再来の時

 ぼくの部屋の壁に顔のようなしみが現れたのは、誰もが知る有名なミュージシャンが死んだ日だった。そのしみを彼と繋げたのは、そのしみがあまりにも彼の顔に似ていたからだ。こちらを凝視するその顔からぼくは目が離せず、ずっと見ていると、ゆっくりとだけど、口の部分が動いていることに気付いた。恐怖よりも先に興味がわく。あのひとを思わせる顔は何を言っているのだろうか、と。


 音楽業界の端っこにいる無名のぼくにとって、彼は雲の上のような存在だったけど、一度だけ会ったことがある。憧れのひとに会うと大体は幻滅することが多いものの、実際に会った彼は穏やかなイメージそのままの人物だった。もともとの憧れがさらに強まる、というのは業界に片足を突っ込んでからは初めての経験だったかもしれない。


 そんな彼が死んだ。


〈――さん。路上で暴漢に刺され……、暴漢はその場で取り押さえられ……〉

 神妙な表情で伝えるアナウンサーの声がその日だけはやけに耳ざわりに感じられて、思わずぼくはそのニュースを消していた。


 音楽の道に進む、と決めたのは彼の影響であり、彼は大げさではなくぼくの人生を決定づけたひとだった。


『そう言えば、ここのスタッフに聞いたんだけど、きみ、ぼくが住んでいたアパートで暮らしてるって本当……?』

 初めて会った時の彼の表情が頭に浮かんだ。


 部屋のしみが表情を笑みに変える。そう彼もあの日は、こんな表情をしていた。


 学生時代から有名人だった彼は、ぼくにとって憧れだった。独特なハスキーな歌声と激しくかき鳴らされるギターの音に何度も酔いしれたけれど、何よりもぼくを惹きこんだのは彼のたどった人生だった。


 彼はぼくと同郷で、ぼくが知る限りI町出身の唯一の有名人だった。彼が自分の出自を憎んでいることはファンなら周知の事実だ。雑誌やテレビで繰り返し語られてきたことでもあり、故郷は捨てた、という発言がきっかけで彼は地元では嫌われ者だった。


 ただぼくには、そんな言葉が嬉しくて仕方なかった。

 彼が語る自身の境遇に、ぼくは自分の人生を重ねた。


 勉強もできず貧乏な家に生まれ、偏見の強い両親にゆるやかに支配され続けていたぼく、と似ていたのだ。


 この田舎で生きて、死ぬしかないのではないか、と深い絶望に苛まれていたぼくにとって、彼の存在は光明だった。


 彼のようになりたい、と思った。

 いや、彼になりたかった。

 ぼくは、彼の人生をそっくりそのまま体験するような人生を送り始めた。


 彼がかつて家出で上京したと知れば、高校三年の夏、ぼくはギターを片手に地元を捨てた。夜中、誰にも告げることのない家出は簡単に成功した。


 彼がかつて高円寺のぼろぼろのアパートで暮らしていたと知ったら、そのアパートを探し出し、そこに住んだ。


 そんなぼくに、ある知人は「あのひとはあのひとで、お前はお前だろ。自分らしさをうしなった音楽活動なんて虚しくないか」と言った。ぼくはそれが許せずにその知人を殴った。それ以降、その知人とは会っていない。優しさから苦言を呈してくれたのだとは分かったけれど、その言葉に耐えきれなかったのだ。


 彼と実際に言葉を交わしたのは一度きりで、出会いは偶然だった。しかし彼のほうも、熱烈に自分のことを信奉している若手がいると認知はしていたらしく、『あぁ、きみが例の……』と気さくに接してくれた。


『そう言えば、きみは会ったのかい?』その時の会話は緊張でほとんど覚えていない。ただひとつ覚えているのが、この会話だった。


 何のことですか、とぼくがたずねると、彼は『幽霊だよ』と手を前に出して、垂れ下げる仕草をした。


『僕はあの部屋で、さ。幽霊に会ったんだ。誰もが知る有名な、若くして事故死した歌手だよ。そんな彼もあの部屋に住んでいたらしくてね。僕の憧れが目の前にいるって思うと、怖いというより嬉しかった。そんな彼が、ね。言ったんだ。俺はまだまだやり残したことがある。お前の人生を俺にくれないか、って……。僕はどうした、と思う』


 その時は冗談で言っているのだと思って信じていなかったけれど、

『あの伝説の歌手の再来。魂が乗り移ったかのよう。それからだよ。そうやって僕が周囲から高い評価を受けるようになったのは。もしも同じ状況になったら、きみはどうする?』

 と薄い笑みを浮かべて、そうぼくに告げたその言葉には、その出来事が真実だと思わせるような響きがあった。


 ぞっとした。その背筋の冷える感覚が今もぼくの記憶の重要な部分に貼り付いて、離れない。


 部屋のしみは、あの時の薄い笑みを浮かべた表情とまったく同じだった。


 しみは徐々に大きくなり、ぼくは圧迫感を覚えつつも、何故か恐怖は感じない。どこか安心感があった。


 声が聴こえる。

 それはぼくが憧れ、聴き続けたひとの、絶対に聴き間違えるはずのないハスキーな声だった。


『まだだ……。まだ終われないんだ。俺はまだまだやり残したことがあるんだよ』なぁ……、としみは言葉を続ける。『お前の人生を俺にくれないか。前に言った質問の答えを聞かせてくれないか?』


 彼の体験を追い続けたぼくにとって、この不可思議な体験は必然だったのかもしれない。他のひとでなくて良かった。もしぼくではなくて、他のひとがこの体験を追い掛けることになっていたとしたら、ぼくは永遠にそのひとを憎んだだろう。


 答えは、決まっている。

 ぼくはしみに手を伸ばした。

 しみからかすかに溜息のようなものが漏れた。


「失格だな」

 と聞こえたような気がしたけれど、その意味がぼくには分からなかった。




     ※




「『――の再来か? 魂が乗り移ったかのようだった。その歌声に身を浸らせながら、筆者はただその奇跡を噛みしめていた』か……なぁ、ちょっと大げさ過ぎやしないか?」


「だけど編集長だって一緒にライブに行った時、そう思いませんでした? 彼が死んだ一ヶ月後にまるで彼にしか思えないような歌声を披露する若手が現れるなんて……。まるで彼のようだ、って思うほど似てましたよ」


「似てた……?」


「えっ、似てませんでした?」


「似てた、というよりは、同じだったな。コピーを見ているようだった」


「ほら、編集長だってそう思うでしょ。あれは奇跡ですよ」


「彼は、さ。彼だけでいいんだよ。もう既にあるものとまったく同じ何かなんて俺は評価しない」


「厳しすぎません? 彼だって昔は先人の二番煎じだって言われた時期もありましたが、確固たる評価を手にしたじゃないですか」


「その後の努力で確固たる自分らしさを手中に収めたからこその、確固たる評価だよ。別に俺だって、あの子の今後まで否定しようとは思ってないさ。あくまで現段階では、評価できない、だ」


 彼のミュージシャンとしてのすべてを受け継いだぼくだったが、結局彼のような名声を得ることはなく、大嫌いな地元に戻り、あまり楽しいとは言えない生活を送っている。


 今でもぼくは後悔していることがある。


 、と。

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