蜘蛛を穿つ探偵

 もはや俺に止まる余地はなかった。九番街。昼間、追い詰めたはずのカエルに逃げられた倉庫群。その一つに、教えられたアジトがあった。彼は帰したが、俺でも場所はすぐに分かった。


「よし」


 サワラビ謹製の、聴診器めいた物体を取り出す。ダイヤル調整によっては壁越しに言葉を聞き取れる、簡易的な盗聴器だ。さっそく倉庫の外壁に当て、音を聞き取る。数回ダイヤルを回すと、明瞭な声。いや、悲鳴が耳を切り裂いた。


「アアアーーーッッッ!!!」


「っ!?」


 俺はたまらずに駆け出した。扉に銃弾を叩き込み、右奥歯を噛み、力を込める。一瞬の閃光。服の下に、装甲が現れる。バキィと音を立て、鉄門が壊れた。瞬間。


「~~~~~~~~ッッッ!」


 聞き取ることすらできない悲鳴を上げる、人の群れ。突っ込んで来る。五人。いや、四人とカエルが一匹。全員白目で、口に火のついたダイナマイトを括り付けられている。これは。


「チイイイッッッ!」


 カエルが伸し掛かってくる。腹に拳を叩き込む。唸り声。だが先刻と違ってひるまない。立ち止まったところを、左右から拘束される。装甲を纏っても破けぬ一張羅が、引き裂かれそうだ。手足を掴まれ、引き倒され。閃光とともに――



 ――キミは、そのスタイルがお気に入りなのかい?

 ――ああ。気に入っている。気に入ってるからこそ、扱いが難しい。纏えば隠れ、着れば纏うにも迷いが出る。

 ――ふむ。それはモチベーションにも関わるな。ならば、ボクが特別の一張羅にしてやろう。


 脳裏に浮かぶ、幾年か前の記憶。走馬灯か。否。目の前に散らばる血肉への罪悪感だ。己の覚悟で向かってきた訳でもない男たちへの、独りよがりの懺悔だ。装甲越しに捉えた散華は、あまりにも――


「すまない」


 虚しい言葉を、俺は吐いた。同時に、傷一つない身を起こし、前を見る。無為に終わった火薬の臭いが、鼻につく。前方に立つ生物を、俺は心の底から侮蔑した。


「どんな輩が上層に食いついたかと思ったが、ただの小狡い悪党だったか」


 詐欺の先陣を切り、仲間を操って肉弾とした悪党は、人の姿を失っていた。彼は蜘蛛型の怪人ではなく、身長の半分ほどの高さを持つ大蜘蛛に成り果てていた。俺の数十メートル先で、八本の足をバタつかせていた。


「なぜだ、戻らねえ! お、俺はこんな姿になりたかったんじゃ」


「ないだろうな。だが【ビースト】にはそういう効果がある」


 大蜘蛛を相手に、俺は間合いを詰める。俺もいずれは、そちらへ行くことになるだろう。だが。


「嫌だ! 俺は人間だ!」


「もう遅い。おまえはポイント・オブ・ノーリターンを越えた。【ビースト】に頼りすぎた」


 今ではない。


「うるさあああい!!!」


 蜘蛛の口から吐き出されるは、まさに凶悪な糸。蜘蛛の巣状に広がり、俺を捕らえ、はりつけにしようとする。下手にガードすればトリモチにもなりかねないそれを、俺は最小限のステップでかわす。かわす。かわす。かわす。


「こ、の」


「毒蜘蛛でなくてよかった。さすがに一張羅がイカれてしまうからな」


「ぢぐじょおおお!!!」


 跳ぶ。空へ打ち上げられる糸。宙返りでかわす。上から見た大蜘蛛は、人が寝そべったような大きさだった。


「的がデカいな」


 独りごち、右足を伸ばし、重力に身を預ける。ど真ん中めがけて、鉄槌を下す――!


