第3章 憂える月 (1)
「おぃ、猿! ちゃっかり便乗すんな、お前の相棒、筋斗雲はどうした?」
飛翔してすぐの騒動だ。
『むっムキキ!! ("き、きさま!!")』
「喚べよ、ほら。俺様が乗り心地のほどを試してやるから」
ほれほれと催促する。
『ムキムキキッ!! ("ぶっ飛ばすぞ!!")』
「おゃ? 喚べない理由でもあるのか? まさか喚べない、とか言わないよな?」
カッカと大笑する。
「どうした、悔しかったら言い返してみせろ。孫悟空、猿王の末裔なんだろ?」
『ーー!? むきゅ……』
しゅんとして嘉田は、明宝の二つの膨らみに頬をうずめた。
「情けねぇな、主人に泣きつくとは。てかいい加減そこから出ろ。女の懐で泣きいれるなんざ、漢のすることじゃねぇ!」
やんやと一方的な言い争いになったあと、明宝が割ってはいる。
「朔、その辺にしておくのじゃ、言葉がすぎるぞ。嘉田はこれからゆっくり学んでゆけばいい。まだ幼いのじゃから」
よしよしと嘉田の頭部をひと撫でする。
「メソメソするでない。これから嘉田の育った華南にむかうのじゃ。故郷に錦を飾るのであろう?」
『むきゅぅぅぅ("明宝ざまぁぁぁ")』
「…………やれやれ」
ふぅと朔は重いため息を吐く。
「漢が女に泣きついて恥ずかしくねぇのか?」
『ムキキ("何だと!?")』
わずかに振り返る。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃな顔だ。
「女子供を守れない漢はクズだ。お前はそれでいいのか? 女子供に守られる愛玩で 」
ご先祖様が泣くぞ、そう朔は吐き捨てる。
『!?』
さすがにご先祖様に汚名を上書きする気はないらしい。
嘉田の顔つきがかわる。
ムキ!! と一声をあげるより少し早く、明宝ががなる。
「朔! 嘉田に難癖ばかりつけおってーーーー」
バッと袖をつかむ。するとカックンと首がうなだれた。
「ーーーー死んだ?」
んなわけない。
袖を引っ張りすぎて、おかしくなったのか?
耳をそばだてると規則正しい寝息がきこえる。
「ぐぅぅぅ」
「寝ている?」
困惑していると瓊蘭が首をもたげた。
『ぁぁ、朔ちゃんを寝かせてあげて』
「どういうことじゃ?」
『よくあることよ。朔ちゃんは恐ろしく寝つきがいいの。話していたと思ったら急に居眠りしだしたり。よほど疲れているのでしょうね……』
じっと明宝は朔を見る。
「確かに今宵一年ぶりに帰着したばかりじゃ」
『だったらなおさらよ。華南に着いたら元気いっぱいに回復しているはず。だから今はそっと寝かせてあげましょう?』
「……そうじゃな」
明宝の一年と朔の一年の経過には隔たりがある。
そうまでして何が朔をかりたてるのか。
長旅をして修行を続ける朔の寝顔を、明宝は嘆息まじりでじっと見つめた。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
とん、と背中を押された。
『ーーーーぃ、イヤだ、入りたくないっっ』
語尾にまとわりついた白濁がもやりと広がってすぐに跡形もなく溶け込まれた。
戸にしがみつくも棒の柄でぐぃぐぃとおしこめられ、ゾゾと肌が粟立つ。
そこは瀟洒な邸にあるのが不思議に思えるような、風が吹けば屋根が飛びかねない粗末な納屋だった。
中はがらんどうで寂しいぐらいに何もない。
出入口には血の色を連想させる深紅の沓がたちはだかり、くぐり抜けられないほど小さな格子窓が一つ。
蔀をはねのけ、びゅぅ、とうねる風鳴りがして北風が容赦なく吹き込み、吹きさらしの外気とそう変わらなかった。
早くおしっ、とばかり、てぃっと最上級の赤い沓で足蹴にされた。
カックンと崩れ板の間へ前のめりに膝をつく。
『!?』
バッと身を翻すと同時、膝と膝の間さへ棒がドンッと突き立てられる。
咄嗟に股間を押さえながら跳ねるようにして後ろへといざる。
萎縮し、どこもかしこ縮みあがった。
『よくお聞き、この化け物!』
義母の手にはお決まりのお仕置き道具がしかとぎられていた。
『お義母さん、ごめんなさい……僕……良い子にするからっ』
天人がまとうような美しい衣の裳裾にまとわりつき、生さぬ仲の一片の愛にすがった。
『そんな口先三寸はおよし、言い訳など聞きたくもない。世の中結果がすべてさ。次こそはと言いながらお前はそれをできたためしがあるのかい? 覚悟はできておいでだね、その手をおはなし。さぁ袍を脱いでそこにお座り』
義母はにじりよる。
袍を脱ぐのを待ちきれない様子でお仕置き道具を振りかざす。
僕は手早く袍を脱ぎ、小石のごとく身を縮め、わずかに顔をあげた。
