アイシャとマリアンナ

アイシャの目から見ても黒猫のドロシーの疲労はピークをとうに越えていた。無駄とは知りながらも、アイシャはドロシーに治癒魔法ヒーリングを施し続けた。アイシャを守ってくれているスフィア球体ウィンドウがチカチカし出した。アイシャは不思議に思って辺りをキョロキョロと見回した。次の瞬間、アイシャたちは激しい爆風に跳ね飛ばされた。


アイシャとドロシーは壁に叩きつけられた。アイシャは激しく背中を打ち、痛みで呼吸が出来ず、ゲホゲホと咳をした。だが痛がってなどいられない、人間のアイシャがこれだけ痛かったのだ。小さな黒猫のドロシーはもっと痛いに違いない。


アイシャは這いずりながらピクリとも動かないドロシーの側に行った。アイシャはドロシーの身体を手で触り、些細に調べた。もしも衝撃で肋骨が折れ、肺に刺さっていれば治癒魔法ヒーリングは出来ない。アイシャはホッと息をつく、ドロシーはどうやら骨折はしていないようだ。猫の骨は柔らかくて丈夫なのだ。アイシャは安心してドロシーに治癒魔法ヒーリングを施す。だがドロシーは起きなかった。きっと魔力を使いすぎて寝てしまったのだろう。


アイシャはドロシーを抱き上げて逃げようとした途端、目の前にマリアンナが現れた。アイシャは驚いて目を大きく開いた。マリアンナは戦いの最中にいるはずなのに。いつも厳しい表情な事が多いマリアンナが微笑んでいた。アイシャは、そんな彼女をとても綺麗だなと思った。マリアンナはアイシャを優しく抱きしめた。次の瞬間、ドンッと強い衝撃を感じた。マリアンナの身体がズルリと倒れる。アイシャはマリアンナの身体を見て息を飲んだ。マリアンナの右脇腹に大きな穴が空いていた。マリアンナがか細い声で言った。


「アイシャ、にげて・・・」


アイシャは直ちにマリアンナの状態を確認した。脊椎が折れ、右肺の一部も、右の腎臓も消失していた。腸の大部分も無くなっている。アイシャは治癒魔法ヒーリングを開始した。治癒魔法ヒーリングに一番重要なのはイメージだと、アイシャは本能的に解っていた。どの部位の回復に重きを置くかが生死を分けるのだ。


アイシャは幼い頃から自身の治癒魔法ヒーリングの存在に気づいていて、どうすれば沢山の命を助けられるかという事を常に考えていた。そのためアイシャは、町の貸本屋に行っては、人体解剖の本を借りて読んでいた。アイシャは読み書きが苦手なので内容は分からなかったが、豊富な腑分けの挿絵により、人体の中の臓器を頭に叩き込む事ができた。


アイシャがあまりにも何度も人体解剖の本を借りに来るので、貸本屋の親父が根負けしてアイシャに本を譲ってくれた。アイシャはロナルド神父に文字を読んでもらいながら勉強をした。目をつぶれば人体の解剖図が思い描けるくらいに。


マリアンナを助けるためには生命に欠かせない部位から治していく必要があった。脳、心臓、肺。それらをつなぐ血管。それらを動かす神経。アイシャは解剖図で見た神経、血管を細かな部分まで修復していく。


絶対に助ける。絶対に死なせない。アイシャは歯を食いしばって治癒魔法ヒーリングをし続けた。そうしないと泣き出してしまいそうだったからだ。泣いたって何の解決にもならない。不安で心臓はバクバクと鳴り響き、頭はガンガンと脈打つ血管の拍動がうるさいくらいだった。治療を続けるうちに、アイシャはだんだん不安になってきた。出血が多すぎる。マリアンナの呼吸がどんどん弱くなる。とうとうアイシャは堪えきれずに泣き出した。最悪の結末を想像してしまったからだ。


「せんせい、せんせい、ひっく、ひっく」


マリアンナが死んでしまうかもしれない。自分のせいだ、自分がマリアンナを巻き込んだ。取り返しのつかない後悔と恐怖に押しつぶされそうになった。そんな時アイシャはマリアンナとの記憶を思い出していた。


