第11話 緑なす 梢のむこうに・2


「手応えはどうじゃ、ナイジェル」

 木々の間、開けた草地に設けられた本陣で、伝令が次々と携えてくる報告に短く的確な指示を与えていた副団長は、笑いを含んだ声に向き直った。

「ガスパール殿」

「その顔から察するに、難儀しておるようだの」

 今でこそ髪に霜を戴き、歩く時の助けにと樫の杖こそ手にしているものの。かつて騎士であったという老人の姿は、鋼と革に身をよろった丈高い男たちの中にあっても決して引けを取るものではない。お歳というものを考えてくださいと引きとめたウィリアムに書庫の守りを押しつけて、こうして<狼>たちと森へ同行するほどの矍鑠かくしゃくぶりを誇るほどだ。

「ほう、これはまた」

 草地から離れたところで、何やら大騒ぎを繰り広げている騎士見習いの一団を眺めやるガスパールに、とねりこの小僧ですとナイジェルは応じる。

「ヴァルターが止めるのも聞かずに、煙玉を派手にばらまいたとか」

 降ってわいた災難に驚き、怒り狂った魔物たちが住処から飛び出し――巻き添えを食った新米騎士や見習いたちが、文句を垂れながら敵を迎え撃つはめになった。少しは塩味を効かせろこのかぼちゃ頭、千年待ったってよどんだ流れが澄むか間抜けなまずめと言い争うふたりをボース卿が引き離そうとしているが、子狐を巣穴からつかみ出すほうがまだたやすいらしい。

「手に負えぬ若造は、おぬしやヴァンサンだけかと思うていたがの」

 忘れたい昔話を持ち出され、思い切りしかめ面になった副団長。にやにやとする長老に、お役目はよろしいのかと咳払いをしながらはぐらかすように問いかけた。

「荒事ゆえ、怪我人の一人や二人は出そうなものと思うていたが」

 もとは医師を務めるイドリスが<狼>たちについていく予定だったが、諸々の事情から砦に残ることになった。代わりに、多少の怪我であれば手当の心得があるガスバールが救護班を率いているのだが。

「たんと薬も預ってきたというのに、誰ひとりわしのもとへなど来やせぬわ」

 年寄りをないがしろにしおってとふてくされるガスパールに、そうでしょうなとナイジェルは呟く。三人の長老がこしらえたという惚れ薬とやらを、成り行きで飲んだどこぞのたわけを見舞った災厄はアネットでさえ知っていたからだ。


「はて、騎士さまがたがなんだかえらく真剣なお顔で、うちの膏薬を買ってゆかれましたけどね」

 ふもとの町を訪れた際、店じまいをする傍らでナイジェルに最後の一包みを手渡しながら、顔見知りの薬師が首を傾げていたものだ。

 まさか、年寄りの得体の知れぬ道楽に付き合わされてたまるかという怖れが<狼>たちに広まったからだなどとはとても言えず。今度のいくさは厳しくなるんですかと不安そうに問う薬師に、案ずるなと応じるだけにとどめておいた。

「ボウモアの旦那がおっしゃるなら、心配いりませんね」

 薬師が言いだすと、何たってうちにゃ<狼>と聖女さまがついておられるしなと、いつの間にか周りに集っていた人々に笑顔が戻るさまを、密かな安堵とともに確かめた老騎士だったが、

「そういや姐さん、ダウフトさまに惚れちまったとかいう野郎の話、ありゃどうなったんだ?」

「さあ、あたしもウォリックの旦那に聞いただけよ。あんまり喋ると逆さ吊りがどうとかって」

「そりゃまた大胆なのもいたもんだね。お側づきの騎士さまに剣でずぶり、なんてことにならなきゃいいけど」

「いやいや。その男ってのが、じつは騎士さまご自身だったりしてな」

 よくあるはなしさね、と陽気に笑いあう親爺やおかみさんたちに、はてここは東の最前線であったはずと頭を抱えた。ついでに、あくまでも任務という態度を貫こうとしながらも、結局は小娘ひとりに振り回されている若い部下に少しばかり同情を覚えたものだ。


 なべては、<母>の思し召しのままに。

 そう思わねばやりきれぬわと息をつき、待たせていた伝令たちに報告をするよう命じたのだが――森のあちこちからもたらされる出来事に、ボウモアのナイジェルは胃の腑をきりきりと締め上げられることとなる。