『なんだい、その目は!! お前はそうやっていつもアタシを馬鹿にして!』
『僕、バカになんてしてないよっ! お義母さん、お願いだから信じて!!』
『はん。見れば見るほどお前の母親そっくりの人を小バカにしたその目つき。不愉快だ』
義母の機嫌をそこねる目つきがどんなのか。わからず、ぎゅと目を瞑る。
『いつになったらお前はアタシの言い付けを守れるようになるんだいっ。このっこのっ!』
棒が降りおろされる。
着飾った衣が崩れ、髪を振り乱し。名家の妻女らしからぬ様相。才色兼備などどこ吹く風。
亡き夫を粛々と偲ぶ未亡人の姿はどこにもなかった。
『……ぁ……』
打たれるごとに刻まれていく義母の愛。
えぐるようにして同じ所ばかりが打たれ、粘り気のあるものがしとどに流れた。
みるみる床板は血塗るれ猩猩緋色にそまる。
殺られる、そう死を意識して、暗い顔つきで虚空をながめた。
『…………』
そうだ、逃げよう、棒を振り上げたあの一瞬の隙をついてーーーーそうよからぬ事を企んだ。
そうこうするうち予期せぬ好機到来。義母の手にした棒が空を斬る。
慌ててその場を飛びのこうとした。
『うわっ!?』
だが床板がぬめって、つるっと顔から突っ伏してしまった。
『ぅっ!?』とうめき、顔中が血まみれになってから頭の芯が凍りつく。
しまった、そう思った。
その途端、報復が背中にそそがれる。
『天罰覿面ってのはこのことさ。許さないよ!』
『……ぅ……』
激痛によって口元をゆがめる。
うめくたびにカッカとして義母の手に力がはいる。
"ーー痛いょ……誰か助けて…………"
そうしているうち逃げる気も失せていく。
このまま痛みに耐えさえすれば義母の気も晴れそのうちに放免されるに違いない。
だったらやり過ごそう。
そう、これは一頻りふる雨のようなものだ。
『…………』
唇を引き結び、つっと顔をあげる。格子窓に目がとまった。
蔀の隙間をぬって小さな鵞毛がひらひらと舞い込む。
ゆらゆらと空を漂って僕の鼻先にとまった。
それはすぐに溶けて消え、口角を伝う。
もはや冷たさを感じなかった。
痛覚は麻痺してとても鈍く、ただ身体の芯がひどく冷えていることだけはわかる。
次々に舞い込む鵞毛に手を伸ばし、その白くてキレイなものが血に染まらぬよう、そっと、包みこもうとしたけれど、ついには指先すら動かせなくなっていた。
("……お義母……さん")
人を傷つけるその手は慈しみをもって包み込むこともできるだろう。
罵倒するその口も慈愛に満ちた優しさを紡げるだろう。
何が憎くて、どこが許せないのか。
そんなとりとめのない事を考えているうちゴホッと咳き込み、おびただしい鮮血をまきちらした。
『……………もぅ……………やめ…………』
乾いた音が遠のく。
『ハァッ、ハァッーーーーもうお前の面倒なんかみるのは御免だね。なんだい、あの有り様は。十二にもなって一人でできないのかい。いい加減におし!』
棒をふりあげた。
『……僕……ちゃんと良い子にする……から……お義母さんに気に入られるように……』
『!?』
氷のように表情をかたくした義母の頬を、つっと返り血がしたたり落ちる。
『良い子? ふん。お前のせいでアタシャいい笑いものだ』
カランと麺棒を投げ捨て、しげしげと見下ろす。
すぅと白い手がのび、髪を根こそぎ引っこ抜かんばかりにわしづかんで辺りを引きずりまわす。
足蹴にしてやっと気が晴れたのか、ぐったりと項垂れた前髪つかむ。
ヌッと義母の顔が近づき、美爪のほどこされた長い爪がいとけない頬をなでやると鮮やかな朱唇がほころんだ。
『これはお前のためなのさ、わかるね? 良い子にしな。さもなくば、また、お仕置きだ』
パッと前髪から手がはなれ床板に顔面が打ち付けられる。
ガッと鈍い音がする。
『フ、フフ……』
内にためこんだ毒気をはきだした義母は長い裳裾を翻してほてほてと戸口へとむかい細く開け放ち、心地よさげに風にあたる。
そのまま納屋をでてから乱れ髪に手の平をそわせ、ふいに振り返る。
身動ぎひとつできぬ様を一瞥するその表情はこの上もなく至福そうだった。
『ぁぁ、これでやっと眠れる』
陽のもとにさらされた義母の沓が血塗るれて赤黒い。
いつのまにやらしんしんと降り積もった雪をどこか漫ろな足どりでさっくりと踏みにじれば朱ににじみ、二歩ほどで足をとめて何かを愛でている。
納屋の入り口には義母の好きな白い寒椿が綿帽子をかぶり氷雪の彫像のように首をもたげていた。
義母はそれをじっと見つめている。
『…………』
どうしたら義母の気に入るような子供になれるのだろう。
何故こんなにも痛めつけられるのか。
それでもどうして僕は死ねない?
