を伺っているきじ虎の仔猫に、いっしょに遊ぼうよといわんばかりにそれぞれに尻尾を振ってみせるのだった。



                ◆ ◆ ◆



「師匠、わたしは夢まぼろしを見ているんでしょうか」

「夢ではない、夢ではないぞ我が弟子よ」

 互いにがっしりと手を握りあい、感涙にむせんでいるのは書庫に務める師弟、ガスパール老と弟子のウィリアムだ。彼らの前では、きょとんとしている竜の仔をひとめ見ようと、物見高い砦の者たちが押すなへすなの大騒ぎを繰り広げている。

 のんきな聖女が散歩の帰りに連れてきた珍客は、その日のうちに東の砦じゅうに知れ渡り、人々を騒然とさせることとなったのだが。ことさらに色めき立ったのは、砦の知をあずかる三人の長老とその弟子たちだった。

 子供のようにはしゃぎまくり、そら古王国時代の文献をかき集めてこい、さっき書庫に向かったギーが帰ってこないぞ、もしかして本の雪崩に遭ったかあいつ、おい誰か掘り起こしてこいと口々に言いながら詰所を行ったり来たりしている。

「翼の形状からして、アスタナから西に生息する種族じゃな」

 鼻先すれすれまで、竜の仔に近づいてしげしげと眺めたあと。感嘆の溜息とともにイドリス老が面を上げた。

「鱗の固さから見ても、まだ生後一年ほどの幼生といったところか」

 まさに世紀の大発見じゃとうなずいたシェバの医師に、何を言っておるかとかみついたのはヴィダス老だった。

「この角は東に生息する種族じゃ。アスタナ王家の紋章にもあらわされておる<雨の御使い>じゃよ」

「いや西じゃ。それが証拠に成獣の鱗がほれここに」

「断じて東じゃ。この角のかたちがそれを物語っておる」

 それぞれ自慢の宝物を手に、熱い議論を戦わせはじめたイドリス老とヴィダス老の傍らで、はいはい師匠がたどいてくださいよと弟子たちが絵を描いたり、気づいた特徴を紙に書きとめたりと忙しく立ち働いている。

「いや長生きはするものだて。まさか七十の齢を越えて、まごうかたなきほんものの竜を目の当たりにしようとは」

 涙をぬぐい、しみじみと呟いたガスパール老に、ほんとうですとウィリアムはうなずく。

「我が姉弟子が聞いたら、街道の魔物たちを蹴散らしてでも砦にやってくるでしょうに」

 交易都市シエナ・カリーンの学院アカデメイアで、竜にまつわる研究をしているという婦人の名を挙げて、ウィリアムはどう思われますかとギルバートへたずねてきた。

「こんな機会はめったにありませんよ。わたしはもうあまりの幸運に、め、眩暈が」

「いやウィリアム殿、倒れる前に」

 頼んでおいたものは探してもらえたのかと問うた騎士へ、あのそれがと人の好い学僧はたちまちすまなそうな顔になる。

「竜の生態については、ほとんどわかっていないのです。守竜の国と呼ばれるアスタナにおいてさえ、もはや伝承の聖獣とみなされているくらいですから」

 そう言って、ウィリアムが差し出した数冊の古びた本。ぱらぱらと頁をめくって、黒髪の騎士はさてどうしたものかと頭を抱える。

「どうなさったのですか、エクセター卿」

 問いかけたウィリアムへ、深々と溜息をついてみせて、

「いや、竜の好物は何だったかと」

 森に帰せ、いやですとダウフトと押し問答を繰り広げているところへ、町のガキ大将との一騎打ちに勝利したアネットを先頭に、ダウフト姉ちゃんおやつをちょうだいと子供たちが駆け込んできた。

 突然の来訪者に驚き、大きな体をもそりと動かして奥へ逃げようとした仔にしばし目を丸くしたあと――すげえや竜だ、父ちゃんが話してくれた昔ばなしに出てきたよと、砦のわんぱくたちは自分たちをおやつにしかねないほどの巨体を取り囲み、頭を撫でたり、おそるおそる鱗にさわったりしながらはしゃぎだした。