「どうした。薬ならわしが煎じてやろうほどに」

「お気遣い、いたみいります」

 なぜか嬉しそうに薬湯をすすめようとするガスパールへ丁重に断りをいれると、騎士団長に代わって<狼>たちを率いる男は森の木々へと鋭い双眸を向けた。

「……あの、能天気どもめが」

 灰色狼のたいそう低い呟きを知るものは、すぐ側で揺れる梢だけだ。



                ◆ ◆ ◆



「泉の水がころころと、木陰にさざめくほとりにて――か」

 緑したたる森を見渡して、心地よい風に琥珀の髪を遊ばせながら古い詩を口ずさんだのはリシャールだった。

「天気は上々、小鳥の歌は耳にこころよく、風はやさしく頬を撫でる。ご婦人と愛を囁きあうにはもってこいだな」

 呟きとともに流麗なつくりの業物を一閃すると、恨みがましい声を上げて小鬼が地に落ちた。

「いくら何でも、こんな物騒な所じゃ嫌がられるだろう」

 呆れるサイモンに返ってきたのは、そうでもないさという秀麗な笑み。

「互いに寄り添う機会が増えて、悪くないと」

 リシャールのいらえに、ああそうかいとげんなりした顔で応じると、サイモンは横合いから飛びかかってきた魔物の横っ面を槍の柄で思い切り張り飛ばした。

 カドール卿の姉君イニッドに、町の酒場<狼と牝鹿亭>の女将エリサ、聖堂をあずかる尼僧アドリーヌ、奥方づきの侍女であるブランシュにベアトリス。戦友の思い人ではと噂されるかぐわしき花々は多かったが、いずれもこれといった確証には欠けている。

 とはいえ、魔物がうろつく森にあってさえそんな言葉を口にできるというのだから、相当に肝の据わった婦人であることだけは間違いない。ギルバートなら何か知っていそうなものだが、そのあたりについて彼から聞き出すのは徒労にしかならぬだろう。

 まったく、清流を守護せし堅牢エクセターとはよく言ったもんだぜ。

 冗談でさえ真顔で言ってのけそうな、いまひとりの友の生真面目さにウォリック生まれの騎士は少々辟易しなくもない。もっともギルバートが耳にしたならば、そういうことは町のど真ん中で派手な通行手形をつけられなくなってから言うんだなと突っ込みのひとつも返したに違いないが。


「ダウフト殿」

 目の前の光景に呆然とたたずむ守り姫に向かって、リシャールはやさしく微笑みかける。

「むこうの石柱でジェムベリーの群生を見つけましたよ。今のうちに」

 騎士の促しに、周囲を彩るみずみずしい新緑と同じ色の瞳を向けてダウフトはうなずく。

 首筋のあたりで短く切りそろえられた髪と、やわらかな身体を覆い隠す鎖かたびらと腰に佩いた<ヒルデブランド>のために、ぱっと見たところはまるで騎士見習いの少年のようだ。武骨な革手袋に包んだ手に携えた、薄紅のリボンをあしらった蔓編みの籠だけがものものしい装いからは妙に浮き上がって見える。

「どうなさったのです?」

 どこか落ち着かなげな様子に、リシャールは案ずるように問いかけた。

 奇跡呼ぶ聖女と騒がれようとも、ダウフトが年頃の娘らしく怖がりな一面を持つことに変わりはない。昨夏にレオが引き起こした騒ぎで一度足を踏み入れているとはいえ、あやかしが潜む鬱蒼うっそうとした森にまつわる数々の言い伝えが彼女に不安をもたらしているのだろうか。

「いえ、その」

 言いかけて、ふいに身をかがめたダウフトの頭上を小鬼がけたたましくわめきながら飛んでいく。しばしそれを見送ると、琥珀の騎士は呆れとともに魔物を殴り飛ばした張本人に向かって声をかけた。

「おいウルリック、頼むから俺たちを巻き添えにしてくれるなよ」

「何を言うか、リシャール」

 幼子の身の丈ほどもあろうかと思われる戦斧をぎらりと輝かせ、心外なとばかりに言葉を返したのは、つい最近父からリキテンスタイン卿の名を継いだ大男だった。

「これでも冬の間、司祭どもの黴くさい説教など聞きながらおとなしくしていたのだぞ」

 頬から顎を覆いつくすみごとな髯、<狼>いちの巨躯から繰り出す一撃と猛々しい笑みときたらまさしく<熊>の渾名にふさわしい。果たしてこの姿のどこから、日だまりでじゃれあう仔猫を見るやたちまち相好を崩したり、ダウフトの首許を飾るスカーフに施された繊細な刺繍の作者であるなどと想像がつくことだろう。

