診察4【横井シノ】
うちのおばあちゃんは毎週月曜日の朝、必ず診療所に行く。
仮に月曜日が祝日だったりして、その日に診療所がやっていなかったとしても、必ず診療所の前までは行く。行ってしばらく診療所の駐車場でお茶を飲んだり、ぼーっと空を眺めたりしてから、家に帰る。
流石にものすごい雪や台風の場合は外に出られないので、朝ごはんを食べながら
「今日はお休みだね」と声をかける。
おばあちゃんは分かっているんだかいないんだか、
「残念だねえ」と言うのみだ。
それでもしばらくするといつの間にか玄関で靴を履こうとしていたりして
「おばあちゃん、今日は行かないって言ったでしょ」と慌てて止める。
するとおばあちゃんは目を大きく見開いて驚く。
「ええ?そうだったっけ?」
完全に振り出しに戻っている。
うちのおばあちゃんは、忘れてしまう病気。
ある程度高齢になったのだから仕方のない事かもしれないけど、家族としてはどうしても切ない気持ちになる。
月曜日に毎回診療所に行くのは、おばあちゃんが曜日感覚を失わない為。
自宅で青果店を営む両親は忙しく、おばあちゃんを診療所に連れて行くのは最近もっぱら孫の
「おばあちゃん、診療所、行こう」
唯香の家から診療所までは歩いて十分だが、高齢のシノと一緒に歩くと倍はかかる。
二十分の道のりを、シノが手押し車に体重をかけて歩く。その横を唯香も同じペースで歩く。
そして一緒にどうでも良い話をする。
「おばあちゃん、今日はいい天気だねえ」
「そうですねえ」
今日は、敬語の日。
唯香は唯香として認識されていないかもしれない。
でも、そんな日もある。
これは、仕方のない事なのだ。
「あ。見て。あの雲、ドーナツみたい」
「まあ可愛い」
シノは微笑んで、目を細める。
「ああ、昔こんな日に、
シノはよくこんな風に急に思い出話を始める。
喜一さんとは今は亡き唯香のおじいちゃんのこと。
よく思い出に語られるおじいちゃんは、奥さんであるおばあちゃんの事をとても愛していたらしい。
「シノさんは、笑うとお日様みたいだ、なんて言ってもらったもんですよ」
「へえ。それは格好良い」
「ええ。それはもう素敵な人だったんです。長いこと生きてきたけど、喜一さん以上の男性は、見たことがないんですよ」
うっとりするシノの目は、かつての姿を想い出しているのだろう。
ぽかぽかした陽気。心安らぐ祖母の思い出話。
この時が永遠に続けばいいのにと、唯香はありきたりな事を思った。
恋人で、競合他社で働いていた横井唯香が三ヶ月前、急に仕事を辞めて帰郷した。
理由は教えてくれなかった。
結婚も視野に入れて交際していたのに、陽介の元には急に「さよなら」とだけ連絡が来て、それっきりだった。
何度か会ったことのある唯香の元同僚に話を聞いたところ、陽介の会社への引き抜きの話が来ていた所に、陽介から「結婚しよう」と言われ、その上「結婚したら家庭に入って欲しい」とお願いされ、なにもかも、考えたくなくなってしまったという。
全てを投げ出し、実家に帰省すると言っていたという元同僚の言う通り、住んでいたアパートは引き払われ、陽介とは一切連絡が取れない。
仕事の出来る彼女は、基本的に全ての行動が素早い。
どうしようどうしようとおろおろする陽介を見兼ねたのか、元同僚はアドバイスをくれた。
「私に特に口止めをしなかったと言う事は、自分の居所が分かってもいいと思ってたんだと思う。それを聞いてどうするかは高野くん次第」
そんな難問、残して行くなよと陽介は思った。
一旦は拒絶された身として、その辛さは身に染みている。
もし、その言葉を信じて唯香の元に行ったとしても、唯香は受け入れてくれないかもしれない。直接、唯香の口から自分のことを嫌いになったと言われたら。どうしてこんな所まで追いかけてくるのと気味悪がられたら。
そんなことになったら、耐えられない。想像するだけで胸が痛い。
唯香に気持ちがなくても、陽介はまだ唯香が好きだ。
結婚するならこの人しかいないと思った。この人が支えてくれれば一生どんなことも乗り越えられる気がした。
そう思えた女性は、陽介の人生の中で唯香しかいなかった。だから結婚して欲しいと伝えたのだ。勇気を振り絞って。
それなのに。
唯香にとって自分は「さよなら」の一言だけで切り捨てられるような男だったのだ。
その恐怖に、足が竦んで動けない。
試されているのかもしれないとも思うし、単に俺を嫌いになったのかもしれない。答えの出ない葛藤は、今日も陽介から笑顔を奪う。
空に浮かぶドーナツ雲すら、陽介を嘲笑っているかのように感じた。
「横井さん。横井シノさん。診察室どうぞ」
