第33話 器を作っただけなのに 備考:日時に誤りがあり修正しました。

 久方ぶりのノーベル賞受賞に浮かれムードだった。

 翠学園は、何処ぞの学部に試験問題の皺寄せが向かって以来の賑わいを見せていた。今回は嬉しい悲鳴だが、当然一部の職員は喜ぶ暇もない。

 2月といえば受験。マークや選択問題はコンピュータに任せて問題は無い、だが数年前に導入された記述式の入試は人の手がどうしても必要だ。採点で業務量が大幅に増加するこの季節、しかし、世間は待ってくれない。

 生物学に加えて、工学の分野での画期的発明は、名声と引き換えに多くのタスクを大学にもたらした。


 一人の男子学生が生体認証を通過し、工学部の研究室兼職員室へ足を踏み入れる。


「失礼します。すみません、卒論についてうか...え?」


 研究室には、大量のメモリーチップと屍が散乱している。

 経験した事はないが、出版社の締め切り前はまさにこんな感じだろう、と学生は思った。


「今は忙しい。悪いが出直してくれ」


 屍その一に促され、学生が部屋を出ようと踵を返す。すると、正面のドアが一人でに開いた。


「そもそも、この時期は忙しくなるから、質問等は年を越す前に済ませなさいと助言したはずですが」


 扉の向こうには、芳子が食品転送カードを片手に立ち塞がっていた。


「すみません、しかし...」

「しかしも何もありません。来ないように全員に念を押しておいたのですが、その耳は飾りですか? 今後このようなことがないようにお願いします。迷惑です」

「すみません。失礼しました」


 学生は退室の挨拶を尻すぼみにして、芳子の横をすり抜けて行った。

 去った学生を目で追うことなく、研究室に歩みを進めると、職員が何処か不満そうに芳子を見つめた。

 扉の向こうから、先程の学生の声がする。


「あの冷血ババア、マジありえねぇ。つか、んなの分かってるての。緊急に聞きたいことができることだって有るだろうが。あー、マジ使えねぇ」

「ちょっ、聞こえるって!」


 ドタバタと走り去っていく足音がした。

 藤村はドアの方を指さして、尚も芳子を見つめる。

 食品転送カードを指で弄びながらしばし考えを巡らせ、芳子は一つの答えに辿り着いた。


「走るなと注意してくればいいですか?」


 芳子が小首を傾げて質問すると、その場にいる全員が「違います!」と声を揃えて言った。

 藤村と同年代の女性研究員・麻生は頭を抱えて藤村の肩を叩いた。


「華奈、ハッキリ言う。無理だと思う」

「うん。私も軽く絶望してる」

「俺が上手くあしらえたら良かったです。すみません」

「いや、鈴木君のせいでは...根本的に、先生の対人スキルが問題なだけだから」


 研究室の人間は芳子を除き、一斉に頭を縦に振り賛同する。


「対人スキルは高い方だと自負していますが」

「対外的には、そうですね」


 そう言いつつ、藤村は大きなため息をついた。


「ダメだ。疲れているせいか穿った考えしか浮かばない...。同胞に連絡しよう」

「同胞なんていたのね?」

「...なめないで。"林又教授は怖くないよ!"計画は順調に進んでる...はず」

「華奈、思うにその計画が日の目を見る事は無いわ」

「そんな事ないです!」


 研究員達が騒いでいるのを綺麗に無視し、芳子は"入力済み"と書かれたトレーを片手で掲げた。


「これは、最終行程に回していいものですか?」

「あ、はい! そっちは終わってるので送って貰って構いません」

「分かりました」


 芳子は続き部屋の入り口側に取り付けられた窪みにトレーを置き、ディスプレイに"学長室"と設定する。手のひらを壁の金属板合わせると、板から緑の蛍光色ライトが手を包む。数秒すると、トレーは消えて無くなっていた。

 ポートデバイスは多く存在するが、P-04は高層ビルでよく使われている取り付け型輸送装置だ。


「あー、でもまあ、ノーベル賞受賞にしては、忙しくない方ね」

「そうなんですか!?」

「そうよ。個人とかだったら、やたらと注目されて仕事量増えるけど、今回は分散されてるから」

「そうそう。県先生がお一人で受賞された時なんて、もう取材依頼がひっきりなしだった。国外を含み」

「なるほど」


 麻生は訳知り顔で説明しているものに、藤村も深く頷いている。どうやら、相当大変だったらしい。


「最近はそういうの増えましたよね」

「まあ、グローバル社会では研究とは言え他との協力が普通だからね」

「単純に技術競争が激しくなったこともあるだろうけど」

「昔から細分化は有ったと記憶していますが」


 藤村、鈴木、麻生の目が一気に芳子に向いた。


「有りましたっけ?」

「高校」


 藤村の問いかけに、芳子は研究結果の書類に目を通しながら単語を口にした。

 藤村がいっそう首を傾げるので、芳子は観念して説明を始めた。


「高校の化学で無機化学やりましたよね?」

「あー、サラッと。文系だったもんで」

「...アンモニアの工業的製法」

「ハーバー・ボッシュ法です」

「フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュの両名の受賞であったことは?」

「言われてみれば、そんな事言ってたかもです」

「カール・ボッシュは、アンモニア生成の工程に関してではなく、それに必要な器の開発でノーベル化学賞を受賞しました」

「あー!」

「思い出しましたか?」


 アンモニアの工業的製法は、当時としてはとても画期的なものだった。

 世は大戦後、畑は焼け野原。肥料となるアンモニアを大量に生成できるとなれば、これ以上に嬉しい事はない。まあ、それと同時に、ハーバー・ボッシュ法が爆薬の元になる硝酸の生成にも使用されたことで、農業の救世主から一転戦犯せんぱんとして扱われることになるのだが。

 窒素と水素を高温高圧で触媒を用いて反応させアンモニアを生成する。しかし、これは発熱反応である。

 本来、発熱反応は低温で行う方が良いとされる。しかし、アンモニア生成においては例外と言えた。低温の環境で反応させると、どうしても反応速度が遅くなってしまうのだ。

 工業においては、早く安くが一番で、生成速度の低下は商売という観点からも致命的だ。


「まあ、言われてみれば。でも、よくそんなに覚えてますね。そんな事、滅多に聞かれませんよ」

「ノートをとっていたので」

「...視覚優位って、ホント便利ですね」


 麻生と鈴木が芳子の説明を大人しく聞いていたことを疑問に思い、芳子は問いかけた。

 芳子の記憶では、藤村以外で文系出身者はいなかった。


「貴方達も習ったでしょうに」

「いやいや、そんな使わない知識、完璧に覚えてないですって」


 麻生が手振りで否定すると、芳子は不思議そうに首を傾げた。


「一度見れば覚えられるでしょう」


 その後、芳子にトロフィー凶器を投げつけようとする麻生を必死になって止める藤村と鈴木の攻防が続いたという。




<途中経過>


日時:西暦2021年 3/1(月)15:59現在


結果検証:特になし。


考察:特になし。

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