「敵は我らにお任せあれ、ダウフト殿。リキテンスタインの名にかけて、獅子奮迅の働きをご覧にいれましょうほどに」

 我が斧もうずうずしておりますぞと物騒なことを言ってのける<熊>どのへ、お手柔らかにと応じるダウフトを、リシャールはさりげなく戦斧の間合いから外れた所へといざなう。万が一、乙女の髪ひとすじでも損なわれようものならば、勇敢なる砦のご婦人がたはまことに容赦のない仕打ちを<狼>たちに罰として下されることだろうから。


 いくさに揺れる時世でさえなければ、今ごろは皆で歌い踊り満ちる緑をことほぐ祝祭の季節だ。だが、アーケヴに暗き影を落とすものたちが跋扈するようになってから、そうした催しをとり行う心のゆとりなど人々の間から失われて久しくなっていた。

 来たるべき日に備え、新たに組まれた部隊の動きを確かめんと、魔物の討伐をも兼ねた教練を行っているはずなのだが――

 何しろ、冬が長すぎた。

 雪が降らぬ限り毎日のように行われた修練も、近くの森で週に一度は催された狩りもまるで物足りなかったか。

 <帰らずの森>に入ったとたん、襲いかかってくる異形に怯んだ騎士見習いたちに飛んだのは灰色狼の咆哮だった。

「生き延びたければ、よく見ておけッ」 

 右頬から顎にかけて、古い戦傷をはしらせた副団長が合図をするやいなや、まさにこの時を待ちわびていたと言わんばかりの猛者たちの雄叫びと、ぎらつく鋼の輝きとが木漏れ日を跳ね返し森を満たすこととなった。

 春とともに蠢きだし、森ゆく獣や人の血肉を貪ろうとしていた魔物たちにとっては不幸なめぐりあわせ。なまりそうな腕と退屈とを相当にもてあましていたらしい、立ちはだかるものに牙を以て食らいつく<狼>たちのまあ何とも楽しげなさまときたら!

 まさに力と力のぶつかり合い、売られた喧嘩は派手に買え。

 一方で、それ今のうちじゃとガスパール師が呼ばわると、安全なところに身をひそめていた弟子たちがひょっこりと顔を出し、籠にジェムベリーや薬草を次々と集めてはさささと退いていくさまは、これまた何とも奇妙な光景ではあったのだけれど。


「こんなベリー摘み、はじめてです」

 呟くダウフトの側を、一匹の魔物が悲鳴を上げながら飛び去っていく。それを追うように、空を切って飛んできた矢が真横をかすめ木の幹に深々と突き立ったときには、さしもの娘も瞳を潤ませてリシャールを見上げてきた。

「確かに、めったにない催しではありますね」

 言ったそばから、格好の相手を見つけたらしいウルリックの豪快な叫びがこだまする。そら逃げろ、頭をかち割られるぞと慌てる兵士たちの声が飛び交うのを耳にして、リシャールは再びダウフトを<熊>の戦斧が及ばぬ位置へと下がらせた。

「これが砦なりの、春の祝祭と思っていただければ」

 剣の一閃とともに、両断され勢いを失した矢が地面に転がるのを確かめて。双の琥珀を険しくした騎士は、下手くそな射手に向かいエクセターの古語でまくし立てた。何ておっしゃったんですかと問うた娘に、大したことではと柔和な笑みではぐらかす。

「どうやら、レネ殿が待っておられるようです」

 リシャールのまなざしをダウフトが追う。豊かな金髪を編み上げ、動きやすい服の上から革の胴衣を纏った娘が、石柱の側からにこにこと手を振っている。

「向こうならば、<熊>の一撃も矢も飛んではきますまい。籠いっぱいにベリーや薬草を満たせますよ」

「リシャールさま、気をつけてくださいね」

「案ずるには及びません。我ら<狼>には、守り姫のご加護がありますゆえ」

「まあ」

 からかわないでくださいと笑うと、ダウフトは行ってきますとリシャールに告げてレネのもとへと走っていく。降りそそぐ木漏れ日に赤みがかった栗色の髪が照り映えるさまを見て、せっかくの好機に何をぼんやりしているのやらと呟いた騎士だったが。

