ひとを好きになる感覚を

 ひとを好きになる感覚を、疑っている。否、わたしの中には、確かにそれらしき感情があって、それでいて直視できずにいる、認められずにいる。

 認めてしまえばきっと、わたしを保ってきた、わたしの芯を構成するものの一部を失うことになる。崖の縁でつま先立ちして、やっと安定していた我が身を、谷底へ突き落すことになる。……そんなふうに思うのだ。


 海辺に風はなく、微かな潮のにおいは心地よく、彼女の手は冷たかった。

 まっくろの、重たい海には、遠い対岸の光が映りこみ、揺蕩う水面に、頼りなく伸び縮みしている。不定形で、つかみどころのない、白々しい光に、知らず馴染み深さを覚え、じっと見つめた。

 わたしとは、ああしたもののはずだった。借りものの光を振りまいて、自己主張の真似事をしながら、己の輪郭さえ定まらず、景色の賑やかしにも不足する。それならば街明かりの残骸として、海底に沈んで消えてしまえばいいと思っていた。

 死ぬにも値しない、薄べったい生を享受して、やっと何ももたない己を諦めることができていたのに。生きている価値や意味に、未練を見出してしまったなら、自分を形作っているものが、如何に取るに足らないものであるか、自覚せねばならなくなる。

 だから、ひとを好きになる感覚を疑っていた。認めてしまったなら、自分にも、他人にも、多くを望みたくなるだろう。そして、自分に失望するのだろう。

 彼女の手に、僅かな力がこもる。手を引かれたまま、海辺を歩く。ただそれだけのことで、堪らないほどの喜びを感じて、そんな自分にひどく戸惑って、嫌悪する。なにをしたところで、同じだけの喜びを、返すことなどできないように思えてくる。

 そうやって不安感に浸りながらも、同時に紛れもなく内心のほとんどを占めるのは幸福感であったし、この手はやはり放し難いのだ。

 見上げた星空が、ただ綺麗だった。

 「……都会のくせに」

 同じく空を見上げて、しかし彼女は悪態を吐く。

 思わず、笑いがこみあげた。

 彼女の飾らぬ言葉を、羨ましく思う。そこに短慮のえぐみを嗅ぎ取れないのは、わたしが浮かれているせいだろうか。いやおそらくは、決して多くを語らない彼女の、内心に渦を巻く様々の思いのうち、躊躇いや遠慮によって篩にかかり、ようやく転び出たひとことだから、ほほえましく思えるのだろう。

 彼女のように、自分自身の言葉を話せたならと思う。しかしほんとうの自分に、価値の置きどころが見当たらない。さりとて、飾り立てた自分は空々しい。肩越しに伝わる重さや温もりを、どうして受け止められようか。

 あれこれ理由を述べて、受け止めるのが、ただ怖いだけなのだということも、わかってはいるけれど。

 好きというただ一言に集約された、多くの感情や行動によって形作られる、己がとるべき選択肢の奔流に怯えている。そこに伴う責任から、逃れようとしている。矮小だとか、漢語を使うことも憚られるような、ただただみみっちい人間性を、露呈することが恐ろしいのだ。

 だからと、彼女の隣にいることを、諦めたくはなくて。

 彼女の腕に、我が身を寄せる。握る手に力をこめる。どうしたら一緒にいることを許されるのか、わたしにはまだわからない。けれども、今このときくらいは、彼女のように、自分の言葉を口にしてみたくて。

 「……それでも、きれいだよ」

 むつかしいもので、やはり、ありきたりな物言いにしかならないのだった。

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