第12話 約束は場合に寄ります

1570年(元亀元年)1月、織田信長37歳の頃、足利義昭の愚行についに嫌気がさした織田信長は、条書を送って将軍の行動を制限した。

 同時に、副将軍に任ぜられていた浅井長政に監視を強めるよう通達した。

 しかし同年、織田信長の配慮も虚しく、足利義昭は全国の大名に向けて秘密裏に織田信長討伐の書状を出すよう副将軍・浅井長政に指示。浅井長政はすぐに織田信長にその旨を伝え、クーデターは未然に防ぐことができた、足利義昭は織田信長によって殺された。

 その後、浅井長政はこの功績を讃えられ、織田軍の要職に就任。織田家の繁栄を大いに助けた。

- 某日本史解説書より -


 大学の夏休みが明けた9月中旬。残暑厳しく、まだまだ冷房器具が必要不可欠な時期。しかし、落葉樹の葉は青々しさを深め、深緑に色付いている。

 9月に入っても、芳子の生活には特に変化が無い。やることといえば、引き続き科研費申請書の製作と学生への講義だけだった。


「いやー、済まないね林又くん」

「いえ、教授もお年ですから。やれる人間がやった方が生産効率も高いです。お気になさらず」

「あはは、面目ない」

「教授、少しは怒ってもいいと思いますよ。林又准教授にいくら悪気がなくとも、一応この研究室のトップなんですから」

「いやはや、寄る歳並みには敵わないものだね。歳をとりますと、どうにも感情の動きが鈍くていけない。最近じゃ、もう代替わりの時期だなとも考え始めまして」


 そういうと、あがたは薄い白頭を左手で一撫でした。

 芳子の所属する研究室の総括、教授の県國彦は、世界的にも有名な日本人工学者の1人だ。まさに努力の人であり、裕福ではない家庭環境で幼少期を過ごした経験から、「安価で買えて誰でも使える」をコンセプトに、これまで様々な製品を世に送り出してきた。

 元々、大手通信機器製造メーカーの研究員として働き、功績が認められて大学の教授として迎えられた。

 教授になる方法としては、一般的に2つの方法が存在する。

 1つ目は、地道に大学内で結果を残し、教授に推薦をもらうこと。芳子が辿っているのがこの道である。

 2つ目は、企業に一旦就職する方法。この方法では、専門知識を活かせる現場で実績を積み、大学からのスカウトを受ける事になる。県がこの例にあたる。

 今は、どちらかと言えば後者の傾向が強い。


「やめて下さいよ。教授が辞めてしまわれては、研究室に癒しがなくなるじゃないですか」

「林又さんがいるではありませんか」

「林又准教授が教授になったら、研究室に雪が吹きつけますよ」


 大学内での芳子のあだ名は、大抵「ロボット」か「KY」だが、研究室内でのあだ名はまた異なるものだった。県は性格がとても温厚で、下の者から慕われている。研究員は親しみを込めて、県を陽だまり先生と呼び、正反対な芳子をブリザードと呼んでいた。

 勿論、芳子のあだ名に関しては本人の前では言わないことが暗黙の了解となっている。

 助教授の1人の軽口に、県は真面目な顔をして答えた。


「いやいや、そんな事はありませんよ。雪が降っても、幸にして窓は開きませんし。癒しの件についても、林又さんは温かみのある充分魅力的な方です」


 どうにも、研究室のトップは比喩と冗談が通じない。いくらかまともだとは言え、県が芳子以上の研究バカである事に変わりはなかった。いや、類は友を呼ぶ、と言うべきだろうか。非常に微妙な点で似通っている2人を、なんとも言い難い気持ちで見守り続けている研究員一同だった。