「名前が呼ばれたよ」とシノの手を引いて立たせる唯香を、他の患者が温かい目で見守っていた。
診察室の扉が閉まる直前。
「唯香ちゃんは本当に孝行者だよ」
そんな声が聞こえ、唯香の胸はチクリと痛んだ。
「はい。こんにちは。横井さん」
穏やかに微笑む真治。
診療所ではほとんど毎週症状の確認だけだから、お喋りをしに来ているようなものだ。
「あら、嫌ですよ喜一さん。改まって」
「…?横井さん、僕は小野島真治です。喜一さんではありませんよ」
ゆっくり優しく話しかける真治を見て、この人の奥さんになる人は幸せだろうなあと唯香は場違いな事を考える。
「もう、喜一さんたら。私が喜一さんを間違えるはずないでしょう。そろそろ悪戯をやめてくれないと、怒りますよ」
間違いなく、真治を喜一だと勘違いしている。
唯香は不思議そうにしている真治に
「喜一は祖父です。さっき思い出話をしてましたから、少し混同しているのかもしれません」と囁いた。
真治は頷き
「ごめんごめん。そうか。バレてしまったか」と頭を掻いた。
まさかの喜一になりきるという策に出た真治に驚きながらも、唯香は何も言わずに見守ることにした。
「喜一さんにお会いしたかったんですよ」
「そうか」
「私を置いていってしまうなんて、冷たいじゃありませんか」
「ごめん」
「私は今でも喜一さんとの馴れ初めを毎晩思い出すんですよ」
「そうか」
最低限の相槌にも構わず、シノは楽しげに喋る。
真治はカルテも書かず、手を膝に置き、シノに正面から向き合って話を聞く。
「私にも、喜一さんにも、決まった許嫁がおりましたね」
「ああ」
「それなのに私達は惹かれあってしまい、親に申し訳ないと何度も思ったものです」
「うん」
「ある日、駆け落ちして二人で暮らそうと夜道を走っているところを喜一さんのお兄様に見つかってしまって」
「うん」
「そのお兄様が両家を取り持ってくれたお陰で私達は結ばれましたね」
「ああ」
「喜一さんたら、兄貴は僕の元許嫁に惚れていただけだなんて言って」
「ふふ」
「でもお兄様も結局その人と結ばれて」
「うん」
「世間の目は冷たかったけれど、私、幸せでした」
「そうか」
「孫娘にも、幸せになってもらいたいんですよ」
唯香は急に自分が話題に出てきた事に、びっくりした。
「孫娘?」
真治が急な話題の展開に戸惑った顔をしながら、問い返す。
「ええ。どうも色んな事を我慢しているみたいなんです」
「そうなの?」
真治は今度は唯香に向けて聞いた。唯香は咄嗟に返事が出来なかった。
「そうなんです。分かりますよ。私には。だって大事な孫娘だから」
唯香は泣きながら診察室を後にした。
シノはお会計の際にやたらと受付の人に謝っていた。
「ごめんなさいねえ」
お金の計算が出来ないから、レジの前に立つとこうしてひたすら謝ってしまう。
受付の薫子さんは慣れているから、そんなシノに何も言わず、にこにこと待ってくれている。
唯香はシノの横で、レジに表示された金額をシノの財布から出して、シノの手に握らせる。
「これ、払って」とお金を乗せる銀色のトレーを指差した。
シノは言われた通りに手のひらからおトレーにお金を一枚ずつ移した。その間も、顔に愛想笑いを浮かべながら、何度もごめんなさいを繰り返す。
「ごめんなさいねえ。ごめんなさいねえ」
シノが謝るたび、唯香の目からは涙が溢れた。
診療所からの帰り道、泣いた後の少し熱を持った顔を手で触りながら、唯香はシノの隣を歩く。
「おばあちゃん、知ってたの?」
「んん?」
「私が、怖くなって逃げて来たこと」
唯香は怖かった。人生を変えて男の人と添い遂げるという事が。
プロポーズをされたとき、さあお前の人生の岐路だぞと脳内で囁く自分がいた。本当に誰かと一緒に人生を歩んでいく覚悟はあるのかと自分に問われたとき、唯香は答えられなかった。
だから決められずに逃げて来てしまった。
陽介がいない毎日がこんなに辛いなんて、そのときの自分には想像も出来ていなかったから。
「ごめんなさいねえ。なんのお話か、分からないわあ」
シノのスイッチはオフになってしまったようで、もう唯香を他人と認識している。唯香は構わず続けた。
「私、おばあちゃん、大好きなの。これだけは、忘れないで」
首を傾げるシノになおも続ける。
「おじいちゃんと、一緒になってくれて、ありがとう」
唯香はまだ知らない。
陽介が実家に訪ねて来ている事を。結果的に、今日は泣いてばかりの自分の顔が、ものすごく不細工になることを。
そしてその顔を見た祖母が「生まれてきてくれて、ありがとう」と唯香に言ってくれる事を。
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