(1−2)第1章 江古田カップル殺人事件


 御堂千明は朝の池袋を歩く。東口を出て、カフェへ向かう。待ち合わせまであと数時間あったが、書きかけの原稿を終わらせたかった。御堂千明は執筆のために時間よりも早く池袋に移動したのだった。

 池袋、という土地柄、オタク属性のある訪問者が多い。アニメイトにとらのあな、KーBOOKなど、アニメや漫画オタクが通う店舗が多く存在している。また、池袋のランドマークであるサンシャイン60を抜けると乙女ロードというオタク女子の聖地がある。

 そうした影響からか駅の壁広告や釣り広告には男性のアニメキャラクターが大きく描かれている。男性キャラクターのイラストの前で、黄色い声を上げながら写真を撮っている少女たちをよく見かけた。

 池袋を行き交う人々は良くも悪くも没個性だと御堂千明は思った。フェミニンな格好をした女性が多く、流行のファッション、いわゆる量産型女子が街を行く。時折ビニールのバックにアニメキャラクターの缶バッチをつけた女性を見かけるが、服装自体は奇抜なものではない。バッグが特徴的なだけである。

 新宿とはまた違う雰囲気だと御堂千明はしみじみと思った。御堂千明は新宿界隈を贔屓にしている人間である。露出が盛んな新宿よりかは目のやり場には困らないと残念な一方で安堵する。池袋の女性は露出していたとしても、胸元よりも脚だろう。胸元の強調は女としての機能性をアピールするかのようでギラつくが、脚は幾分健康的な印象である。彼女たちのフェミニンな服装がそうさせるのだろう。

  東口から直通の西武百貨店へ入る。真夏日の正午、少し歩くだけでも暑さに身を焼かれる。通り道に百貨店があれば、涼を求めたくなった。

 西武百貨店の一階は化粧品売り場だ。もっとも西武百貨店に限らず、デパートの一階は化粧品売り場であることが多い。香水や化粧品などにおいの強い商品が多いからだと御堂千明は誰かから聞いていた。化粧品や香水の匂いが籠らないように出入りが多く、換気の効く一階に集めているのだ。

 しかし、ディスプレイを見ると、別の理由もあるのではないおかと思えてきた。圧倒的な華やかさが化粧品売り場にはあった。口紅が一本一本、美しく飾り付けられ、鮮やかなグラデーションを作っている。御堂千明はその美しさに思わず、近づいていた。数えていないので正確な本数はわからないが、軽く三桁を超える口紅が飾られているだろう。

 ーーまるで化粧品の博覧会だな。

 御堂千明は口紅のグラデーションを繁々と見つめ、それら一本一本の色味の違いを探っていた。

 一般的な男性から見れば、口紅なんてどれも同じ色に見えるかもしれない。ーーいや、色だけではない。リップスティック、リップグロス、リキッドルージュ。ティントリップ。種類の違う商品を区別できる男性は少ないだろう。

 御堂千明は口紅の群れの中、一つの色に目を奪われた。その一色だけがまるで浮いて見えるようだった。浮いている、と言っても場にそぐわないというわけではない。一等強く、別格の輝きを放っているのだ。

 淡い優しげな色だ。ピンクに白を加えて、少しだけオレンジを足したようなパステルカラーに惹かれた。流行に詳しい女性なら、その色はコーラルピンクだとすぐに察したかもしれない。コーラル、つまり、珊瑚を真似た色である。ピンクの珊瑚さながら滑らかな艶が目を引いた。

 ーー恵美香に、似合いそうだな。

 コーラルピンクの口紅に思わず手が伸びる。


 俺が彼女の化粧に無頓着だったら、恵美香は口を尖らせるだろうか。

「何で千明のために化粧しちゃうんだろうな。細かい違いに気付けない千明なんかのために!

 だいたいあんたら男はね、彼女が塗っているのが、リップグロスなのか口紅なのかさえもわかってないでしょ。彼女のメイクなんてメイクしてるか・メイクしていないかしか見てない男が大半なんだよね。」

恵美香は全男性への文句を俺に言った。ファンデーションをはたきながら、口を動かす。手元には次に使うアイシャドウやマスカラなどがすでに用意してあり、それらの化粧品を迷うことなく適切に顔に塗っていく。ルーティンだからだろうか、手際の良さにはいつも驚かされる。

「わかんねぇよ、違いなんて。」

恵美香の言葉に反論することができなかった。本当は反論しようと思えばできたが、する気にならなないくて、ただただ決まりが悪かった。自分のために綺麗になってくれようとする彼女の気持ちを無下にできない。でも、自分には化粧の違いなんてさっぱりだった。俺の内心をわかってか、恵美香は急にケタケタと笑いだす。

