第10話 竜討伐
背の高い男の衣服の裾に光る氷の粒。
僕は戸惑った。僕が現出させた水が、凍った?
「凍っていると消すことができないかな」
首を傾げる僕の頭上、どこかからかうような声音が降ってくる。ちょっとむっとして軽く振り仰いだ相手の、その褐色の目の中、赤い光が煌めいて直ぐに消えた。
赤銅色の羽の色。
「でも溶ければ大丈夫だろう、ほら」
また思考が横に反れそうになった僕の目の前、男の指が衣服の裾をもう一度指し示す。確かに。氷はもう融けかけて、床に小さな水たまりを作り始めていた。
僕は詠唱無しで一瞥、それだけでその水を気化させた。
「お前は魔法が使えるのか」
なんとなく、さっきのむっとした気分が抜けなくて、いつもより公主っぽく話してみる。
「いや、ちょっとだけ」
なのに相手は全然気にも留めずに、指先でちょっとだけ、を示してくる。なんだか僕を子ども扱いしているみたいだ。
「それより、どうやら君は見かけによらず偉い人間みたいだな。この者達は君の部下だろう」
「……うん、まあ」
見かけによらず、ってなんだ。見たまんま、僕はこの公国の公主だ。いらいらが腹の中に溜まっていく感じ。僕の様子に気づいたらしく、ラジルが僕の肩をぽん、と叩いて、会話を代わってくれた。持つべきものは親友だ。
「そういうそちらは何者だ。旅の者にしては少々物騒なものを持っているようだが」
「ああ、これは、まあ商売道具、かな」
男は軽々と大ぶりな剣を持ち上げた。鞘に入ったままだから見かけよりずっと重いのだろう。……見かけによらず、さっき言われたその言葉を思い出してまた腹が立ってきた。なのに、
「へえ、じゃあ剣士か。今、どこかに仕えているのか」
ラジルの声が軽くなったのが分かる。すごく嫌な予感。剣を持った男がわざとらしく顔をしかめた。
「それが無職なんだ。君たち、俺を雇ってくれそうな就職口を知らないか?」
「ステファン、どうだろう、ちょうどいいじゃないか!」
僕の親友ラジル、どうしてこう短時間で僕のことを裏切るんだ。
この公国の人事権の一切を決定できる権力を僕はもっている。公主だし。
理想的、そう、理想的ではあったのだけど。あんまり理想的過ぎて、なんだろう、逆に反発する気持ち。
でき過ぎた話のような。
「俺の名前はヴィーラント。ヴィランと呼ばれることが多い。どうだろう、ええっと、ステファン、どうやら人手が足りないんだろう?俺を雇ってもらえないかな」
ちょっと考えさせてくれ、と僕はラジルの腕を掴んで少し離れたテーブルに移動した。巡検師団の他の者達がヴィランと話を始めたみたいだけど、気にしている余裕はない。
「どこの国の者だろうな。留学した王都でもあのようなものはあまり見なかった気がする」
ラジルがその様子を遠目に眺めながらのんきなことを言う。僕はぜんぜん面白くない。
「そんな素性が分からない奴をそう簡単に雇えない」
「ステファン、でも人数合わせにはちょうどいいだろう。巡検の五日間だけの契約でいいんだから、彼に入ってもらおう」
何故だか僕は素直に頷けない。言葉にならない唸り声を零す僕の顔を覗き込んでラジルが言う。
「どうせステファンのことだから、もうこうなったら可愛い女の子か、お色気担当のお姉様を雇おうとか思っていたんじゃないのか。それこそ許さないからな。国のための公務だぞ、この巡検は。マーリンが知ったら城に入れて貰えなくなる」
ラジルにいろいろ見抜かれていた僕は、無言で席を立った。ラジルが少し遅れて付いてくる。
僕は食堂を横切って、巡検師団とヴィランが談笑しているテーブルに近づいた。なんだってこんなに馴染んでいるんだ。
テーブルの脇に立った僕に気づいて、巡検師団の皆とヴィランがこっちを見た。僕の険しい表情に皆の背筋が伸びる。よろしい。僕はこの公国の公主だ。
「ヴィーラントといったか、今この巡検師団には確かに一人足りない。かといって、そう気安く見知らぬものを雇うわけにはいかない」
重々しく告げる僕の言葉に、巡検師団とヴィランが顔を見合わせる。だから、なんでそんなに仲良くなっているんだ!
「したがって、」
僕がその次の言葉をつづける前に、宿の主人が大きな音を立てて食堂のドアを開け、中に転がり込んできた。さっきといい今といい、今夜、宿の主人はそういう星回りのようだ。
「ステファウヌス様、王の使者がこちらに見えておいでです」
王の使者。
僕に巡検を命じたあの使者達だろうか。まだこの国内にいたのか。
食堂のドアの外、中に入ろうとはせず戸口を塞いで甲冑姿の使者の姿が見えた。
城に来たのと同じ使者達だ。強い違和感。
僕はこれまでになく強い緊張に手足が強張るのを感じた。なにか、おかしい。
でもなにが。
食堂の入り口、光と闇の境界を挟んで僕は王の使者と対峙した。
「王都から、水の公主ステファウヌス様の巡検が予定されている付近で竜が出現した、という情報が入った。水の公主に於かれては、巡検の予定を差し止め、急遽、竜討伐に向かってほしい」
「竜、ですか」
「明朝早く発つように。ご存じのように、竜を退治できるのは公国の
魔術による支配を受けていない野生の竜を退治できるのは、魔術師の中でも公主の肩書を持つ者だけ。
巡検師団の構成は整っているかという点だけ朝の出発前に確認したいとだけ言い残して王の使者は夜の中に消えていった。野営でもしているのか、この宿にとまっていってはどうか、という言葉は僕の口から出ることはなかった。
考えなければならないことが多すぎた。
再び現れた王の使者、突然の竜の出現、……城を出る前に思い出した母の記憶。何かが、いや、これは誰の思惑だ?
思考を総動員し始めた僕の肩に、ぽん、と誰かの手が置かれた。
「とりあえず、明日の朝の点呼、人数合わせに俺もいた方がいいよな?」
ヴィランの馴れ馴れしい手を肩から払って、でも僕は彼が言っていることを否定できなかった。ヴィランはそんな僕を気にも留めずに後ろを振り向き、僕の巡検師団に向かってこう言った。
「あらためて、明日から一緒に行動させてもらうヴィーラントだ。これからもよろしく」
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