アイシャが召喚士養成学校に入った頃、クラスでいじめにあった。アイシャと同じ町出身のトントという少年がクラスにいた。そのトントがアイシャが孤児だということ言いふらしたのだ。子供とは残酷な生き物だ。いつも元気なアイシャが意気消沈しているのが面白いのか、『親なし子』や『税金泥棒』とひどい言葉を投げつけた。アイシャと同室のメアリーは必死に騒ぎを鎮めようと抗議したが、アイシャを糾弾する言葉ははしかのようにクラス内に広まった。


アイシャは悲しかった。何より辛かったのが神父のロナルドと弟たちとの家族の絆を否定された事だ。アイシャはロナルドたちの事を大切な家族と思っている。だがクラスの同級生は、家族は血のつながりがなくてはならない。アイシャとロナルドたちの絆は偽物だというのだ。


「何を騒いでいる」


教室に入って来たのは担任のマリアンナだった。すかさずメアリーが状況を説明する。マリアンナはメアリーの話を聞くと、しばらく黙ってからゆっくりと話しだした。


「アイシャが孤児なのは事実だ。神父であるロナルド殿と、教会にいる孤児たちには血のつながりはない」


マリアンナの言葉に、アイシャはギクリとした。マリアンナは話を続ける。


「血のつながりは大切だ、お前たち生徒のご両親は安くはない学費を払って、お前たちを学校に通わせてくれている。大いに感謝し、勉学に励んでご両親に恩返しをしなさい。だがな、私は神父のロナルド殿のアイシャに対する愛情が、血のつながった親子より少ないとは思わない。ロナルド殿は月に一度私に手紙を送ってくれる、アイシャが困っていないか、孤児であることが原因でいじめられていないか。もしアイシャが金で困る事があるなら、何としても用意します。と書いてあった。私はロナルド殿に返事を書かなければならない、アイシャへの誹謗のきっかけはトントだったな。ロナルド殿は悩んでトントのご両親に相談するかもしれないな」


トントはサッと顔を青くした。この事を知った両親に怒られると思ったからだろう。マリアンナはさらに話を続ける。


「血のつながりは大切だ。だが、アイシャとロナルド殿たちの心のつながりも間違いなく本当の家族だ。お前たちは召喚士になるために学んでいるのだろう?召喚士とは精霊や霊獣と心のつながりを、ひいては魂のつながりを結ぶという事だ。そんな事が分からないなら召喚士になる資格などない。速やかに荷物をまとめて国へ帰れ。学校に残りたければ、アイシャに誹謗の言葉を投げかけた者はアイシャにきちんと謝れ。でなければ私は授業をしない。話はそれだけだ」


それだけ言うとマリアンナは教室を出て行ってしまった。生徒たちはその場に凍りついた。その沈黙を破ったのは、一番年上のメアリーだった。トントを促し、アイシャに謝罪させ、他の生徒も同じようにさせた。その後マリアンナを呼びに職員室まで行ってくれた。授業が終わった後、アイシャはマリアンナの部屋に呼ばれた。アイシャがおずおずとマリアンナの部屋に入ると、マリアンナは椅子に座るよう促した。アイシャが席に着くと、マリアンナも目の前に座り、話しだした。


「アイシャ、辛い思いをさせてすまなかった」


マリアンナは心底すまなそうに詫びてくれた。アイシャは驚いてしまって返事ができなかった。


「あいつらはバカだからアイシャが傷ついた事を理解しようとしないのだ。大人になっても、人を傷つけて喜んでいるやつは人間のクズだが、子供は成長する。あいつらのバカな行為を許してやってくれないか?」

