診察11【青木啓介】

 青木啓介あおきけいすけには、小学校六年生の娘がいる。

 娘のつばさは反抗期に差し掛かっており、父娘の会話は最近めっきり減ってしまった。もっとも、これは翼のせいばかりとは言い難く、啓介側の事情もあった。

 啓介は一昨年、舌がんを患った。

 幸い早期の発見だった為、手術で取り切る事が出来たのだが、舌の半分を失ってしまった啓介の声や喋り方は今までとは全く違うものになってしまった。

 今まで通りに話そうと思っても、なんと言っているか相手は聞き取れない。啓介自身も自分が発する言葉の不明瞭さに驚かされた。

「努力次第で元に戻る」と言った医師の言葉を信じてリハビリを続けてはいるが、元通り喋る事に不便を感じなくなるまでには至っていない。

 そんな話し声を聞かれるのが恥ずかしくて、手術以来啓介はすっかり無口になってしまった。

 妻の千秋ちあきもそれを咎める事はないし、村役場で働く他の同僚も特になにも言わない。今は小さなノートパソコンを常に持ち歩き、そこに言葉を打ち込むことで意思の疎通を図っている。今では喋る速度と変わらないほどキーボードのタッチが上達したので、啓介は日常生活に特に不便を感じていなかった。


「はい。問題ないようですね。リハビリはどうですか?」

 定期検診に診療所を訪れた啓介の主治医は正明である。この医師がいち早く異変に気づき、大きな病院への紹介状を書いてくれたから、啓介は今日も元気に生きていられるのだ。

『正直、あまり進んでいません』

 啓介は手持ちのノートパソコンに返事を打ち込んだ。

「うーん。そうですか。少し話をしてみましょう」

「らって、うまふしゃへれまへん」

 啓介は相変わらず上手く動かない自分の口に苛立った。分かってもらえない言葉を発することは、途方もなく虚しくて、切ない。命に関わる病気をしたのだから、今生きていられることだけでありがたいと思わないといけないと何度自分に言い聞かせても、自分の体が自分の思うように動かないもどかしさは容赦無く啓介の心を苦しめる。

「あ、い、う、え、お、って言ってみて下さい」

「は、ひ、う、へ、ひょ」

 恥ずかしい。啓介は言葉を発するときにそう思うようになった。小さな子供なら一生懸命喋ろうとする姿は微笑ましいことだろう。しかし、大人の自分がそうしている姿は他人の目にどう映るのかとそればかりを考えてしまうのだ。

「少しずつでいいんです。みんな最初はそうなんです。でもそのうち、ちゃんと話せるようになりますから。出来る事から、頑張りましょう」

 主治医の正明は善意で言ってくれているのだと、頭では分かっている。

 けれど、経験したこともないくせに。と思う自分もいる。だってこの医師は言葉を失ったことなどなくて、他の人が当たり前に出来ることや自分が以前当たり前に出来ていたことをしようとするだけなのに、同情されたり好奇の眼差しを浴びせられる屈辱と羞恥を味わったことがない。

 知識だけでなら、誰だってそう言えるよ。

 啓介は心の中の黒い感情を抑える事が出来なかった。


 翼は、佐藤結奈と一緒に下校していた。翼の通う山里小学校には、六年生は翼しかいない。五年生は三人いて、結奈以外の二人の男子はいつも下らない悪戯ばかりをしている。一つ下だけれどときに自分より大人びている結奈は、優しくて頼もしい翼の大切な友達だ。

「へー結奈ちゃんち、パパも出てくれるの?」

「うん」

 嬉しそうにはにかむ結奈の家は長らく母子家庭だったが、最近再婚をして新しく父が出来た。それに伴い、苗字も変わった。新しい苗字にはまだ慣れないというものの、家族の話をするときの嬉しそうな結奈を、翼は内心羨ましく思っていた。