いっそ殺してくれたらいいのにーーそう物思いにふけるうち、何のきなし『どうして?』とこぼれおちる。
『どうして、だって? バカなことをお聞きでないよ。そんなこともわからないようじゃ、また、お仕置きだ』
踵をかえして納屋の戸をくぐる。
ーー嗚呼、また始めからやり直しだ。
息の根のとまるその瞬間を見届けるまで。
継子そそいでやれる愛を人はもたないのだ。
無償の愛とは血肉をわけた母子の間にしか成立しない絆であるということにこの時はまだ気づけなかった。
弑するほどにうとまれていたことも。
父ありし日の朔は、一族の次期統領と目されていた。
だが十点千字は継母の謀。知らずして人魚の肉を食まされた。
それからというものその扱いはぞんざいになり、まさしく喪家の狗。養ってくれるはずの養母は養育そのものを放棄し、はては軒下におわれ、お仕置き室で夜露をしのいだ。
『…………』
寝食をせずとも死ねないこの身体。だからといって寝食を必要としないわけでもない。
食事を絶たれてから随分たったよく晴れた日の朝未き。
腹の虫がなってズタボロの身体を無理に起こしてゆっくりと立ち上がる。
するとどこからともなく妙によい臭いがして鳴神のごとく鳴く腹をさすりあげる。
つっと見回し、軒下のすぐ横におかれた小さな桶に目をとめた。
遠目にも山のように残飯が積み上げられ、今にもこぼれ落ちそうだった。
それがこの家の財力を物語る。
これも義母の策略か。もしや毒入りかもしれない。
そう疑いつつもほてほてと歩みより、くん、とひと嗅ぎする。
すると残飯から好物の臭いがした。魚の煮付けだ。それもタイの尾頭付き。他にも伊勢えびの和え物など祝い膳でしか食べられないようなご馳走が悉く手つかずのまま残飯とされていた。
パタパタと尻尾をふるかわりに朔は髪を振り乱し駆け出す。
早く食べないと畑に処分されてしまうだろう。
残飯の山を崩し、お目当てのものをまさぐる。
すぐに魚の尻尾が見え、いざたべようと手にしかけたそのとき、黒い影が近づいた。
『…………』
その影が誰のものなのか確認するまでもない。義母ぐらいしか訪ふ面のはなかったから。
朔はよく躾の行き届いた犬のようにお行儀よくお座りをして義母を出迎えた。
『アタシの目を盗んで残飯なんかあさってーーーーお仕置きだ。おいで』
ニッと細く笑む。
もはや義母の目から生者の輝きはうしなわれ狂気じみてみえた。
はめられた、そう思った。
朔は苦々しく唇を引き結び『はい』と頷くいがいなかった。
襟ぐりをつかまれ、ずりずりと引きずられていく。
その手には麺棒がしかとにぎられている。
足蹴にされ納屋へ放り込まれた。
『…………』
朔は板の間に膝を折ってお座りをし、いつものように袍を脱ぎ、その横に折り畳んだ。
『いつになったらお前は死ぬんだい。毒をもっても叩いてもケロッとして。どうやったら朔、お前は死んでくれる?』
そう罵る義母の言葉が胸に突き刺さる。
義母は麺をうつかわりにしきりに肩や背中を打ち、そしてまた風のように去っていく。
それから春になり、夏が過ぎ、とみに変化もないまま秋がきて、また冬が巡った。
義母は律儀に三ヶ月ごとに現れ、同じ事が繰り返された。
そうこうしているうち、日を追えば追うほどに義母の身体は一回り小さくなり、対照的に朔の身体はふた回りも大きくなった。
それが義母の狂気に拍車をかけるようだった。
まるで人喰いの山犬が軒下で成長し、そこに収まらなくなるのをおそれるかのように。
『マダ……死ンデ……? もうあたしゃ限界だ。お前が死ぬのをこの目でみてからでないと死んでも死にきれない。この通り、後生だから死んでおくれ。ひとおもいに楽にしておあげだよーーーー死ね、この化け物!!』
義母の手には包丁がにぎられていた。
刺されたのか、殺されたのか。
その時の記憶が霞みがかかったように曖昧ではっきりと思い出せない。
でも、きっと、それからだ。
目に見えぬ異変が急激に朔を蝕んでいった。
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