「・・・はい」


アイシャはやっとの思いで返事をした。マリアンナは困ったような顔をしてから言った。


「ロナルド殿たちはアイシャの家族だ。だがこの学校では私がアイシャの家族だ」

「・・・お母さん?」

「おい、そこはお姉さんだろう!」

「あはは」

「やっと笑ったな、アイシャが元気でないと調子がくるう。何か困った事があったら私にいうのだぞ?」


そう言ってマリアンナは笑った。いつも怖い顔が多いマリアンナだったが、笑った彼女はとても美しいとアイシャは思った。その後何度もアイシャには困った事が起きるのだが、その内容は主に勉強に関する事で、マリアンナが知れば逆鱗に触れるような事なのでアイシャは黙っている事が多かった。


アイシャの家族だと言ってくれたマリアンナが、もうすぐ死のうとしている。アイシャは涙を止める事ができなかった。途端、マリアンナの出血が止まった。マリアンナの呼吸も、心音も。アイシャはひっと息を飲んだ。するとアイシャの耳に声が聞こえた。


「これ娘、治療の手を止めるでないぞ」


優しい穏やかな声だった。アイシャが顔を上げると、そこには白い虎がいた。その虎には白鳥のような真っ白な翼が生えていた。霊獣だ。


「あなたは誰?」


アイシャはびっくりして尋ねた。


「娘、人に名を尋ねる時は自分から名乗るものだぞ」


白虎は穏やかに諭す。


「ごめんなさい、あたしはアイシャです。あなたは?」

「うむ、わしは白虎神バイフーシェンじゃ」

「ば?ふー?言いづらいからシロちゃんでいい?」

「全く失礼な娘じゃのう。まぁ良いわそれで。今わしの魔法で時間を止めている、早くその女の治療を完了させるのじゃ」

「はい!」


アイシャは治癒魔法ヒーリングに集中した。しばらくして、アイシャはふぅっと息を吐いた。マリアンナの治療が終わったのだ。白虎神バイフーシェンは、どれどれとマリアンナに近づき、彼女に鼻先をくっつけた。


「ふむ、完璧じゃ。だが出血が多すぎたな、どれわしの魔法で骨髄の増血を促進させてやろう」


白虎神バイフーシェンは再度マリアンナに鼻先を擦り付けると、マリアンナの前身が輝きだした。


「よし、これで止めた時間を進めても女は無事じゃ」

「本当?!」

「疑っておるのか?わしは神じゃぞ」

「シロちゃんありがとう!」


アイシャは嬉しくてたまらず白虎神バイフーシェンの首に抱きついた。柔らかな毛並みが心地よかった。


「礼にはおよばん、こやつの礼をしたまでよ」


アイシャが白虎神バイフーシェンの脚元を見ると、黒猫のドロシーがしきりに擦り寄っていた。


「ドロシー!」


ドロシーはアイシャを見ると、元気よくニャッと鳴いた。白虎神バイフーシェンは話を続ける。


「わしはアイシャがドロシーと呼んでいる霊獣の幼体の守護者なのじゃ。だがこの間雲の上で昼寝をしていての、あまりにも気持ちが良いので寝返りをうったのじゃ、そうしたらうっかりドロシーを雲の下に落としてしまっての。アイシャ、ドロシーが世話になったの」


白虎神バイフーシェンの言葉にアイシャはだまりこんだ。白虎神バイフーシェンはドロシーの保護者だったのだ。


「ねぇ、シロちゃん。ドロシー返さないとダメですか?」


アイシャの言葉にドロシーはハッとして白虎神バイフーシェンの脚元から、アイシャの足に尻尾を巻きつけ、絶対に離れないアピールをした。白虎神バイフーシェンは、ドロシーの頑なな態度に困ったように笑ってから言った。


「ドロシーがアイシャの側を離れたくないというなら仕方ないの、これまで通り面倒を見てくれるかの。ドロシーに何かあればわしがすぐに駆けつけるでの」

「ありがとうシロちゃん、あたし立派な召喚士になったらドロシーと契約したいの」

「そうかそうか。では止まった時間を戻すぞ」


白虎神バイフーシェンの言葉の後、無音だった周囲に音が戻った。アイシャはマリアンナの側に駆け寄った。マリアンナは顔色は真っ青だったが生きていた。アイシャはホッと息を吐いた。そして目の前の戦いに目を向けた。この戦いが収束しなければアイシャたちは無事に帰れないのだ。

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