 ふとまなざしを向けた先で見かけた姿に、琥珀の双眸を興味深げに輝かせることとなる。



              ◆ ◆ ◆



「ダウフトさま」

 いにしえの王国の名残をとどめる、苔むす石柱がたたずむ茂みへと足を踏み入れたダウフトを、先に来ていたレネがどうぞこちらへと手招きする。

「魔物はだいじょうぶですか、レネ」

「ええ。さっき小鬼が出てきましたけれど、一発平手をお見舞いしてやりました」

 わたしに刃向かおうなんて百年早いんですからと胸を張る金髪娘に、ダウフトはそうですかと笑うしかない。おっかなびっくり森の様子をうかがっている新米騎士たちに比べたら、レネのほうがよほど楽しそうに動き回り、ジェムベリーや薬草を手にした籠へ摘みとっている。まこと、レネ嬢が騎士であらぬことが惜しまれるわと、ふがいない部下たちを睨みながら副団長が呟いたほどだ。

「リシャールさまと、何をお話していましたの?」

 鮮やかな緑によく映えるベリーの紅い彩りを籠へと添えながら、ときどき一粒を口に放り込んでは甘酸っぱい味わいを楽しむダウフトに、興味津々といった顔でレネが問いかけてくる。

「斧とか矢とかに気をつけよう、そういう話です」

 のんびりとしたいらえに、金髪娘はなあんだとがっかりしたそぶりを見せた。

「わたくしはてっきり、何かとっておきのお話かと思っていましたわ」

 目を丸くするダウフトに、いたずらっぽい笑みをうかべて声をひそめて、

「どこかの騎士さまと、ふたりきりになれる格好の場所とか」

「れ、レネっ」

 たちまち顔に暁を散らす娘に、いいではありませんかとすこし真剣に鳶色の瞳を向けてくる。

「いくさが始まれば、いつこんな機会がやってくるか分かりませんわ。砦の中庭は人目につきますし、近頃は書庫にもお邪魔虫がやってくるようになりましたもの」

 しかもわたしの目を盗んでと、金髪娘は鼻息を荒くする。書庫で起きたちょっとした騒ぎの後、わがまま侯子が本を読みにかの場所を頻繁に訪れるようになったことは、おい天変地異の前触れかと人々の間で怖れられていたからだ。

「あの、ギルバートはいろいろと忙し」

「いいんです」

 どこまでものんきなあるじに、決断を促すかのようにレネは言い切る。

「この際、お役目なんてどこかに放っておいたってかまいません。まずはお二人でというところが肝心です」

 女は度胸ですわよ、と詰め寄ってくるレネの勢いがすこし怖い。副団長が泣きたくなるようなことを言わないでくださいと応じようとしたダウフトだったが、すぐ側まで迫っていた害意に気づくのが遅れたらしい。

 茂みを揺らす音とともに、小鬼が爪を閃かせ飛びかかってくる。

 とっさに動くことができずに娘たちが悲鳴をあげかけたとき、短い叫びとともに魔性が地に転がった。その身に突き立てられた短剣に頭をめぐらせると、ジェムベリーの群生からやや離れた所で、気を抜くなと言いたげな顔で黒髪の騎士が立っている。

 ほっとした表情を見せるダウフトに、ギルバートは無言のまま娘の足元を指し示す。つられてまなざしを下へと向け、靴先で今にも踏みつけそうになっていた花に気づき、ダウフトは慌てて足をどけた。

「あら、これ」

 風にさやと揺れる可憐を見たレネが、くすりと笑う。

「ダウフトさまのお気に入りではありませんこと?」

 言われてふたたび足元を見れば、確かにそのとおりであることにダウフトは気づく。顔を上げたものの、堅物男はすでに娘たちに背を向けて、人や魔物の声、刀剣や牙がぶつかり合う音に耳をそばだてている。

「摘んではいかがですか」

 きっと勧めてくださったのですわとにこにことするレネにうなずきながらも、しばし騎士の背中を見つめていたのだが。

 ふいに、アーケヴの<狼>たちの色――鎖かたびらの上から羽織られた、常緑に白の騎士団章が入ったサーコートに包まれた姿が動いた。新たな魔物でも見つけたのか、速い足取りで木々の間を進んでゆくギルバートを、どこへ行くのかと見ていたダウフトの背をそっと押す手があった。

「行ってらっしゃいませ」

 わたくしのことはご心配なくと片目をつむってみせると、レネは通りかかったひとりの新米騎士に、少しの間ここで守ってくださらないかしらと笑いかける。

 あなたをですか?と驚く騎士を、まあかよわい乙女をこんな所に一人きりにしようというのと睨みつつ、早くと促してくる金髪娘にうなずいてみせると、ダウフトは木々の向こうに紛れようとしている黒髪の騎士を追った。