 一緒に暮らすのは無理だから森へ帰すという騎士の言い分など、まるで通用しなかった。

 たちまち巻き起こった子供たちからの非難に晒されたあげく、水色の瞳でじっと見上げてきたアネットから、ギルバートさまのはくじょうものと断じられた時には、ほとほと泣きたくなったものだ。

 結局、仔竜が飛ぶことができるようになるまで砦に置いてやることを、ダウフトと子供たちによって確約させられて。何事かと様子を見に訪れた騎士団長と奥方からは、ダウフトと力を合わせて面倒をみてやるようにと命じられるはめになった。

 なぜ俺がと抗議した若い騎士に、能天気な一団を率いる能天気な長は笑って告げたものだ。

「なに、とねりこの小僧のあしらい方はおぬしが砦いち長けておろう」

「あれは一応ひとの子ですが、団長」

 青筋を浮かべて応じたギルバートを、よいではありませぬかとやんわりと諭したのは奥方だった。

「幼きものを守ることは、年長たるものの務め。見ればこの子は、どうやらそなたを気に入ったようですよ。エクセター卿」

 そう言われて振り返ったところで、翡翠の鱗に身を覆った仔と目が合った。みゃあ、と陽気な声を上げて尻尾を振り、あたりのものをぼとぼととはたき落とすさまを見たのが運のつき。


「ダウフトが厨房で、食べ物を分けてもらうと言い張って聞かん」

 あやつが妙なものを連れてきたばかりにとぼやく騎士に、ウィリアムはつい笑みを誘われる。

「そうおっしゃいながらも、結局は放っておけないわけですね」

「成りゆきだ」

 とはいえ、まず食べるものがわからなければと渋い顔になったギルバートへ、

「なんだ、ここにいたのか」

 たいそうにこやかに声をかけてきたのはリシャールだ。おぬしの助けになるものを持ってきてやったぞと、何やら背にしていたものを取り出した。

「本か」

 ずっしりとした重みを受け取りながら、助かったとばかりにギルバートはいくぶん表情をやわらげる。

「仔牛や仔馬とはわけが違うからな、何から始めたらいいか皆目見当がつかん」

「そうだろう、そうだろう。だからこれはと思うものを書肆で探してきたんだ」

 ぜひ参考にしてくれたまえと笑う友にうなずいて、頁を繰り始めたギルバートだったが、

「……リシャール」

 紙面に目を落としたまま、たいそう低い声で呟いたギルバートに、間違ってはいないだろうと答えながら、琥珀の騎士は笑って身を翻した。その後を、ウィリアムに本を押しつけたギルバートが憤然と追い始める。

「ひとが真剣に悩んでいるというのに、おぬしは」

「基本は同じだろう、竜もひとも。後学のためと思ってだな」

「同じでたまるかッ」

 騒々しく駆け去ってゆくふたりの騎士に人々が唖然とするなか、ギルバートが置いていった本に目をとめたウィリアムは、いったい何が記してあったのやらとぱらぱらと頁をめくってみる。

「ええと、『しつけの注意点』に『おむつのあて方』、『抱くときの注意』……?」

 つらねられた内容に首を傾げ、もしかしてと表紙を見てみれば――そこに記されていたものは。

「育児書」

 思わず表題を口にして、ウィリアムはいまや回廊の向こうに駆け去ろうとしているギルバートと、そろそろ空腹を覚え始めたらしくたいそう寂しげに誰かを呼ばわりはじめた竜の仔とを交互に見やる。

「確かに、後学のためにはなるかなあ」

 とりあえずはっきりとした好みが分かるまで、あの子にいろいろとあげてみたほうがよさそうかなと心に決めて。

 バスカヴィルのウィリアムは、料理長に頼みこんで分けてもらったらしい新鮮な魚やロースト用の鶏を運んできたダウフトとアネットに、こちらですと手を振るのだった。

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