診察1【松本幸雄】

 耕一こういちは今日も、農作業を終えて診療所に行くという父を見送った。

 元々膝が悪かった父の幸雄ゆきおは、最近診療所に入り浸りだ。

 農家には定年という概念がなく、本人が希望する限り出来るし、やってもらわないと困るのだが、最近幸雄は辛そうにしている事が多いので、引退させてあげた方が良いのかなあと息子として悩んでいる。


「父ちゃんは?」

「診療所」

「またかい」

「痛えんだってよ」

 弟の浩二こうじが眉間にシワを寄せる。

「引退させた方が良いんかね」

「俺もそう思ってたところだ」

 畑がひと段落したので、テレビを見て休んでいるところだった。

 妻の牧江まきえは幸雄を診療所に送って行ったので、耕一は浩二と二人で麦茶を啜った。

「うーん。でもよお、本人はやりたいみてえなんだよな」

「聞いてみたんか?」

 耕一が心配して膝の具合を尋ねると、幸雄は決まって「年寄り扱いするな!」と怒る。まるで引退を恐れているようなその姿に、耕一はそれ以上踏み込めずにいる。

 土塗れになって働くことが父の生きがいなのだとしたら、それを奪う権利が果たして自分にあるだろうかと日々頭を抱えている。

「いや、年寄り扱いすんなって怒るからよ」

「そりゃ昔からそうでねえか」

「でも…」

 浩二は少し考える素振りをしてから、呟いた。

「最近、親父、馬鹿に小綺麗な格好してるよなあ」

 言われた耕一は、たしかに、と思った。

 今までは畑から帰った格好のままどこへでも行ったものだが、最近はきちんと着替えてから診療所へ行く。頭にタオルを巻いて出かける姿もめっきり見かけなくなった。

「まさか、恋でもしてたりしてな」

「老いらくの恋、ってか?」

 がははと二人で笑う。

 まさかあの頑固親父がと笑い飛ばしながら耕一は五年前に亡くなった母の遺影をちらりと見た。

 笑っていた。


「若先生、膝が痛くてたまらんのですよ」

 幸雄は今日も真治に痛みを訴える。

「うーん。そうですか。困りましたねえ」

 高齢になってすり減った軟骨のせいで痛む膝に明確な治療が出来る訳でもなく、薬物療法で痛みを抑えている状態だ。

「手術、します?」

 真治は幾度となくした提案をもう一度提起する。

「いや、手術はちょっと…」

 いつもの答えが返ってきた。

「では、いつも通りお薬で様子をみましょう。ちょっと薬の種類変えてみましょうかねえ」

 カルテを書く真治の姿を見て、診察が終わりそうな気配を察した幸雄は早口で尋ねた。

「明日も来ますか?」

「あ。いえ、明日はいい……」

 真治の返事を遮るように幸雄は

「明日も来る! 来ますから!」と言い切った。

 その剣幕に真治が気圧されているうちに、「それじゃ」と言って幸雄は診察室を出ていった。

 スライドのドアが閉まるのを眺めながら、真治はため息をついた。

 明日の予約はこれで何件めだったっけな、と考えようとしてやめた。

 そんな事を考えても意味がない。

 カルテと処方箋を書きつけて、受付の薫子さんに手渡した。

 ついでに次の患者を呼ぶ。

「林さん。林徳子はやしのりこさん。診察室どうぞ」


「買い物の帰りに診療所に寄って親父を連れて帰ってきてくれ」と頼まれた牧江は、今日も診療所に顔を出した。

「すいませーん。うちのおじいちゃん、診察終わってますかー」

「ほら、松本さんお迎えよ」

 待合室の他の患者に促され、よっこいせ、と言いながら立ち上がり、「じゃあお先に失礼」と周囲に会釈をする幸雄の姿を、牧江は入り口で見守る。

 明らかに遠回りなはずなのに、受付の前を通り過ぎる。幸雄は耳を真っ赤にして「それじゃ」と声をかけると、返事も待たずにぷいっと顔を背けて牧江の方に早足で歩いてくる。

「松本さん、お大事に」と受付の薫子さんが声をかけると幸雄は一瞬だけ立ち止まり、すぐにまた早足で診療所を出た。

 駐車場の牧江の車の前で偉そうに立った幸雄は先ほどの不器用な姿を見られたのがよほど恥ずかしいのか、牧江に「早く」と言って手招きをする。