 敷石で舗装された砦や町とは違い、低木や生い茂る草が行く手を阻む。加えて、幼い頃から騎士として修練を積んできた男と、野山を駆け回っていたとはいえのどかな村で生まれ育った娘とでは体力の差が歴然としている。

 開いていくばかりの距離を、それでも何とか縮めようとダウフトは懸命に歩みを進めていく。


 なんだか、兄さんのあとをついていったときみたい。


 おまえがいると兎が逃げちゃうだろ、絶対に来るなよ。

 そう言われたにもかかわらず、こっそりついてきた幼い妹が節くれだった木の根に足をひっかけて転ぶのを見るや、ほら見ろと手を貸してきた亡兄と似かよった仕草を、ときどき無愛想な騎士に見ることがある。

 違うのは、ギルバートが自分の兄ではないということ、それだけだ。


 ふと気づけば、緑のなかに取り残されたのは自分ひとり。

 あやかしの森にふさわしく、周りの木々が高く伸び上がり迫ってくる幻を見たような気がして、たまらず駆け出したダウフトだったが、行く手を遮る枝を払いのけたとたん視界いっぱいに広がった常緑に思わず声を上げる。

「何をしている」

 こわごわ顔を上げてみれば、黒い双眸に驚きをたたえて騎士がこちらを振り返っている。その前を素早く駆けぬけていく茶色い影――一頭の牝鹿が茂みから飛び出し森の奥へと逃げ去っていくさまに、どうやら子供のときと同じ失敗をしでかしたらしいとダウフトは悟った。

「ごめんなさい」

 てっきり怒られるとばかり思ったが、騎士はさして気にもしていないようだった。

「エフラムの二の舞はまっぴらだ」

 掟を破り、孕んだ牝鹿を狩ったばかりに森に呪われた王の名を挙げると、ギルバートはいつまでしがみついているつもりだと逆に問うてくる。両手につかんだ常緑がサーコートの生地であること、すぐそばに広い背や逞しい腕があることに気づき、ダウフトは慌てて身を離した。


「籠にベリーを満たして帰るのだろう?」

 娘が携えた籠の中身に、ギルバートはかるく溜息をつく。砦を出発した時に、元気よく掲げた目標にはほど遠いことを静かに指摘されて、ダウフトは負けじと騎士を見返した。

「もちろんです。ノリスさんから香草だって頼まれていますし」

「何といっても、報酬はジェムベリーのパイ丸ごとだからな」

「ど、どうしてそれを」

 内緒のはなしだったのにと驚くダウフトを、双の漆黒で一瞥して、

「蜂蜜の菓子と卵のプディング、パン・デピスに洋梨の砂糖煮。それから?」

「……ジャムつきのビスケットもです」

 甘い菓子に釣られたことがばれて顔を赤らめながらも、でもわたしがぜんぶ食べるわけじゃありませんと言い返す。

「おぬしならやりかねんが、それではリーヴスラシルが気の毒すぎるな」

 のんびり屋の牝馬の名を口にして、どういう意味ですかとふくれる娘にはかまうことなく、騎士はそばにあった灌木へと手を伸ばす。

 籠に集められたジェムベリーを潰さぬようにと、ふわりと加えられた緑の彩り。こころよい香りを放つ薬草に、ダウフトは目を丸くして騎士を見つめた。

「やっと粥を口にできるくらいだろう。モリスに要るのは菓子より薬だ」

「ギルバート、知っていたんですか」

「偶然だ」

 ブリューナクの様子を見に厩舎を訪れてみれば、ふだんは雷ばかり落としている親方がやけにおろおろとしていた。何があったのかと薬湯を煎じているおかみに尋ねてみれば、彼女の指し示す先で馬丁見習いの子供が熱にうなされていたのだとか。

「うろちょろしたって何の役にも立ちゃしないんだから、さっさと馬たちの様子でも見に行っといで」

 そう言われて女房に家から叩き出された親方に、滋養のつくものでも持って行ってやったらどうかと勧めてともに厨房へ向かってみれば、祝祭でもないのにたくさんの菓子の仕込みにいそしむ料理長の姿があった。ダウフト曰く秘密の取り引きとやらも、そのときに聞いたのだという。

「子供にはよくあることだとおかみはのんびりしていたが、親方こそ薬湯でも要りそうだったな」

 言いながら、ギルバートはまた籠へ緑の束を加えてくる。それが、猫たちがうっとりと身をすり寄せる一方で、煎じて飲めば気分を鎮める薬草であることにダウフトは気づく。

「詳しいんですね」

「三年前に本隊とはぐれた時は、野草の葉や茎で飢えをしのいだ」

 食用に適したもの、傷や病に効くもの、動物たちがたいそう好むもの。いくさに明け暮れるなか、剣ばかりではなくそうしたこともたびたび身の助けになったとギルバートは語る。