「ママも別にいいよって言ったんだけど、拓海さんが結奈と一緒に出たいって言ってくれたの」

 拓海さん、というのが結奈のパパだ。呼び方だけは、なかなか変えられないらしい。


 山里小学校では毎年、学芸会という行事がある。

 その昔生徒数が多かったときには各学年と各クラスで出し物を準備し、保護者に披露する行事だったそうで、卒業生や教職員とも協力することもある、学校の一大イベントだったと聞いている。

 しかし全校生徒が十名となった今では全校生徒と教職員、保護者が全員で合唱曲を披露する行事として定着した。事前に近隣地区の各家庭に招待状を作成し、体育館を開放して見てもらうことになっており、今年も練習が始まっていた。

 いいなあ。私も、パパに出てもらいたいけど、と翼は啓介の顔を思い浮かべた。

 翼が三年生の時まで、啓介は毎回学校行事に積極的に参加していた。けれどがんになってしまってからは、運動会で走ってくれることも、隣で合唱に参加してくれることもなくなり、そもそも一緒に出かけてくれることすらも減ってしまった。

 子供が少ない地域なので、基本的に保護者は学校行事に参加することが当然という風潮がある。今年も合唱の話題が上がったときに、「パパもママも参加する」と嬉しそうに先生に報告する下級生の姿を、翼は何度か目にした。その度に暗い気持ちになった。


 結奈と別れて一人になった帰り道、翼は学芸会のことばかりを考えた。六年生である翼にとって、今年が最後の学芸会になる。最後くらい、パパにも参加して欲しいと思った。これまで翼はパパの病気の為にたくさん我慢をさせられてきたし、少しくらいわがままを言ってもばちは当たらないかもと思えた。

 帰ってからママに相談してみよう。そう決心すると翼の足取りは軽くなり、一刻も早く家に辿り着きたいと気付けば走り出していた。


「うーん……」

 千秋は娘の翼からの「パパにも今度の学芸会に出てほしい」という相談に、頭を抱えていた。「ちょっと考えさせて」と答えを保留にしたものの、答えを出せるあてがある訳でもない。

 確かに夫の啓介は、元来社交的で、学校行事も積極的に参加していた。歌うことが好きで、翼と一緒に歌っている姿も何度も目にしてきた。

 けれど病気を患ってからは性格が変わってしまった。手術を受ける前までは、千秋や他の誰かに心配をかけまいと、気丈に振る舞っていた。病気が発覚する前よりもよく喋るその姿に、千秋は陰で何度も涙を流した。

 しかし術後、いざ言葉を発してみる段階になったとき、啓介は荒れた。誰かと話をすることが好きで、誰とでも意見を交流する、いわば言葉のコミュニケーションを大切にしてきた啓介にとって、いきなりその手段を奪われてしまったことは、その根幹を揺るがす一大事であり、受け入れるまでにかなりの時間を要した。

 千秋の方も、言葉が通じない厄介さをその身に痛感した。暗い顔をしている啓介の気持ちが、全くわからない。ホワイトボードを手渡しても、ノートやメモ帳を手渡してみても、書いている途中でペンを放り投げる。単語にならない大声を発して荒れた啓介は、自分の知っている夫の姿とはかけ離れていた。宥めようにも、千秋が何を言っても「どうせわからない」と心を閉ざし、千秋はその頃底なし沼でもがいているような絶望感に苛まれて生きていた。髪の毛も白くなり、体重も意図せず落ちた。

 どうにか意思の疎通を図ろうと、千秋はノートパソコンを啓介に渡した。「これに返事を打ち込んで」と。ペンで書くよりも早いし煩わしくないとようやく少しずつ返事を返してくれるようになった啓介が、仕事に復帰し、誰かとコミュニケーションを取れるまでに回復するまでの辛くて険しかった道のりを思い出し、千秋は深くて重いため息をつく。

 一方で、娘の翼の気持ちを尊重したい気もした。翼は本来パパっ子で、啓介にとても懐いていた。けれど入院や手術で会えない期間に少しずつ距離が離れてしまい、退院後の自信を喪失した啓介は翼に優しく出来る余裕もなかった。