 牧江はそんな幸雄に微笑み、「はいはい」と車の鍵を開けた。


「お義父さんが、引退?」

 耕一の発言に、牧江は耳を疑った。

 幸雄はとうに休んでいる。幸雄が寝ている寝室の方に思わず目をやると、耕一は人差し指を口元に立てて「声が大きい」と牧江を嗜めた。

「どうして?」

 牧江には納得がいかなかった。

 幸雄が畑を愛していることは、誰がどう見たって分かる。

 そもそも、畑を続けたいから診療所に通い始めたのだと牧江は送り迎えの車の中で幸雄から何度も聞かされていた。

「いや、膝がかなり悪いんじゃねえかと思ってよ」

「膝が?」

「最近は毎日診療所に入りびたりだろう?本人はあまり言わねえけど、あんまりよくないんでねえの?」

 そうか、そういう事かと牧江は納得した。

 笑いが堪えきれず、吹き出してしまった。その姿が気に入らなかったのか、耕一が憤慨する。

「なんだ人が真剣に相談してるのに!」

「いえ、違うのよあなた。あのね…」

 牧江は耕一に、幸雄が診療所に膝の治療の為だけに通っている訳ではないことを、その不器用な姿を頭に思い浮かべながら説明した。

 耕一は牧江が話し終えると、信じられない、といったふうに目を丸くしてつぶやいた。

「まさか、親父が……」


 翌日も「今日も来いと言われている」と診療所に行く支度をした幸雄を、「今日は俺が」と耕一は軽トラで送って行くことにした。

 車内では一貫して少し開けた窓からの風を受けて外を見つめ続ける幸雄。その横顔を、耕一は何度も横目で伺った。

「終わったら電話してよ」

 言いながら、診療所の駐車場に軽トラを停める。するとまだ車が動いているうちにシートベルトを外し、止まったと同時にドアを開け、幸雄は耕一の顔を見ることなく「ああ」とだけ言い残して診療所にさっさと歩いて行ってしまった。

 その姿を運転席からじっと眺める。以前より少しゆっくりになったものの、確かに歩行にそこまで問題はないようにも感じた。

 きっと電話はかかってこないだろうなと耕一は思った。毎日牧江も終わったら電話してくれと頼んでいるそうだが、電話がかかってきた試しはない。

 耕一は帰る前に、診療所の建物を少し眺める。無愛想な四角い建物は、今日も多くの人で賑わっていた。


 案の定電話はかかってこなかった。牧江が買い物に出る際に

「お義父さんのお迎えもついでに」と言ったが、

「いや今日は俺が行く」と耕一は牧江の言葉を遮った。牧江は含み笑いを残して、「じゃあお願いしますね」と買い物に出かけていった。

 耕一は牧江を見送ってから少し経って立ち上がり、診療所へと軽トラを走らせる。窓から拭いてくる風が心地良かった。

 診療所の駐車場に軽トラを停め、診療所の入り口まで行って幸雄の姿を探すものの、待合室をぱっと見た限りでは見つけることが出来なかった。すると近くにいた知らない顔の高齢女性が耕一の顔を見て、「松本さーん! お迎え!」と奥の方に呼びかけた。

 知らない人かと思ったが、この人はこちらを知っているらしい。会釈をし、知り合いだったかなと記憶を辿っているうちに待合室の椅子から立ち上がった幸雄の姿を発見した。

「では、お先に失礼」他所行きの声を出して会釈をし、それから受付に視線を送った。

「松本さん、また」と柔らかく微笑む薫子さん。幸雄は「うん、また」と言い、すぐに顔を背けた。


 ああ、そうか。父は本当に恋をしているんだと耕一は納得した。

 昨晩牧江の言っていたことは本当だった。こちらを振り返り、ずんずんと歩いてくる幸雄の顔は、誰がどう見ても恋する男の顔だった。

 周りの患者もにやにやして幸雄を視線で追っている。

 気付いていなかったのはどうやら鈍感な息子の俺だけらしい、と耕一は自重気味に笑い、それを誤魔化すために口元を手で隠した。

 みんなにバレバレの、老いらくの恋、か。耕一は帰ったらすぐに母に手を合わせて報告しようと思った。母は喜ぶだろうな、となんとなくそう思った。

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