第2話
――二〇一八年、冬の地方都市――
「えー、日本という国には古くから鬼にまつわる伝説が数多く……」
文化人類学の年老いた先生は俺たちに丸めた背を向け、黒板にチョークを走らせながらぼそぼそと話していた。きっと、教室に誰もいなくても気にせず話し続けるだろう。
とても楽な授業だと思う。ただ退屈なだけで。単位が取りやすいと聞いて選択したが、ここまでとは思わなかった。視線をくたびれたスーツから窓の外、どんよりとした雲に向けた。晴れ予報だというのに、今にも降り出しそうに見えた。
真面目に授業を受けていれば降らないかもしれない。神様は日頃の行いを見てるっていうしな。
もう一度、前を向くが数秒ももたなかった。
誰だ、あれ? 前から二列目に座っている金髪ショートカットの女。あんなの前からいたか? 最後列の俺からは、せっせとノートを取る後ろ姿しか見えない。まあ女なんて髪形や色をすぐ変えるからな。知ってるやつがイメチェンしただけかもしれない。
そんな事を考えていると窓ガラスにポツポツと雨が当たり垂れていく。土砂降りになるのにさほどかからなかった。
頬づえをつきっぱなしの腕から顎を退かし、机に突っ伏す。
雨音に負けないためか、先生の声が力強くなった。
「……鬼の正体は異国からの来訪者であるという説もありまして……」
それにしても、雨、止んでくれないか? 傘、ないんだけど。
期待を込めて窓の外を見た。黄色くなり始めた
結局、授業が終わっても雨の勢いは衰えなかった。
エントランスから手を出して、すぐに引っ込めた。これは駄目だ。こんな冷たい雨の中、傘もささずに帰ったら間違いなく風邪をひく。
こういう時は談話室で時間をつぶすに限る。コーヒーを飲みながらのんびりしよう。どうせ予定なんて何もない。
その談話室は、校舎の隅に追いやられているせいか、あまり人が寄り付かない。そこが気に入っているが、今日は先客がいた。さっきの金髪。古いカップドリンクの自販機前にいた。何度もボタンを押しているが自販機は無視を決め込んでいた。
ああ、またカップが引っかかったか。古いから調子悪いんだよな。
彼女はしつこくボタンを押している。次第に力が強くなっていくのが談話室の入り口からでもはっきりわかった。
ちょうどいい。恩を売りつつ正体を確かめてやろう。歩み寄る途中、手洗い場の鏡でちらっと自分の姿を確認した。短くそろえただけの髪、安物のパーカーに、これまた安物のコーチジャケット。うん。見るんじゃなかった。
金髪は俺に気づきもせず、悪態をついて拳を振りかぶった。
「ちょっといいかな?」
驚き、見開かれた青い瞳。高い鼻。外人か。言葉、通じるか? いや、日本語の講義に出てたんだ。問題ないだろう。
彼女は握りしめられていた拳をさっと背中で隠す。驚きの表情は罰が悪い顔に変わった。
「あの、ごめんなさい。壊すつもりじゃないの。ただ……」
「わかってる。飲み込まれたんだろう? 俺に任せて」
思った以上に
彼女が見守る中、自販機の横に立つ。機嫌治せよ、と声をかけて側面の中央を強めに張った。バン、と談話室に響く音に彼女はわずかに身をすくませた。
「ごめん。驚かすつもりはなかったんだ」
少し遅れて、カップが落ち、コーヒーが注がれる。安い豆だろうけど良い香りだ。
どうぞ、と差し出すと、口を押さえて驚いていた。
「***!」
「なんだって?」
「すごいって言ったの。とっさに出るのは国の言葉なのよね。それより、今のは何? 魔法? 日本で魔法を使える人に初めて会ったわ!」
目を輝かせながら身を乗り出してきているのにユーモアを欠かさないとは、さすが外人。ユーモアにはユーモアで返そう。片目をつぶり、口に人差し指を当てた。
「その通り。俺は魔法を使う。バレると大変だから秘密な」
「ええ、もちろん。私も人前で使うなって言われているから」
俺の最高の返しに、彼女は大真面目にうなずいた。
それから雨宿り同士で魔法談義に花を咲かせていると彼女のスマホが鳴る。迎えが来たらしい。
「ありがとう。楽しかったわ。私はアリス」
「俺は
またね、とアリスは走り去った。少しして談話室の窓から黒塗りのセダンに駆け込む姿が見える。後部席に乗ったアリスは窓を開けて手を振ってくた。振り返している間にセダンは静かに走り出す。
思わぬ雨でだったが、楽しい時間を過ごせた。たまにはこんなのも悪くない。そう思った。
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