「それも本に書いてあるんですか?」

 書庫で騎士が手に取る、不思議な魔法をダウフトは思い出す。手の内に収まるほどの四角い紙の束、そこに息づくさまざまな叡智の結晶を、限りなく広がるあらゆる<おもい>を読み解く力は、まだ自分にはなかったのだけれど。

「いや、たいていは兄からの」

 意外な言葉に、ダウフトは緑の瞳を見開く。

「ギルバート、お兄さまがいたんですか」

 娘の問いに、余計なことを口にしたとでも言いたげな顔になり――背を向けようとした騎士のサーコートをふたたび掴んでいた。

「聞かせてください」

 騎士であった父はとうに亡くなり、故郷で母と姉とふたりの妹がギルバートの帰りを待っていることは知っていた。だが、彼に兄がいたと聞くのは初めてだ。

「だめですか」

 話すことなどないと、冷ややかに応じられるかもしれない。手を離せと、突き放すような言葉が返ってくるかもしれない。黙って自分を見ていた双眸が森へとそらされたことに、もしかすると騎士の心に土足で踏みこむような真似をしてしまったのかとダウフトが泣きたくなったとき、

「兄といっても、十四も年上だった」

 木々に目を向けたまま、ギルバートがぽつりと口を開いた。

「俺が物心ついた時には、もう一人前の騎士だった。忙しい父に代わって、舘に残った母や姉、それに妹たちを守っていたのも」

 近隣では名うてのいたずら小僧だったリシャールが、「兄上や姉上のおうぼうにたえかねて」家出を決行するたびに、まあ夕飯でも食べていけとうまくなだめて舘に留めていた。

 あんななまくらは見たことがござらぬと、主家の次男坊の剣を評した老兵がこぼしたときも、わたしの指南役を務めたときにも同じことを言っていたぞと鷹揚に笑っていた。

 言葉少なではあったけれど、兄の姿を語る騎士の表情が、書庫で本と向かい合っている時と同じものであることにダウフトは気づく。

「字を教わったのも?」

 以前どうしてもとせがんだとき、ギルバートが仕方なさそうに揃えたものの中に一冊の教本があった。ずいぶんと使いこまれ、表紙さえ取れてしまいそうなその本を、なぜか彼はとても大切に扱っていたものだから。

「兄だ。父の本にリシャールと落書きをしたことがばれて、怒られる代わりにしっかり学べと」

「ギルバートの本好きは、そこからですね」

 微笑ましい光景が、ダウフトの脳裏に浮かぶ。

 明るい光が降り注ぐ一室で、穏やかな目をした若者が本を広げる傍らで、懸命に表音文字や簡単な綴りを書き写している黒髪の子供。できましたと弟が得意げに差し出した紙を受け取ってしばし眺め、bとdの綴りを変えてみるといいと、やんわりと笑って訂正を促してみせる兄。

 それは確かにあったに違いない、満ち足りた幸福な日々だったのだろう。


「お兄さまは、どうしておられるんですか」

「死んだ」

 愕然とするダウフトに視線を戻すことなく、ギルバートは続ける。

「十二年前の侵攻に、エクセターも巻き込まれた。父も兄も、叔父も従兄弟たちも――他家の男たちといくさ場に赴いてそれきりだ」

 勇ましいみやげ話も持ってくるかと笑いながら発っていった父と兄は、小さな木箱をからりと鳴らす小石だけを残して帰ってきた。くずれおれる母を支える姉と、幼すぎて何が起きたのか理解できずにいた妹たちと、主家を襲った不幸に怯える召使いたちの姿とを、剣の稽古よりも本を広げているほうが好きだった子供は目の当たりにすることになった。

「だから、俺がエクセターの名を継いだ」

 よくある話だと、淡々と語る声にも表情にもゆらぎはなかった。

「ダウフト?」

 問いかけるギルバートに、何でもありませんと答えて下を向いた。じわりと目ににじんできたものを見られたくはなかったからだ。


 あれの心は、かたくなによろった鋼と同じです。何ものにも揺るがぬように見えながら、その実もろい。

 糸車の向こうでリシャールが呟いていた言葉の意味、その一端を知ったような気がした。

 確かに、どこにでもある話なのかもしれない。アーケヴのあちこちで、今日も誰かが何かを喪っていることだけは揺るがぬ事実だったから。

 ダウフト自身、東の砦で暮らすようになってからも、ふとした折に故郷や家族のことを思い出しては、誰かに見られないようにと急いで瞼をぬぐうことだけは変わらなかった。

 夏の森で、魔族の手にかかった父母のことを語っていたレオも、母ちゃんはいつ迎えに来るのと無邪気に尋ねては大人たちを黙させるアネットも、家族や近しい者の生命と引き替えに今日まで生き永らえてきたという砦の者たちも――