 翼はたくさん我慢をしてくれて、すっかり大人びた表情をするようになった。千秋はそんな翼に甘えて支えてもらいながら啓介に寄り添ってきた。

 翼は啓介が大好きだし、きっと六年生で最後の舞台という特別な機会に対する思い入れもあるのだろう。

 啓介の事情も分かった上で勇気を振り絞ってそう言ってきた翼の気持ちに応えてあげたいと、心の底から思う。

 だが、事態はそう上手くは進まない。啓介に尋ねてみたところ、案の定、

『嫌に決まってるだろ! 笑われちゃうよ!』と返ってきた。即答だった。

 さて、どうしよう。から思考が先に進まない。

 翼に諦めてもらうのか。

 啓介を説得するべきなのか。

 千秋は正解が分からず途方に暮れていた。誰か解決策を教えてほしい。

 娘の成長を喜ぶ楽しいはずの行事に気が重いという感情を抱いた自分に切なくなった。


 ある日の授業中、翼は急に体調不良に見舞われた。気持ちが悪いと思ったと同時に嘔吐してしまい、担任の水原先生は慌てて翼を保健室に運んだ。横になって少し休んでも、頭痛が酷くてどうにもならない。目眩もするし、ふらふらして起き上がれなくなってしまった翼は診療所に運ばれて点滴を受けた。

 熱中症、との診断をようやく起き上がれるようになってから翼は聞いた。水原先生はずっとおろおろして、翼の横で心配そうに付き添ってくれていた。

 点滴が終わるころ、父の啓介が病室に顔を出した。翼は先ほどまでの不調が嘘のように回復していて、水原先生と笑い話をしているところだった。

「あれ?お母さんは?」

 てっきり千秋が来るものだと思っていた翼は、しきりに謝る水原先生と啓介の会話がひと段落したところで尋ねた。

『お母さん、おばあちゃんのところ行ってる。大丈夫か?』

 啓介はノートパソコンのディスプレイを翼に向けて返事をした。

「お父さん、仕事抜けて来たの?」

『有給残ってたから半休にしてもらった。心配したんだぞ。大丈夫なのか?』

「うん。まだだるいけど、だいぶマシになったみたい」

『そうか。それは良かった。あんまり無理するなよ』

 とにかく翼の心配をする啓介の顔はすごく優しくて、翼はちょっと元気になった。

 そこに診察を抜けた真治がやってきたので、啓介はパソコンをそちらに向けて会話をした。聞こえた感じだと、明日も学校は休んだ方がいいらしい。

『帰るよ』

 点滴を外された翼は啓介に連れられて、診療所を出た。水原先生は何度も頭を下げて「翼ちゃん、お大事にね」と車に乗って去った。

 そのとき、学校から帰る結奈が通りかかった。結奈は駐車場の翼に気付いて走ってきてくれたらしく、息を切らしながら「大丈夫?」と翼の手を取った。

「うん。大丈夫。点滴したから」

「えー! 点滴! 痛かった?」

「んーん。ちょっと最初ちくっとしたけどね」

「翼ちゃんすごい! 明日は学校行ける?」

「明日もお休みかも」

「そうなんだ。早く元気になってね」

 結奈が心配そうな顔をして翼に言ったので、早く元気にならないとな、と翼は思った。しかしその後結奈が言った何気ない一言が、翼の心を曇らせる。

「もうすぐ学芸会だから、合唱の練習ばっかりで翼ちゃんがいないと本当に寂しい」

 翼は「そっか」とだけ返して、「じゃあまた学校でね!」と言って去る結奈の後ろ姿を見送った。隣の啓介の顔色が気になってそれとなく伺うと、啓介は無表情で車の鍵を開けて、早く乗れと身振りで示した。

 