「あんたみたいなタイプに分かられたら分かられたで気持ち悪いんだけどね!」

顎を引いて上目遣いに俺を見る。人をからかった後に、伺うような瞳を向けるのは恵美香の癖だ。その瞳のせいで、何を言われても許せてしまうし、これまでの発言がすべてかわいい戯れとさえ思えてしまう。……俺が、もっとも好きな癖だった。

「でもね、それでもどうにか違いに気づいて欲しくて、毎回毎回、頑張っちゃうんだよね。」

 ーーありがとな。

 心の中で答えた言葉を口に出しても、恵美香は信じないだろう。否定されることがなんだか怖くて、俺は口をつぐむ。

 恵美香はあらかた化粧を終えて、最後の仕上げに口紅を選んでいた。どの色が合うかな、とのんびりと選んでいる恵美香が愛しくて抱きしめたくなる。

「今日はコレ使えよ。」

俺は一つの包みを差し出す。包みの中には、コーラルピンクの口紅が入っている。池袋で見た、あの口紅だ。

 恵美香にきっと似合うだろう。俺の選んだ口紅をつけてくれている恵美香を想像するだけではなく、実際に見れる。なんて幸せで満ち足りていることだろう。

 恵美香は不思議そうに受け取ると、包みのラッピングを丁寧に解く。手を動かしながら、俺に笑顔を向けてお礼を言う。

「ありがとーー「お客様、プレゼントですか?ご自分用ですか?」

店員の声で我に帰った。御堂千明と恵美香の会話はすべて、御堂千明の妄想であった。店員に現実の世界に引き戻され、羞恥心が一気に湧く。

「プレゼントですか?ご自分用ですか?」

繰り返される質問に、適当な言い訳を探して、そのまますぐに立ち去ろうとした。店員に買う気はないと伝えようと顔を上げて、言葉を失う。

 御堂千明に声をかけた店員は、青年であった。二十代前半だろうか、若々しさに満ち溢れている。短く切り揃えられた髪の毛、整えられた眉毛、細身の制服の上からも均整の取れたスタイルが見て取れた。見かけから彼の美意識の高さがうかがえる。

 一眼で男性とわかる顔立ちであったが、それでもどこか中性的な印象を与える青年だった。髭のない艶やかな肌、おそらく薄化粧をしているだろう。それに加え、柔和で落ち着きのある声も彼を中性的に見せていた。

 化粧品売り場は店員も客もすべてが女性で飽和した化粧品売り場だったが、彼は自然と馴染んでいる。

「どうされました?」

 不躾に相手を観察する御堂千明に、男性店員は戸惑っていた。

「いや、素敵な制服だと思いまして……」

御堂千明は店員に愛想笑いを残し、踵を返した。

 ーーサキさん……いや、レイと同じか?

 御堂千明はセクシャルマイノリティと呼ばれる友人たちを思い起こした。先ほどの男性は日常的に化粧をしているのだろうか。なんのために?男が好きなのか、女になりたいのか。御堂千明の中に疑問が巡る。 ーーLGBT、いや今はLGBT-Q……なのか?

 『Qをつけなさい!Qを!』とうるさい友人を思い出して、慌ててLGBTにQ(クエスチョニング)を付け加えた。

 LGBTという言葉を聞いたことのある人は多いのではないだろうか。セクシャルマイノリティ、つまり性的少数派の人たちの総称とされている。セクシャルマイノリティの頭文字から作られた造語である。

 L……女性が女性を愛するレズビアン(女性同性愛者)

 G……男性が男性を愛するゲイ(男性同性愛者)

 B……男性も女性も愛するバイセクシャル(両性愛者)

 T……心の性別と体の性別が異なるトランスジェンダー(性別越境者)

 最近では、さらに細かく分類されて、Q(クエスチョニング)を追加したLGBT~Qが使われている。Qとは心の性別や体の性別がわからない人々やそもそも性的感情を持ち合わせない人々などが挙げられる。実際の性別や自分の性認識、性的感情がわからないので、クエスチョニングなのだ。

 御堂千明の友人であるサキさんはゲイの女装家、レイはクエスチョニング、それぞれ違うセクシャリティを持っていた。

 御堂千明は少しの間、化粧品を売る男性店員のセクシャリティを考えたが、すぐにその好奇心に蓋をした。人の性指向を勝手に想像しては失礼だと思ったからだ。一言二言交わしただけの初対面の相手に何かを思う権利も義理もない。

 化粧品売り場を抜けて、西武百貨店を出る頃には御堂千明の頭の中には記事の構成案でいっぱいになっていた。

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