 喪って悲しいのは、騎士であろうと村娘であろうと変わりはないはずなのに。


「また泣いているのか」

 頬に触れたのは、革手袋に包まれた手だった。そっとおとがいを持ち上げられた先には、だから話したくはなかったのにと渋面をつくるギルバートの姿がある。

 いくさ場で傷を受けたとき、人とのすれ違いに落ち込んだとき、ふと寂しさを覚えたとき。さまざまなことでダウフトが目を潤ませるのはいつものこと。今もまた、彼の話を聞いたばかりに故郷や家族のことを思い出してしまったと騎士はとらえたらしい。

「いっそ、泣き虫ダウフトにでも呼び名を変えたらどうだ」

 <髪あかきダウフト>よりずっとましだと呟いて、離れようとする手を自分の両手で包んでいた。表情に戸惑いをにじませたギルバートへと、静かにまなざしを向ける。

「わたしが泣き虫なら、誰かさんは意地っ張りです」

 抱きかかえた形見の剣の重さによろめきながら、慈悲なきフォルトゥナが穿った痛みを懸命にこらえていた黒髪の子供は、いつしか同じ剣を手に携えた騎士となっていくさ場に立った。

 過ぎたことだと口にしようとも、涙こぼすことを忘れようとしても、まなざしに、表情に、声に、いまだ溶けぬ氷のように心を縛るかなしみが残っているというのに。

「ギルバート」

 口ほどにもないと突き放そうとしながら、まだ修練を続けようとするレオがよろめき立ち上がるまで待っている。

 藁の山と馬泥棒がたどる末路から引きずり出されたモリスが、気むずかし屋の黒鹿毛とブラシをかけるかけないで大騒ぎを繰り広げるさまに呆れている。

「エクセターのギルバート」

 鋼の下に、ほんとうの心を隠した騎士さまは。

「いつ、泣くのですか」

 いつ、わらうことができるのですか。


 赤みがかった栗色の髪に手が触れた。

「情知らずの娘」

 森が見せるまやかしだと、人前に現れては心惑わせる妖精の名を騎士は呟く。

「まやかしに、ぬくみが通っているはずが」

 わたしは妖精なんかじゃと口にしかけた言葉は、近づいてきた鈍い輝きと常緑に消えた。夜を思わせる双眸の向こうにゆらぐ、怖れめいたものをダウフトが間近に見たときだ。


 がさりばきりと、物音がした。ついでに、あわてふためく声も二つみっつほど。


「ギルバート?」

「動くな」

 問いかける娘から身を離し、いつものぶっきらぼうな口調と表情で応じると、黒髪の騎士はベルトに下げた物入れを探って何やら取りだした。

「煙玉なんて、どうするんですか」

 はるか東方から伝えられた、敵を攪乱させるために使われる小さなからくりを手にする男に問いかけたが、

「見ていれば分かる」

 それだけ言うと、ギルバートは手にしたものをすぐそばの茂みに向かって投げつけ――

「ななな、何だッ」

「うっ、こりゃたまら……」

「ばか、声を出す――誰ださっきから俺の足を踏む奴は」

 緑から白へ、あたり一面に広がる煙の中ごほごほと咳こむ聞き慣れた人々の声と、何やら硬いものがぶつかり合う音と。

 ついで転がり出てきた幾人もの人間に、ダウフトは唖然とする。なんと森のあちこちで、魔物と対峙しているはずの<狼>たちではないか!