「じゃあな、向こうでまた会おう」


 俺の脚が、蜘蛛を貫く。断末魔が、肉の爆ぜる音が、まぜこぜで俺の耳をぶっ叩く。ブルシットなノイズだが、気にしてはいられない。俺は立膝で着地し、そのまま前転で肉片を避け、立ち上がった。


「許しは請わん。だが、悼ませてくれ」


 散らされた肉片を想い、俺は胸の前で十字を切った。


 ***


 装甲を纏った日の夜は、どうしても眠りにつけない。それが俺の習性だった。俺は事務所の椅子で、まんじりともせず部屋を見ていた。少しだけ片付いた部屋が、俺の目を手持ち無沙汰にしていた。


「やはり、眠れないか」


 サワラビは俺のメンテナンスを終えてなお、長椅子で作業に徹していた。そんな彼女が不意に顔を上げ、尋ねてきた。目の下には濃ゆいクマ。いつもの通りに、おざなりな風貌だった。俺は苦笑をこぼし、言葉を返した。


「ああ、眠れんよ。戦った日の夜だけは、なにをどうしても怖い。怖くて眠れん。朝起きたら【ビースト】が目覚め、俺の顔が獅子のそれになっている。俺が俺でなくなっている。そういう恐怖が、俺のうちにある」


「そうか」


 サワラビの反応は、淡々としていた。当たり前だ。もう幾度となく、この会話は交わしている。それでもなお続けるのは。


「大丈夫だ」


 芝居がかるでもなく、サワラビが俺の椅子に近づいてきた。一瞬だけ隣室の戸に目をやる。


「サーニャ嬢なら君が帰って来る前に寝たよ。おかんむりだったせいか、あちこち片付けてくれたけどね」


「正直、腹立たしいな。目のやり場がない」


「それは知らんな。だが、覚悟しておけ。おそらくあの子は徹底的にやる。どうせなら健康的になってしまえ」


 俺の膝に、彼女が乗る。目が合う。女の香りよりも、ケミカルなそれのほうが強い。目のクマといい、まったくもって絵にならない姿だ。なまじ胸があるだけ、余計にだ。俺はたまらず目をそらし、言葉を吐き出した。


「勘弁してくれ」


「そうもいかないよ。サーニャ嬢の意味でも、ボクの意味でもね」


「むう」


 その唸りが、なにを意味していたのか。もしくは意味のない声だったのか。俺自身にすら分からなかった。サワラビの右手が、俺の頬に伸びた。


「うん。キミは正気で、人間だよ。ボクが保証する。キミはまだ、『人間』だ。ボクは今、キミに触れた。しかしキミの顔は、人間そのものだ」


 潤いのない、ガサガサの手が、俺の頬をなでていく。なのに、奇妙な温かみがあった。撫でられるうちに、俺の呼吸が整っていく。


「試作品、【キマイラ・ビースト】。キミがかつて、強引に注入された薬剤。それはたしかに、恐るべき力を持つ」


 サワラビの手が、俺の顔から身体へ伸びる。せっかく一張羅から着替えたのに、前のボタンが外されていく。その下には、生まれたままの姿。それなりに鍛えた胸板があった。


「見たまえ」


「見ている」


「よろしい。キミはキマイラの力を幾度も解放している。【ビースト】に呑まれても、おかしくない程度にだ。だがキミは、こうして人間を保っている」


「ああ」


「ほかならぬボクの功績だ」


「言ってろ」


 これもまた、お決まりのやり取り。だが、今回は違った。サワラビの、深淵を湛えた瞳が、俺に絡みついていた。彼女は再度、口を開いた。


「言うさ。だから言う。キミが恐怖に震えるならば、ボクは寄り添う。それが、キミをいじくった者としての責任だ」


「代わりに持ち込んだ話は聞いてくれ、か。ま、十分にありがたいんだがな。生命に関わる装置のお代としちゃ、破格に過ぎる」


「そういうことだ。いずれにせよ、【製薬会社かいしゃ】絡みだ。また一歩、目的に進める」


 サワラビの手が、俺の胸板をなでた。男の胸なんかさすって、なにが楽しいやら。妙に苛立たしくなり、俺は彼女を抱き寄せ、胸板で黙らせた。


「わぷ」


「言ってろ。あと、アレだ。先方への報告書だけ練っといてくれ。清書はやる」


「ん」


 女は小さく返事をしたきり、なにも言わなかった。俺はそのまま朝を迎えて――


「ゆうべはお楽しみでしたね」


「違う」


 見事に誤解を解くハメになった。



 第一話・完


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