第3話 リベルタンゴが火をつける

 発表会は地元の文化センターで行われる。私は大地の祖母のお凛さんと一緒に行く約束をしていた。念入りに鏡の前で身支度する。


「ちょっとアイシャドウ濃いかなぁ?」


 いつもは薄化粧なのに、やたら気合いが入っちゃった。だって「あの人が大地先生の恋人?」なんて値踏みするような視線を想像したら、居ても立ってもいられないんだもの。お気に入りのワンピースを着て、念入りに毛先を整える。


「......大丈夫、かな?」


 鏡に映る私は、自分でも情けないくらい、不安げな顔をしていた。

 おかしいよね。もう付き合って十年は経つけど『結婚』を意識し始めてからヤキモチばっかり。


『不安なんでしょ?』


 私は鏡の中の自分に問いかける。


『だけど、臆病だよね』


 鏡の中の自分が、そう返して来た。

 そう、怖いの。大地が結婚に踏み切らない理由を訊くのが。愛情を確かめたくても、どうして自分を好きになったのかも知らないから。こんな自分のどこがいいんだろうって思っちゃう。でもね、大地のせいじゃないよね。自分が弱いせいだよね。力なく笑う私がいた。お凛さんが迎えに来るまで、あと少し。それまでにいつもの笑顔に戻れるかな? なんだか、泣きたい気分だった。


 お凛さんと合流し、会場のホールに入ったのは一時間後のことだった。


「ずいぶん人が来るもんなんだね」


 私の隣でお凛さんがホールを見回した。いかにも父兄といった人々や、生徒の友達とも見える人々で会場がざわめいていた。三脚を設置してビデオを回す人までいる。


「講師演奏ってのは大地一人なんだね」


 プログラムに目を落とすお凛さんが言うとおり、一番最後に大地が演奏するらしかった。


「新人の講師は必ず出演するみたいですよ」


「なるほどね」


 私たちがそんな会話をしているとき、ブザーが鳴った。演奏会は初級コースの子たちから始まり、どんどんグレードが上がっていく。中には合奏もあった。緊張のあまり演奏の途中で止まっちゃう子もいたり、明らかなミスもあったけど、頑張ってる姿が見てて微笑ましい。なんだか、こっちまで手に汗かいちゃうけど。


「さて、次が大地か」


 お凛さんが手を揉み合わせて呟いたとき、大地がチェロを持ってステージに出て来た。


「大地先生! 頑張って!」


 数人の黄色い声が上がり、ちょっとだけ会場が笑いに包まれる。大地ははにかんで、深々と礼をした。ぽつんと置いてある椅子に座り、エンドピンを床につける。


 大地の笑みが消えた。チェロを包むように弓を構えた大地の目には、もう会場なんて映っていない。彼に見えているのはチェロ、そしてバッハとの対話。

 すっと始まった無伴奏チェロ組曲第一番が私の胸に降り積もる。緩やかな波のように押し寄せる音色たち。図書館で遠くから彼を見つめていたときのように、静かに加速して、余韻を残すプレリュード。それに続くアルマンドは穏やかな大地の笑みを思い出させた。クーラントは彼の知らない一面を次々見つけてドギマギした日々みたい。緩やかなサラバンドは、まるで彼の隣で安らかな気持ちで眠りにつくときのよう。寝顔を初めて見たときの、こみ上げる愛しさのようなメヌエット。そして最後のジーグはまるで、おどけて私を笑顔にしてくれる大地そのものだ。

 

 なんだか、演奏がすすむにつれて、今までの大地の姿がフラッシュバックした。心の中で彼に話しかける。

 ねぇ、大地。私ね、このチェロの音色みたいに優しい大地がずっと、私を笑顔でいさせてくれたのを知ってる。大地が誰よりも私を好きでいてくれるのも知ってるよ。だから私は、大地がそばにいるときは、物怖じしないでいられる。ごめんね。十年以上も傍にいてくれたのに、私って馬鹿だ。結婚を意識して欲しがってばかり。その理由を問いただす勇気もないのに。