「何をしている」

 一気に季節を逆戻りさせたかのようなギルバートの問いにも、大したことではと悪びれる風もなく応じたのはリシャールだった。

「俺たちには構わず、どうか心おきなく続けてくれたまえ」

 琥珀の騎士に続いたのは、お調子者の西の騎士だ。

「まあ何だ、さしずめおぬしが後で往生際の悪いところを見せぬための証人というか」

 けろりと言ってのけるサイモンに、そうなのか俺たちってと互いに首をかしげあう<狼>たち。いったい何の証人ですかと、新緑を彩る果実よりも熟れた顔でダウフトは口をぱくぱくさせる。

 つまり、リシャールやサイモンそれに他の騎士たちは、茂みの向こうで自分たちの話を聞いていたというわけだ。

 聞いていたということは、当然ながら黒髪の騎士が自分を引き寄せようとしていたところまで見ていたということで。

「ここまで来たら、もう退くわけにはいかんだろう。ギルバート」

「ひよこたちの子守りは任せておけ、副団長にはうまいこと言っといてやるから」

 半日ぐらい消えても大丈夫だからなと、どこまでも朗らかに笑い合う男たちだったが、

「消えるのはおぬしらの命運だろうがッ」

 ぎらりと輝いた鋼に、そら見ろエクセターが怒った、だから身を乗り出すなと言っただろうがと蜘蛛の子を散らすように騎士たちが逃げ出していく。あまりの素早さに、さっきの牝鹿とどっちが早いかしらなどと、ほてった顔を鎮めながらダウフトは思ったのだが。

 ふと目をやれば、リシャールと同じように聞き慣れない言葉で何やら並べ立てている黒髪の騎士に気づく。

「あの、ギルバート」

「あやつら、煽りに来たのか邪魔をしに来――」

 ぽろりと口にしかけた言葉を止めて、それきり黙ってしまったギルバートに、はてどうしたのかとダウフトが顔をのぞき込もうとすると、

「早くベリーを摘んだらどうだ」

 まだ籠を満たしていないだろうと、背を向けたまま騎士は言い放つ。

「耳が真っ赤ですよ」

 からかう娘に俺はベリーではないぞと応じたものの、意地を張れば張るほどにどうにも身動きがとりにくくなっているらしい。


「ギルバート」

 自分を見ようともしない騎士に近づいて、背にそっと頭を寄せた。それが、鎖かたびらの向こうに隠されたぬくみに伝わるかどうかは分からなかったけれど。

「今度は、もっと奥に行きましょうか」

 娘の口から飛び出した言葉に、ギルバートがうなった。言っている意味が分かっているのかと問いたげな姿に、たまにはいいでしょうと呟く。

「<ヒルデブランド>も鎧兜もぜんぶ置いて、そうしたら少しは身軽になれます」

 腰に佩いた聖剣が、自らの存在を主張するかのように重い音を立てた。明るい双の緑に森の影を刹那落としたものの、気にするまいと微笑んでダウフトはことばを続けた。

「わたしを探してください」

 母から子へ、乳とともに伝えられた<おもい>。臥所の向こうに居ます乙女のごとく隠された妙なることばを。

 それを知るものは、生命を与えた母のほかにはただひとりなのだから。

「……どうやって?」

 剣で斬ることも槍で突くことも能わぬ、母たちのしかけた謎に踏み込んだときの騒ぎを思い出したのか。おそるおそる振り返り問うてくるギルバートを、ダウフトはやんわりと受け流す。

「それを言ったら、試練になりません」

 うっかり者の故郷では、子に真名を与える風習が失われていることを後になってリシャールから聞いた。そうした事情があったのならと、別の名を綴ってやるから言ってみろなどと口にしたときのギルバートの態度にも納得がいった。

 ただ。その悪気のなさこそが、かえってダウフトにはがっかりするような、腹立たしいようなおもいを抱かせたのだけれど。

「答えになっていないぞ」

 眉をしかめる騎士に、そうですよと答えてダウフトは身を翻した。

「簡単なことですから」

「ダウフト――」

 どこまでも自分を惑わせる、何とも腹立たしい小娘をつかまえようとした騎士が、枝にサーコートをひっかけて立ち往生するさまにたまらず笑い出し、慌てんぼさんと声を弾ませた。こら待てと声を上げるギルバートをその場に残し、レネが待つベリーの茂みを目指して戻っていく。


 簡単すぎて、誰もすぐには気がつかない。けれどそこに至るまでが、求める者にとっての試練なんだよ。

 まあ、誰かさんもさんざん苦労したっけねえと笑っていた祖母や母、憮然としていた父の姿を思い出して、そっと後ろを振り返る。

 どうやら森に囚われた騎士殿は、まだ悪戦苦闘の真っ最中。やっとのことで枝を取り除き娘を追おうとしたものの、また別の枝に襟を引っかけられて払いのけようと躍起になっている。

 砦に帰ってからが怖いかもとちょっと不安もよぎったが、でもたまにはいいかしらと思い直して。

 レネにいろいろ聞かれたら、何から話そうかとすこし悩みながら、満ちるやさしい緑の中を戻ってゆくダウフトだった。

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