祖父と里世 後編
こんな小さな町でも暗いイジメは存在した。子供のころ、あたしは近所のどの子よ
りもじょうずに自転車を乗りこなし、竹馬をあやつった。木のぼりでも誰にも負けな
かった。一目をおかれる存在だった。だからあたしの場合、そうした過去があったこ
とが周囲の子らに知られれば、ここぞとばかりにかっこうの
だろう。もしもあたしが、弱虫だったなら。 だから祖父は──。
「おじいちゃん……」
祖父は、ただ泣いていた。ハラハラ、ハラハラと涙を流していた。戦場へおもむく
前日、桜の花が舞い散る中、彼は里世の前で、こんな風に泣いたのかもしれない。
「あたしが好き?」 あたしは、彼にそっと体をあずけた。しどろもどろになり、あ
わてふためく彼を
「好き?」
ふたたびわたしは問う。
「ああ、ああ、好きだよ。愛してるよ!」
彼がいった。嬉しい!!
「抱いて。強く、強く、抱いて……」
彼はためらっていた。どうして? 昔みたく、強く抱きしめてよ……。
「いいのかい? お、おじいちゃん、臭くないのかい?」
「バカじゃないの? アナタはいいかおりよ。わたしはアナタのかおりが好きよ」
無限に舞いおどる花吹雪の中で、わたしたちは何時間も抱きしめあった。
しあわせな時間、永遠につづいてほしかった時間。すぎてしまった時間。
「里世、愛してる……里世……」
わたしも、愛してる……。
ガコン! 不意に頭をうって、あたしは目をさました。
──は? え!? なんだったの? 今のは!?
おじいちゃんの病室だった。
うたた寝をしていてパイプいすから転げおちたらしい。
……夢? 夢なのか? なんだか胸さわぎがした。あたしはすがるように祖父のベッ
ドにつかまり、立ちあがった。
「おじいちゃん……」
祖父は、息をしていなかった。
「嘘……」
しかしながら……。
「おじいちゃん! おじいちゃん!!」
最近では表情すら失っていた祖父の口元が、うっすらと笑っているように、あたし
には見えた。とても安らかな死に顔に、あたしには見えた。
お通夜があけ、告別式の朝をむかえた。おおぜいの弔問客がおとずれた。みな一様
に泣いていた。あたしの子供時代からの友だちもたくさんきてくれた。人の流れがひ
と段落すると、あたしは親族席から立ち、式場の裏庭にでた。
「あ……」植えられていた桜の樹、複雑に交錯している小枝の先には、無数の小さな
おじいちゃん。
──に、しても。 あたしは、ポケットから例の写真を取りだした。
里世、アンタが全部、しくんだのね?
あたしが、この写真を買ったのも、たまたま、なんかじゃなかったんだね?
里世、あえて呼びすてにさせてもらうけど、いいよね? タメなんだし。
あたしのおばあちゃんは、お父さんを育ててくれた、お父さんを愛してくれた祖母ひ
とりなんだからね!
白黒写真の中のダサいモンペ姿の里世……あい変わらず、顔も表情すらわからな
い。しかし、あたしと同じ十九とは思えないほど、ゾクリとする女の色香を感じ
る。
まぁ、それだけおじいちゃんを愛してたってことか……だけど、アンタ、あたしに
のりうつったでしょ!? 信じらんない!! ま、それで、おじいちゃんがしあわせ
な気持ちで、そう、たぶんしあわせな気持ちで、そっちにいけたわけだから、それは
それでヨシとするけど! あたしもおじいちゃんと、最後にいっぱい話せて……そり
ゃよかったけど……感謝してないこともないけどさ。
けど里世、アンタ、あたしの元カレ、アイツにもなにかしなかった? アイツ、あ
んなこと、いうヤツじゃないんだからね!! アンタの
ね!! 里世、なにしたのよ? 白状しなさい!!
写真の中の里世が、ニッコリと
がした。
驚いたあたしは、二歩、三歩、後ずさってしまう。
「あ!!」
春のおとずれを予感させる強い突風が、
スルリ。 あたしの手からのがれた里世は、くるくると
り、はるか
「──里世!」
アンタ、どこまであたしをひとりにする気? どこまで……。
泣きたくなった。さんざん泣いて、もう涙なんてでてきやしないはずなのに。
コツン。なにかが、あたしのうしろ頭にあたった。
「!!」
ぇえ ~!! そんなバカな! アイツ……元カレが、そこに立っていた。黒の礼
服姿、ちょっといいかも……って、里世!! また、アンタのしこみなの!?
「あの……前、ひどいこといって……悪かった……」
元カレがいった。しゃあしゃあと。どの口がいう?
「いいよ、別に」
……そして沈黙。気まずい……助けて、おじいちゃん! 里世!!
「あの、おまえの大好きだったおじいちゃんと、俺も、仲よくなりたかった……本当
だぜ」
「…………」
なにいっちゃってるの? そんなの嘘だよ。
「それがこんなことになって、おまえ、大丈夫かな?って……心配で……」
嘘よ、おまえっていうな!! あたしはアンタの彼女じゃないのよ! だいた
い──。
「ほかの女と歩いてたじゃない!」
うわー、いっちゃった。
「え!?」
あきらかに
「ああ! あの人のことかな?」
元カレはうしろをふりむいた。
え? 桜の樹の影から女が顔をのぞかせた。あのときの女だ! なんなの!
「どういうつもり?」
ひどい、ひどいよ!! ふたりして、あたしを笑いにきたの?
「ま、待て! あの人は、兄貴の嫁さんだ! おまえのこと、相談できる人、ほかに
いなくて……本当だ!」
──お
しかし笑顔を見せて、ペコリと頭をさげた。
「で、100パーセント、あなたが悪い! 許してもらうもらわないは別としても、
もう一度、ちゃんとあやまれ! なんて説教されちゃってさ。兄貴が、頭あがらない
わけだよ……今日もさ、大丈夫だってのに心配だって、ついてきちゃって」
「…………」
「で、その、あの……」
あたしは、一歩前にふみだし、彼の胸に、コトンと頭をおいた。そして、あたし
は、うわあぁぁぁぁぁ、と声をあげて泣いた。
泣きじゃくるあたしの背中に、ためらいがちにおかれた彼の手は、おじいちゃんの
手のように大きくもなかったし、がさがさもしていない。
だけど、あたたかかった。このうえなく、あたたかかった。
だから、あたたかかったから、あたしには見えた。……そんな気がしたんだ。
はるか
若きおじいちゃんと、おばあちゃん。ついでに里世の姿が。
これは一九九五年ごろ、まだ大学生だった、あたしのたいせつな──。
(終)
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