 病院から帰る車中は、しばらく静まり返っていた。啓介から話すことはないので、翼が話さなければ無音である。

 二人とも何も言わない車内に、エンジンの音だけが響く。

 しばらく経って、「いいなあ」と翼が呟く。

「結奈ちゃん、学芸会楽しみなんだって。今年は初めてパパも参加してくれるから。本当のお父さんじゃないのに、恥ずかしいのに、それでも学芸会に出てくれるんだって」

 啓介は黙ってフロントガラスを見つめる。

「結奈ちゃんね、パパが恥ずかしい思いするからいいよって最初断ったんだって。けど結奈ちゃんのパパは、結奈ちゃんと一緒に出たいって言ったんだって。いいなあ」

 啓介は、娘の声に苛立ちが混じっているのを感じ取っていた。自分の心も波立っている。

「ねえ、なんでパパはもう歌ってくれないの? 頑張れば元通りになるよって手術する前言ってたのに、全然治んないじゃん。パパ、頑張ってないの?」

 赤信号で車を停車させる。啓介の心音は、大きくなる。

「私、パパの歌う声、好きだったのに。一緒に歌うの、好きだったのに。もう、歌えないの? じゃあ元通りになるなんて、嘘じゃん」

 啓介は大きくため息をつく。信号が青に変わった。

「パパと歌える最後の学芸会なのに。結奈ちゃん家もパパが出来て、みんな家族で参加するのに。私はママとだけしか歌えないの?パパと歌いたかったのに。それって、翼のわがままなの?」

 啓介は返事が出来ないもどかしさを噛みしめながら、アクセルを踏んだ。

「学芸会なんて、こなきゃいいのに」

 翼が最後に呟いた一言が、啓介の頭にいつまでも残った。


 学芸会の日は水曜日で診療所は休診日だった。入院患者もいなかった為、正明と真治は二人揃って山里小学校にやってきた。子供達から手作りの招待状が届くので、出来る限り毎回観覧に訪れているのだ。

 やけにそわそわする息子を横目に、正明はステージ上が気になって仕方なかった。頼む、上手くいってくれよと心の中で願う。

 お世辞にも座り心地の良いとは言えないギシギシという椅子が体育館に等間隔に並べられ、見覚えのある顔ぶれがその椅子に大人しく収まっていた。

 ステージ上はまだ緞帳が下がっていて、体育館のざわめきは反響している。

 きっとステージの向こうはものすごく緊張しているに違いない。正明は、自分が出る訳でもないのに手に汗をかくほど緊張していた。

 やがて緞帳が上がり、ステージ上が見えるようになった。見知った顔がかしこまって並んでいた。

 伴奏が始まる。

 曲は『COSMOS』。合唱の定番である。

 青木啓介の姿は、ステージ上にあった。翼の隣で、緊張した顔をしている。

 啓介はここ最近、仕事帰りに毎日診療所を訪れては、正明とリハビリをして特訓していたのだ。その成果を存分に発揮できることだけが正明の願いだった。正明は思わず両手を胸の前で合わせて、祈る姿勢で聴いた。

『夏のくーさーはーらにー銀河は、高く歌う』

 体育館に響く大人と子供の声は、お世辞にも上手ではない。子供達は学校で練習したのだが、保護者は今日の午前中のわずか一時間ほどしか練習時間はないと聞いている。完成度など、高い訳がない。

『君は宇宙』

 けれど、一生懸命歌っていた。啓介も、翼も、千秋も、他の生徒の親子も。

 みんなで手を繋いで真剣に歌っていた。その姿に、正明は思わず目頭が熱くなった。

『みんな生命いのちを燃やすんだ』

 啓介は、毎日通ったとは言え短期間の特訓で、正直大して上達はしていない。 

 しかし、翼の為に大きな口を開けて、一生懸命歌っていた。

『光の声がそら高く聞こえる』

 遠くて見えないが、啓介の目元が光った気がした。

『君も星だよ。みんな、みんな』

 最後のフレーズが響いた時、正明は立ち上がって、力一杯拍手した。観覧席で聴いていた皆が続く。

 体育館中に響いた拍手の音は、しばらく鳴り止むことがなかった。

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