 県の「代替わり」発言は、どうやら思いつきの一言ではなかったようだ。


「林又准教授、私、講師に昇進するらしいです!」


 昼食を終えて、芳子が一息ついているところで、藤村が突如視界に入り込んだ。


「おめでとうございます」


 芳子は一瞬藤村に視線を向け、祝辞を述べて再び本を読み始めた。


「思ってないですね。まあ、他人事だから仕方ないと思いますけど。でも、私が昇格するって事は林又准教授も昇格なさるのでは?」


 午前の県教授との会話でなんとなく察せられていたために、芳子の感動は薄いものだった。


「貴方にとっては訃報でしょう」

「そんな事ないですよ。仕事の早い上司は大歓迎です。まあ、代替わりした途端に研究室の設定気温を3度程高く設定する必要が出てきそうですが」

「私の態度に関して言っているのなら、体感温度なので物理的に温度を上げても仕方ないですよ」

「ごもっとも」


 芳子は、口を動かしながらも器用に本を読み進めている。

 辞書ほどの分厚い本は、中世ヨーロッパで見られそうな暗い赤の革のような生地で、本編は全てイタリア語表記だった。背表紙には、等間隔に凹凸がある。

 紙媒体の本を読む貴徳な行動を取る芳子はいつものことだが、ほとんどが英文学だった。物珍しさに藤村が中を覗き込み、理解不能な文字列に影を落とす。


「うわ、イタリア語ですか? よく読めますね。えっと、つなぐ? つながり、の心理? ですか」


 芳子は目を見張って、本から顔を上げる。


「読めたんですね、イタリア語」

「そんな驚かなくても。語学も文系に入るんですよ。あと、トマト大好きなんです。他にもチーズとかワインとか...、別に食べ物がきっかけでもいいじゃないですか」


 芳子が呆れた様子で見ている事に気づき、藤村は口の先を尖らせた。

 藤村は咳払いをひとつして、芳子に尋ねる。


「見たところ、ファンタジーでも工学系でもないようですけど。珍しいですね。先生がSFか仕事以外の内容の本見てるの、しかも英語か日本語以外の言語で」

「さっきから、敬称つけて名前呼びにするか敬称のみで呼ぶか、どっちかに統一して下さい。混乱します」

「マイペースですね」

「自覚してます」


 藤村ははぁとため息をついて、右の人差し指で本を小突いた。


「それで、何でいきなり心理系の本を? しかもイタリア語」

「教授にイタリアの学会を押し付けられました。一度習得はしましたが、かなりブランクがあったので本を読んで復習しています。本の内容は特に考えてなかったです」

「それじゃあ、本格的に代替わりですかね。寂しくなります」

「いえ、孫の留学について行きたいそうです。短期間アメリカに滞在なされるご予定です」

「なるほど。県教授らしいです」


 藤村が納得して去っていったので、芳子は再び手に持っている重さに目を向ける。

 題名は"Psicologia della connessione"、日本語訳は「繋がりの心理学」だ。

 内容は心理学入門書のようなものだった。

 芳子は、ブランクがあると言いつつも随分とすらすらと読み進めていく。後半に入ると、実践的な内容や普段の生活に通じる具体例が示され、格言やことわざの解説も多々あった。

 最後の方を読み進めるにつれて、一つの文章が目に止まる。


Patti chiari amici cari.

(約束を守れば友情は長い)


 日本語訳の通り約束を守ることで信頼関係を保つことで、友情も長く保つことができるという教えだ。

 日本人からしてみれば、「何を当たり前のことを」と思うだろう。しかし、時間にルーズなイタリア人にとっては格言と言えるのかもしれない。

 芳子が一通り本を読み終わる頃には、すっかり日は落ちていた。


 芳子が帰宅してリビングでくつろいでいる時に、ふと今日はスマホを確認していないことを思い出した。

 ソファから体を起こし、食卓に置いてあったカバンを探る。出てきたスマホの側面にある突起部分を軽く押すと、ロック画面が表示された。毎度のことだが、着信履歴が凄まじい。虹彩認証でホーム画面に入り、メッセージアプリをタップすると直ぐにメッセージの遣り取りをする画面が表示される。

 もし時間を巻き戻せるなら、芳子はしっかりと朝倉義景について哲男に説明すべきであった。そして、対策は早めに立てるべきだったのだ。


『なんか、朝倉さんが叛旗を翻すらしいんだけど、マジ?』

『なんか、出陣したら嘘でしたって臣下の方々に言われたんだけど。もうこの際、上洛する上で通行の邪魔になる朝倉領を織田のものにしましょうって言ってたし。でも、なんか将軍さんが仕掛けた罠だろうから引き返すって丹羽さんが。でも、国境越えちゃったんだよね。どうすりゃ良いの? つうかこれ、同盟破ってるんじゃね? たしか、浅井との同盟に朝倉攻めるないって書いた気がする』

『どうしよう、足利さん、全国の大名に信長討伐の依頼してきたって、将軍命令で。徳川さんから聞いた。やばくね?』

『なんか、お市さんからなぞにあずきが届いたんだけど。何でかわかる?』


 朝倉義景は、上洛に意欲的ではなかったが足利義昭とは元々仲が良かった。そして何より、お目付役となる浅井長政が副将軍にならなかった事でクーデターへの抑止力が無くなって、足利義昭の謀反がしやすい状況だった。

 こうして、織田軍かつて無い危機に遭遇することとなった。




<途中経過>


日時:西暦2020年 9/14(月) 21:01現在


結果検証:織田信長討伐令が出てしまった模様。対応を急がなかったことが敗因。


考察:織田信長を勝たせなけば、修正は難しいように思う。

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