 大地が私をどれだけ好きかも知ってるのに。どうして好きになったかなんて理由なんていらないくらいに。なのに、どうしてこの心にどす黒いものが浮かぶようになっちゃったんだろう? 今までは素直に、大地の愛情を感じているだけで良かったのに。気持ちが迷子になったみたいだよ。


 演奏が終わると、会場から一斉に拍手が巻き起こった。お凛さんも唇の端をつり上げて、ゆっくり手を叩いている。私の目には涙が溢れていた。大地は立ち上がってにこやかに礼をし、ステージの袖に消えていった。


 その途端、会場からアンコールが湧く。後ろの席から、こんな会話が聞こえた。


「講師演奏のアンコールって毎年恒例ね」


「先生方も楽しんでるみたいよ」


 そんなの初耳だ。驚いていると、チェロを抱えて大地がまた登場した。その後ろから、数人のスタッフが駆けて行き、奥に寄せたピアノを手前に持って来る。

 そして登場したのは美穂さんだった。大地と美穂さんが並んで、深々と礼をし、顔を見合わせて笑う。

 ギクリとした。美穂さんは肩を露にしたワンピースで、髪を結い上げている。彼女が色っぽいせいか、隣にいる大地まで大人びて見えた。私の知る無邪気な大地ではない。


 あぁ、まただ。私は唇を噛む。まるで水に黒いインクを垂らしたように、胸が重い色で染まっていく。


 大地が椅子に座り、チェロを構えた。さっきはステージに向かっていたのに、今度はピアノを見据えるように座った。彼の左側の横顔が、美穂さんに目で合図を送っている。美穂さんはピアノに向かい、大地に笑みを送り返した。交わされる視線と無言の会話。それは音楽家同士でなければ、決して立ち入れない信頼の証。いつの間にか、私は拳をぎゅっと握っていた。


 ポロン......と美穂さんのピアノが呟くように鳴った。大地のチェロがそれに応えるように囁く。ピアソラの『リベルタンゴ』だ。

 こんなに静かな曲だっけ? そう思った途端、大地のチェロが加速し、熱っぽい旋律を高らかに歌い出した。

 美穂さんのピアノは呻くように鳴っていたけど、大地のチェロに合わせて脈打つリズムに変わる。白い指の紡ぐ音色が、この心をざわつかせる。こんな顔の彼女を初めて見た。何かに魅入られた顔だ。彼女を支配しているのはピアソラの世界なのか、それとも大地の音色なのか。


 大地のチェロは扇情的で、焦らすようでもあり、噛み付くようでもあった。目を閉じ、甘い情熱を切なげな顔で感じている。二人とも演奏しながら、時折恍惚とした笑みを浮かべて見つめ合う。


 前に、大地が言っていた言葉を思い出す。


「本当に良い演奏をしているときは、鳥肌が立つんだ。他に何も考えられない。最高に気持ちいいんだ。千里を抱いてるときみたいにね」


 今、まさしく彼の肌は粟立っているだろうと直感した。彼のその熱のこもった目が、そしてうっすら開いて笑みを浮かべた唇が、そう確信させた。

 何かを期待するような顔で、彼は彼女を見つめた。彼女がふっと笑みを浮かべ、すかさず匂い立つ旋律を送る。大地の口の端が満足げにつり上がった。


 貪るように情熱を歌い上げる大地。本能のままに体を揺らす美穂さん。むせるような湿り気を帯びた音。

 甘いため息を思わせるピアニッシモの後、今度は急激に音色が荒ぶる。そして、果てるように音が止んだ。


 一瞬だけ会場は静まり返る。次の瞬間、今までで一番大きな拍手が地鳴りのように巻き起こった。


「先生、かっこいい!」


 飛び交う声に、二人は清々しく笑い、立ち上がった。ステージの手前で寄り添い礼をすると、眩しいくらいの笑顔を交わす。


「千里?」


 お凛さんに呼ばれるまで、気づかなかった。私は拍手するのも忘れて、二人の姿に見入っていた。

 たった数分の演奏なのに、まるで何十分も見せつけられた気がした。薄暗くて良かった。この顔を誰にも見られたくなかった。嫉妬に狂いそうな、この顔を。

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